そしてやってきた日曜日。
ドレスコードがわからなかったので制服を着てきたが、さいわいにもまわりからは浮いていなかった。
夜になっているので、当然ながら『影』である影子は眠らなければならない。そこも考慮に入れてのスケジュールなのだろう。つくづく狡猾な男だと思う。
約束の十分前に待ち合わせ場所である某高級ホテルのロビーにやって来たハルだったが、逆柳はすでにソファについて待っていた。
ひとつのほつれもなくオールバックに撫でつけられた白髪交じりの髪に、まったく曲がったところのないネクタイの仕立ての良いスーツ。銀縁眼鏡の奥の神経質そうな視線は広げた経済紙に向けられている。なにによろこぶでもなく、なにに怒るでもなく、なににかなしむでもない、観察するような色のない視線だ。
ハルが歩み寄ると、逆柳は新聞を閉じて立ち上がった。中肉中背のハルよりも少し上背がある。
「久方ぶりだね、塚本ハル君」
舞台役者のようによく通る声でそう告げると、逆柳は右手をそっと差し出してきた。
「今夜は私の招待に応じてくれて感謝する」
どうやら握手をしようということらしい。ハルはその手をおずおずと握り返したが、形式だけの握手はすぐに引っ込められてしまった。こういう所作のひとつひとつに逆柳という男の合理主義が見て取れる。
「さて、早速だが食事をしよう。良い席を予約してある。遠慮することはない、こんなものは交際費として経費で落ちる」
『積もる話もあるだろうから』とは言わなかった。あくまでスマートな対話を望んでいるらしい逆柳は、右も左もわからないハルをエスコートして奥まったところにあるレストランへ案内する。
その先はフレンチレストランだった。雰囲気ばっちりの店内の、さらに奥まったところにぽつりとあるボックス席につくと、逆柳は何気ない風を装ってハルに問いかける。
「君、なにか苦手な食べ物は?」
「……いえ、特には……」
「それは良いことだ。偏食は人生を貧しくする。飽食もまた、害悪だがね」
給仕長らしき年配の男性店員がそっと逆柳に近づき、本日のメニューの説明と食前酒の有無を尋ねた。
「未成年に飲酒をさせるつもりはない。水でいいかね?」
「……はい」
給仕長はすぐさまスパークリングウォーターを持ってくると、ふたりのワイングラスに注いだ。とぷとぷと音がして、澄んだ色の泡が浮かぶ液体でグラスが満ちていく。
給仕長が前菜を持ってくるまでの時間もあらかじめ決めてあるのだろう、逆柳はゆったりと余裕を持った仕草でグラスを掲げ、
「水盃で格好がつかないが、まずは乾杯だ」
「……どうも」
警戒心むき出しのハルにグラスを掲げて見せる逆柳。ハルもまた、マナーとしてそれにならった。
炭酸水で喉を潤し、一息つく。前菜が運ばれてくるまでの時間はどれくらいだろう、重大な話をするならば個室を取ればよかったのではないか、と考えていると、逆柳は膝の上で手を組み、
「安心したまえ。この一帯の席はすべて借り切っている。給仕長も顔なじみだ。実に物わかりの良い人物だよ」
胸の内を見透かされたような気がして、ハルは大層尻の据わりが悪くなった。ちびりちびりと水を飲んでいると、気まずい間を持たせる魔法のように前菜が運ばれてきた。ルッコラとホタテの貝柱らしきものになにかのソースがかかっている。
「さあ、いただこうではないか」
ナイフとフォークを手にした逆柳が、マナー講師のような手つきで料理を口に運んだ。おずおずとハルもカトラリーを手に取り、前菜に手をつけるが、おいしいのかおいしくないのか味もわからない。
逆柳は涼しい顔で前菜を平らげ、ナフキンで口を拭いた。
「この店はパリとニューヨーク、東京にしか店を出していない。ミシュランでも星を与えられている店だ。存分に楽しんでくれたまえ」
「……僕は、あなたとの食事を楽しみに呼び出されたわけではないですよね?」
茶番を断ち切ろうとハルが核心を突いた。ここでは一言一句がいのち取りだ。言葉の応酬でこの男に勝とうなどといううぬぼれたことは考えていないが、せめてスコアレスドローには持ち込みたい。
ことり、とグラスを置いた逆柳は、作り物の笑いを口元だけに浮かべた。
「理解が早くて助かる。さすがはかつて私を言いくるめた少年だ」
「こんなの、僕じゃなくても誰だってわかりますよ。あなたという人間を知っているならね」
「おや、心外だ。まるで私が油断のならない詐欺師のようじゃないか」
「自覚ないんですか?」
「ジョークだよ。詐欺師である病識はある」
病識ときたものだ。これもまた、逆柳一流の皮肉なのだろう。
ハルがひるんでいる隙に、逆柳はずいっと身を乗り出して、ハルの目を覗き込んだ。観察するような視線にさらされて、目が泳ぐのを必死でこらえる。
「塚本ハル君。君という人間の頭脳を信頼して、単刀直入に言おう……私は、君を利用したいと思っている」
利用したい。これまたずいぶんと飾り気のない即物的な物言いだ。レトリックを好む逆柳らしからぬ言葉だった。
しかし、それも計算の内なのだろう。その言葉にまんまとハラワタを貫かれてぎょっとしているハルを見詰めながら、逆柳は一旦からだを引いた。
「私が特級捜査官の地位を欲しがっていることはご存じかね?」
「は、はい、倫城先輩から聞いて……」
「よろしい。利用する、というのはその目的のために、だ……手始めに、この書類を参照していただきたい」
内ポケットから取り出した書類を広げ、ハルの目の前に差し出す逆柳。
そこには、あるひとりの男のことが記されていた。
「……名を、雪杉なぞる、と言う」
書類にはその名前が書かれていた。33歳、男性。ASSB関東支部所属、一級捜査官。経歴を見ると、どうやら叩き上げの捜査官らしい。
「……ASSB所属、一級捜査官って……」
「そう、立場としては私と同じだよ。訓練学校の同期でもある。最近関西支部からこちらへ異動してきた。かつては東の柳、西の杉、と称されていたものだ。私が唯一認め、そして敵対視するに値すると見なした人物でもある」
書類には書いていないことを、逆柳は述懐した。
「ひょうひょうとしていてつかみどころがないと思われている男だが、雪杉には『正義』という一本の軸がある。彼はそのテーゼに従って動く。逆に、その命題に反するものはとことんまで排除する苛烈さも有している」
「排除する、って……」
「『影』、だよ」
間合いを一気に詰めるような声音で、逆柳が答える。
「ひとびとを害する『影』……そのすべてを駆逐しようというのが、彼の『正義』だ。その目的のためならあらゆる手段を問わず、あらゆる汚れをいとわず、全力を尽くす。私のように清濁併せ吞む余地もない、たったひとつの軸に沿って行動する、実に揺るぎのない男だ」
敵対視している割にずいぶんと手放しで褒めたものである。逆柳にとって雪杉という男は、自分と同じフィールドに立つ資格を持つものとして認めざるを得ない存在なのだろう。