やがて買ってきておいた夕飯を食べ、順番にシャワーを浴びてから備え付けの寝間着に着替えて夜になる。雨粒が窓を激しく叩き、風が建物全体を揺らしていた。かなり強い嵐のようだ。
「……明日には帰れるかな……」
窓の外をのぞきながら、一ノ瀬が不安げにつぶやいた。
「ダイジョーブ! きっと明日にはからっと晴れてるヨ!」
「……なんなの、あんたのその根拠のない自信は……」
ポジティブに笑うミシェーラに、一ノ瀬がうさんくさそうな視線を向ける。
「ま、まあ! 夏休みだし、親には連絡ついてるし、気長に待とうよ!」
「うっわ、なにそのお気持ち表明。リーダー面しないでくれる?」
影子がいないと、一ノ瀬はハルをいじめていたギャル時代に逆戻りしてしまうようだ。苦々しげに吐き捨てると、窓辺を去ってベッドに腰を下ろす。
「ともかく、私もう寝るから。あんたたちも、しょーもないことしてないでさっさと寝なよ」
そう言うと、一ノ瀬はさっさと布団をかぶって横になってしまった。
「ワタシも寝るネ。ハル、床が痛かったらワタシのベッド来るネ」
「いやっ、それはいいよ!」
「ソウ? それじゃ、グンナーイ!」
ミシェーラもまた、ベッドにもぐりこんで寝息を立て始める。
昼間の発言について改めて問いただしたかったのだが、タイミングを逸してしまった。ひとり残されてやることもないので、ハルも貸してもらった毛布をかぶって床に横たわる。
昼間騒ぎすぎたせいだろうか、やがて睡魔がやって来て、ハルの意識は瞼の裏の暗闇に沈んでいった。
……どれくらい眠っていただろう。
肌の上を這う感覚と、ふっと吹きかけられる吐息に、ハルはぼんやりと意識を浮上させた。
「……ん、う……?」
寝ぼけていたせいで、影子がまたなにかやってるな、と思ったが、窓の外を見るとまだ夜中だ。影子は影の中で眠っているはず。
「…………?」
「……しっ、そのままでいいよ……」
ささやきかけるのは男の声だ。
というか、倫城先輩だった。
「せせせせせせせんぱ」
「黙ってろって」
先輩はハルの上に覆いかぶさるように頬を撫でている。薄明りの元、間近で見るとまつげが長かった。イケメンなんだなぁと再認識する。
「……って、いやいやいやいや!」
「イヤか? やさしくするから……」
「イヤですよ! 悪いですけど、僕、男のひとには興味ないんで!」
「まあそう言うなって。試してみなきゃわからないだろ?」
「そっちの世界に引きずり込もうとしないでください!」
巧みに懐柔しようとする先輩に必死に抵抗して、ハルはかろうじて甘い誘惑から逃れた。
「あーあ。やっぱ塚本、ガード固いな。それでこそ落としがいがあるってもんだけど」
震えるハルの上からどいて、先輩は残念そうに笑って肩をすくめた。
「なんであきらめてくれないんですか……!」
「俺、あきらめ悪いから。そして、こうと決めたら一直線」
しゅ、と謎のジェスチャーをしてさわやかな笑顔で言い切る先輩。
これは先の長い攻防戦になりそうだ……と、ハルはがっくり肩を落としてため息をついた。
「ほら、騒いだら寝てる女子たちに悪いですよ」
「寝てる女子たち?」
首をかしげる先輩は不思議そうな顔で二台のベッドを指さした。
「誰もいないけど?」
「……へ?」
間の抜けた声を上げてハルも確認したが、たしかにベッドは二台とももぬけの殻だ。
時刻は草木も眠る丑三つ時。こんな夜更けにふたりともどこへ行ったというのだろう?
「……大変だ……!」
「ま、こんな夜中に女子だけじゃ危ないよな」
「そんな落ち着いてる場合じゃないですよ、先輩!」
ASSBの歴戦のエージェントとしては些末事だろうが、ハルにしてみれば一大事だ。急いで床から起き上がると、バスルームやトイレ、バルコニーを探したが、どこにもいない。
「まさか、こんな嵐の夜に外に……?」
ハルが心配そうにつぶやいていると、ふと外から女性の悲鳴が聞こえてきた。一ノ瀬のものでも、ミシェーラのものでもないが、なにかあったことには変わりない。
先輩といっしょに急いで廊下に出ると、二人組の女性客が泣きながら走ってなにかから逃げていた。
「いやぁぁぁぁぁぁ!!」
「幽霊ぃぃぃぃぃぃ!!」
先ほどの悲鳴は彼女らのものらしかった。ハルたちを目に留めることすらなく廊下を駆け抜けていき、やがて消え去ってしまった。
「……幽霊?」
ものすごく不吉な予感がして女性客たちが走ってきた方を見ると……
……ひた、ひた……と湿った足音が聞こえてきた。
「……どこ……?……どこなの……?」
涙で湿った女の声だ。見れば、非常灯の明かりに照らされて、ずぶ濡れになった夜着に身を包んだ女が、髪を振り乱しながら手を伸ばして歩いている。
「……ひっ……!」
「落ち着け、塚本。よく見ろ」
腰を抜かしそうになったハルに、倫城先輩が告げる。
言われた通りよく見ると、濡れた茶髪にも寝間着にも見覚えがあった。声も聞き慣れたものだ。
「……影子様ぁ……どこにいらっしゃるのぉ……!?」
「…………一ノ瀬…………」
幽霊の正体は一ノ瀬だった。どうやらこの嵐の中、散歩をしていると聞かされている影子を探していたようだ。激しい雨風に打たれて、髪は乱れ全身濡れねずみで、その怨嗟のような呼び声と相まって幽霊に見えたのだった。
なにかかわいそうなものを見るようなハルの目に気付き、一ノ瀬がばたばたと走ってくる。
「なんなの!? 影子様どこにもいないじゃん!! 散歩なさってるんじゃないの!?」
「いっ、一ノ瀬……!」
「あんたが隠したんでしょ!? どこ!? どこなの!? 私の危険なひと夏の冒険はどこ!?!?」
ハルの首筋をがくがくと揺さぶりながら一ノ瀬が叫ぶ。倫城先輩がなんとかなだめてくれて、ようやく一ノ瀬はふてくされた顔で矛を収めた。
「……影子様がいらっしゃらないんじゃ、お泊りの意味ないじゃん……あーもう、私もう一回シャワー浴びてもう寝る!」
ずかずかと部屋に戻る一ノ瀬に続いて、ハルと先輩も女子部屋に入っていった。
……部屋に入ると、今度はなにか色っぽい声がする。
明らかな情交の声音にぎょっとして室内を見渡すと、テレビの前でいなくなったミシェーラがひとり、きょとんとしていた。
テレビではドギツイAVが流れており、どうやら声の発生源はこれのようだ。
「なに見てんの!?」
真っ赤な顔をしたハルは超スピードでテレビを消した。
消えたテレビを眺めながらぽけーっとしているミシェーラは、画面を指さして、
「……カートゥーン見たくなって、ビデオ見るにはビデオカード必要って出たヨ……それでワタシ、ロビーでビデオカード買って……」
日本の古式ゆかしいビジネスホテルにはありがちな過ちだ。アニメを見ようとしていきなりAVが流れてきたらそりゃあぽかんともするだろう。
ミシェーラがいなくなったのはそれが理由だったのか。ともかく、大事に至らなくてほっとした。ハルはミシェーラの頭をぽんぽんと撫で、
「アニメなら帰ったら死ぬほど見れるから……今日は全部忘れて、もう寝よ?」
「……ウン……」
まだ虚脱状態のミシェーラは、油の切れた機械人形のような動きでベッドに入るとそのまま寝息を立て始めた。
「……やれやれ……」
ひとまずこれで収拾がついた。一ノ瀬もシャワーから出てきてベッドで眠っている。
「一安心だな」
「そうですね。まったく、人騒がせな……」
「それじゃあ塚本、俺たちも部屋に戻るか」
「はい……って、それはナシでお願いします!!」
つい流されそうになったが、そこは死守した。こうやってさらっと求愛を織り交ぜてくるところが倫城先輩のやっかいなところだ。
「ちぇ、つれないなあ。俺はひとり涙で枕を濡らすか……」
涙どころかどこか楽しげな笑顔を浮かべている先輩は、そのまま手を振って男子部屋へと戻っていった。
今度こそ、普通に眠れるはずだ。
というか、頼むから寝かせてくれ。
そんな切なる願いを胸に、ハルは毛布をひっかぶって目を閉じた。
あの影子が不在でもこれだけトラブルが起こるメンバーか……
先行き不安だな、とまたため息をつきそうになりながら、ハルもまた再び眠りの世界へと旅立った。