急いで薄暗い教室内に戻って影子を探す。狭い段ボールを潜り抜け、たどり着いた先には……
「影子!」
カツラの長い髪を振り乱し、血糊まみれになった女生徒――一ノ瀬が、影子の首を絞め上げているのが見えた。
「かっ……はぁ……!」
「どうした一ノ瀬、やめろよ!」
なんとか体当たりするものの、一ノ瀬のからだは岩のように頑強で、首を絞める腕は緩まない。ひゅうひゅうと鳴る息の隙間から、影子が苦悶の声を上げた。
「……やられ、た……こいつ、『ナイトメア』タイプだ……」
「『ナイトメア』タイプ!?」
「人間の、影に……寄生して、宿主を……操る……」
途切れ途切れに聞こえた解説に、ハルは顔を青くした。
それでは、一ノ瀬は操られているということだろう。影子のことだ、一ノ瀬ごと『ノラカゲ』を倒しかねない。
「ど、どうすればいい!?」
「……ひかり、を……やっべ、もう、げんかい、かも……」
首を絞め上げられて影にも戻れず、得物も取り出せない影子はなすすべもない。
ひかり、光……そうだ!
ハルは思いついたことをすぐさま行動に移した。
置いてあった椅子を構えると、思いっきり窓に向かってぶん投げる。段ボールで目張りされた窓ガラスは、がしゃーん!と音を立てて破られた。途端、まぶしい陽光が教室内に差し込んでくる。
一ノ瀬の影がくっきりと浮かび上がった。
影子は影になった自分の背中から、ずず、とチェインソウを引きずり出すと、首を絞められながら大きく振りかざす。
マズい、このままでは一ノ瀬が……!
だが、それは杞憂に終わった。影子は振りかざしたチェインソウを振り下ろさず、一ノ瀬の影めがけて下に放り投げた。
しゃ、と影から『ノラカゲ』が分離し、一ノ瀬のからだは糸の切れた操り人形のようにちからを失う。
「一ノ瀬!」
駆け寄って抱き起すと、一ノ瀬は薄目を開けてハルを見上げた。
「……つかもと……」
「大丈夫か? もう安心していいからな!」
その言葉を聞いて緊張の糸が切れたのか、一ノ瀬は完全に気を失った。
「けほっ、けほっ……ったく、こっちの心配もしろっつうの!」
喉を押さえてチェインソウを取り上げる影子が憎まれ口を叩く。
分離した『ノラカゲ』は、巨大な鴉の姿をしていた。ちょうど、エドガー・アラン・ポーの『レイヴン』に出てくる不吉な大鴉のような、陰鬱な姿で翼を広げて滞空している。
ホッケーマスクをつけた影子は、ぶうん!とチェインソウの回転数を上げて大鴉と対峙した。
「せっかくの学園祭荒らしやがって、このド腐れ蛆虫が……クソの中に戻してやらあ!」
床を蹴ってチェインソウを大きく振りかぶる影子。だが、大鴉はひらりとその刃を交わして、段ボールをなぎ倒しながら鋭いくちばしで影子に迫った。
「甘ぇ!」
だが、影子の方が一枚上手だった。チェインソウは使わずかかと落としで大鴉の頭を床に叩きつける。翼の骨が折れたらしい大鴉は床の上でのたうち回った。
「はい、おーしまい!」
その巨体に刃を突き立てるようにしてチェインソウを振るう。頭から真っ二つになった大鴉の『ノラカゲ』は、黒い飛沫となって床や壁に散らかった。その飛沫もやがては蒸発するようになくなってしまう。
「ん、『ナイトメア』タイプはフィジカル弱ぇからな、こんなもんか」
ホッケーマスクに遮られて見えないが、きっと今、そのくちびるには満足げな笑みが浮かんでいるのだろう。
「どうした!? なんかスゲー音したけど!?」
窓ガラスを破る音やチェインソウの音で外の客やクラスメイト達が教室内に押し寄せてくる。慌ててチェインソウをしまった影子を隠し、ハルは必死で言い訳を探した。
「ええと、あの、これは……」
「俺見た! ジェイソンがチェインソウでデカい鳥と戦って」
「一ノ瀬!? どうなってんだ一体!?」
これはいよいよ苦しくなってきた。それでもハルは釈明をする。
「その、影子がサプライズで考えてたアトラクションだよ! ジェイソンVS大鴉! ちょっと一ノ瀬が調子に乗りすぎて窓ガラス割っちゃって、そのショックで気絶してるだけ!」
これはかなり苦しいぞ……と思っていたが、意外にも外野はそれで納得してくれた。
「なんだ、塚本さんのサプライズか……」
「あのひと、なにするかわかんねえからな」
「塚本さんなら仕方ない」
普段の影子のめちゃくちゃっぷりに初めて感謝する。誰も彼もが、『塚本影子の仕業ならしょうがない』と納得して教室を出て行った。
「塚本ー、いちお窓の目張り直しとけよ。あと、一ノ瀬保健室に連れてってやれ」
最後のひとりが教室を出ていくと、後には荒れた教室が残された。裏通路に隠しておいた影子はすでにホッケーマスクを取っている。
「あははははは! よく訓練されたクラスメイトですこと!」
「笑い事じゃないだろ!? ああもう、さっさと教室直して、一ノ瀬保健室に連れてくぞ!」
この分だとちょっと段ボールを補強し直して、窓を塞げば営業は再開できるだろう。へいへーい、と影子は窓の目張りを直しにかかっている。
自分も倒れた段ボールをガムテープで補修して、終わったよと受付に声をかけた。
そして倒れたままの一ノ瀬を肩に担ぐと、
「影子はまだお化け屋敷の仕事が残ってるだろ? 一ノ瀬は僕が連れて行くから」
「保健室でやらしーことすんなよ?」
「しないよ!!」
どこまでも下世話な暴君を残して、ハルは教室を出た。
出たところで驚く。教室の前は人だかりができていた。
「おい、この二年の出し物スゲーらしいぞ!?」
「ジェイソン出るんだって!」
「マジ!?」
予想外に影子の戦いは集客に一役買ったらしい。見る間に教室の前に行列ができていく。その行列を横目に見ながら、ハルは人混みをかき分けて保健室へと向かった。
保健室にはだれもおらず、勝手にベッドを使わせてもらうことにする。一ノ瀬のからだをベッドに横たえ、布団をかけ、自分はそばの椅子に座って一ノ瀬の額にアイスノンを当てることにした。
「……ん、ぅ……」
しばらくして、ようやく一ノ瀬が目を覚ます。悪い夢を見ていたような表情で辺りを見回し、
「……ここは?」
「保健室だよ。君は悪質な客に殴られて、気を失ってたんだ」
さらりとウソをついてアイスノンを額から退かす。
「…………」
「どうしたの、一ノ瀬?」
内心、ウソがバレたのではないかとどぎまぎするが、表情だけはクールを装って問いかけた。すると、一ノ瀬はじっとハルの顔を見て、
「……助けてくれたの、お前だろ」
「い、いや、僕はなにも……」
にらみつけるような視線にいたたまれなくなって、ハルは目をそらした。
「……がと」
ぽつり、一ノ瀬がつぶやく。聞き取れなくて、首を傾げて見せると、一ノ瀬は怒鳴り散らすようにさっきの言葉を繰り返した。
「ありがと、って言ってんだよ! お礼の言葉聞き返すとかマジありえねー!」
「ご、ごめんなさい……」
「あーもう、私もう寝る! 頭痛い!」
ふいっと頭から布団をかぶった一ノ瀬は、そのままふて寝してしまった。
あの一ノ瀬が、自分に向かって『ありがとう』……青天の霹靂とはまさにこのことだ。
しばらくぽかんとしていたものの、次第に笑いがこみあげてきた。
最終的には微笑みながらふて寝する一ノ瀬の背中を見つめる。
なんだ、案外悪いやつじゃないじゃないか。
怖がってた自分がバカみたいだ。
まだ起きているであろう一ノ瀬に向かって、小さく告げる。
「おやすみ、一ノ瀬」
そのまま、ハルは保健室をあとにした。