事故はあったものの、どうにかして家に帰ったハルたちだったが、影子は回復のためなのか機嫌を損ねているからなのか、ハルの影から出てこなかった。
夏休み中ということもあって、学校のために出てくる必要もなく、ハルはただ影子のいない日々を漫然と過ごしていた。
事故から二日後、ふとネットニュースを眺めていると、ASSBが会見を開いたという情報が入ってきた。
動画を再生してみると、いつか見た広報部のお偉いさんがフラッシュに照らされ、今回のフェリー事故は『影の王国』の仕業であると断定し、『影の王国』対策委員会を設立することを宣言した。
ついに歯車が動き出すか……ベッドに寝転がってニュースを眺めるハルは、事態の進行になかなかついていけず、ただぼうっとしていた。逆柳の高笑いが聞こえて
きそうである。
あまりにやる気が起きないので、気分転換に散歩に出かけることにした。
夏の日差しで熱されたアスファルトからの照り返しの中歩いていると、早速散歩に出かけたことを後悔する。
しかし、こんな暑い季節は、なんだかノスタルジックな気分になるのだ。
どうしてだろうな、と思いつつ、ハルは近くの公園のベンチで休憩することにした。
冷たい飲み物を自販機で買って、木陰のベンチに腰を下ろす。
日差しの中、小さな子供たちが影踏みをして遊んでいた。なんだかたまらなく胸が締め付けられる光景だ。じわじわと蝉の鳴く声と、子供たちの笑い声。なぜか懐かしくてたまらない。
「ここ、ええですか?」
泣きそうになっていたハルに、不意に声をかけるものがいた。西の方の独特なイントネーションに顔を上げると、そこにはひとりのスーツ姿の男が立っていた。
長い髪を後ろで束ね、糸のように細い目をした長身の男性である。年はアラサーといったところか。にこにこ笑っていて、ハルの隣を指さしている。
「……ああ、どうぞ」
他に木陰のベンチがないので、ここで休もうというサラリーマンだろうか。缶コーヒーを手にした男は、
「おおきに」
そう言うと、軽い身のこなしでベンチに腰を下ろした。ハルのパーソナルスペースぎりぎりのところだ。
風もなく、熱く濁った空気だけがわだかまる夏の日。ハルは男と隣り合わせになりながら缶ジュースを開けるでもなく影踏みに興じる子供たちを見ていた。
「……小さい子は、かいらしいなぁ」
いきなりロリコンのような発言をした男に、ハルは自然と返答の言葉を口にする。
「……そうですね」
「僕も昔ようやったわ、影踏み」
「僕はあまりよく覚えていません」
「なんや、小さいころのこと覚えてへんの?」
「ええ。なんだか、記憶があいまいな時期があって……」
「難儀なもんやな」
「そうでもないですよ。覚えていないってことは、なにもなかったってことですから」
「それはどうかな?」
急に訳知り顔で指摘されて、ハルは思わずぎょっとした。改めて男を見やり、
「……どういうことですか?」
問いを投げつけると、男はくすくす笑いながら、
「いや、ようあるやん。重大なこと過ぎて頭が自己防衛のために忘れようとする、ってケース。もしかしたら君もそうかもよ?って話や」
「……ああ、そういうことですか……」
ただの一般論らしい。夏の暑さにやられたのだろうか、必要以上に過敏になってしまっただけのようだ。ハルは男から視線を逸らし、再び子供たちを眺めた。
「重大過ぎること……なんでしょうね?」
「家庭不和とか?」
「いえ、別に。両親は昔からずっと変わりませんよ」
「イジメとか、学校でなにかあったとか?」
「最近までいじめられてましたが、そのころ特には」
「人生の転機?」
「……さぁ……?」
「まあ、どっちにせえ、覚えとらんのやったらしゃあないけどな」
「ですよね……」
そこで一旦、会話は途切れた。うだるような暑さの中、蝉の声ばかりがうるさい。底抜けに青い空には入道雲が浮かんでいて、にわか雨を運んでこようとしていた。
ふたり並んで無言でいると、ふと思い出したように男がつぶやく。
「君には正義があるか?」
正義。正しさ。確固たるもののように見えて、実のところとてもあいまいなもの。
たとえば、ハルの正しさ。
たとえば、影子の正しさ。
そのふたつの正しさがぶつかりあったことを思い出して、ハルの目は再び男に向けられた。
「……正義なんて大層なものじゃないですけど、僕にだって自分の信じた正しさはあります」
「そりゃあええこっちゃ。自分の正義がないやつには、軸がない。一貫性っちゅうもんがないんや。そやからブレる。戸惑う。うろたえる。自分の正義を信じとるやつは、揺るがん。たとえどんなことがあってもな」
とうとうと語る男の言葉は、まさに己の正義を信じてやまないものの言葉だった。大樹のようにどっしりと構える男は、ちょっとやそっとのことではこゆるぎもしなさそうだ。
「そして、ひとはその正義のために、自分の信じた善のために、戦わなあかん。善悪にきっちりと勝負をつけなあかん。逃げずに、揺るがずに。そう……光と影のように、白黒をつけなあかん」
光と影。男は強調するように言った。
まるですべてを知っているかのような男に向けられたハルの目が、徐々に大きく見開かれていく。
まさか……
その考えを見透かされたのか、男はにっこりと糸目を緩ませて笑った。
「言い忘れとったな。僕は、雪杉なぞる。『閣下』から話は聞いとるやろ? 塚本ハル君」
「……あなたが……」
あの逆柳が唯一敵対するに値すると評価した、ASSBの一級捜査官。目下逆柳が蹴落とそうとしているライバルである。ここでこうして邂逅したのもすべて計算づくなのだろう。
目を丸くするハルのこともよく知っているらしい。雪杉は笑顔のままで突き放すような口調で告げた。
「『影』はすべて、敵や。君や『閣下』みたいに馴れ合うつもりは一切ない。あらゆる『影』は殲滅すべき悪や。僕はそれを抹消するために生まれてきた。そのためにはもっとちからをつけんとあかん。特級捜査官の地位は僕のものや」
逆柳の言った通り、雪杉は過激なほどに『影』を敵対視している。その中には影子のような『影』も含まれているのだろう。『影』はすべて悪。わかりやすすぎるテーゼだ。
たしかに、こんな男に特級捜査官になられたのではたまったものではない。『影使い』であるハルのことも、きっと快く思っていないのだろう。笑顔の裏にちらちらと牙のようなものが見える。
「僕は不器用でなぁ、『閣下』みたいに都合よぅ『影』とお付き合いするっちゅうことはできんのや。する必要もないと思っとる。『影』は所詮『影』、人類に仇成す存在や。君も足元すくわれやんよう、気ぃ付けた方がええで、塚本ハル君?」
「……あなたにはあなたの正義があるのかもしれない。けど、僕にも僕の信じた正しさがある。それぞれの思い描いた正しさをぶつけ合って、認め合って、わかり合って、ひとは成長していくんだ。だから、あなたみたいに自分の正義ばかりを主張するひとは、いつかくじけますよ」
鋭くした視線で真正面から雪杉を見詰めるハルに、雪杉はくく、と喉で笑って、
「『柳に雪折れなし』ってか? なるほど、逆柳が目ぇつけただけのことはあるわ。けど、ええか、塚本ハル君。正しさは強さや。試合に負けて勝負に勝つ、なんちゅうのは、負け犬の戯言や。僕は、僕の正義で勝ち進む。折衷案なんちゅうもんはごめんやな。ゼロか、100か。白か、黒か。僕にはそれしかない」
「……わかり合おうとは思わないんですか?」
「思わへんな。現に、僕は自分の正義を貫いて勝ち進んできた。せやからASSBの一級捜査官になれたんや。次は特級捜査官……今度も逆柳に一泡吹かせて次のステージに進む。誰も僕を止められへん」
融通の利かないこの男は、正攻法で『閣下』を負かすつもりだ。文字通りの正面突破で敵将を討ち取る。雪杉の頭の中にはそのプランしかない。
自分の正義を突き通す。その一点のみに特化し、研ぎ澄まされた刃は、もしかしたらあの『閣下』さえ貫くかもしれない。
なるほど、たしかにあの逆柳が唯一ライバルと認めた男である。
ひょうひょうとしているように見えて、実は究極の頑固。
厄介そうな相手だった。今回ばかりは『閣下』にも同情するところがある。
雪杉は無駄のない動きで立ち上がり、結局飲むことのなかった缶コーヒーをゴミ箱に捨てた。うーんと伸びをして、
「まあ、今日は釘刺しに来ただけや。君も自分の立場、考えた方がええで、塚本ハル君? 今の君は、『閣下』にも『影の王国』にも、そして君の『影』にも、ええように利用されとるだけや。それでええっちゅうなら、僕は君と対峙する。そして勝って、先へ進む。それだけや」
「いいようにされているのはわかっています。けど、それは僕の正しさと方向性がいっしょだからだ……正直、僕はあなたが苦手です。愚直すぎる」
「あはっ、嫌われたもんやなぁ。僕にはこれしかないっちゅうのに。君の正義が良しとするんやったら、そのまま進めばええ。それを潰すのが、僕の使命や」
へらり、と肩をすくめて、雪杉が言う。
「ほな、またな。次会うときは敵同士や。お互いベストを尽くそうやないか」
雪杉はそう言い残し、ハルに背を向けた。そしてそのまま公園から消えてしまう。
すっかりぬるくなってしまった缶ジュースを握りしめたまま、ハルはため息をついて肩を落とした。
「……なんでこうなるかなぁ……」
完全に目をつけられてしまっている。雪杉なぞるは、塚本ハルをまだ敵未満とみなしてくぎを刺しに来たのだ。あわよくば自分の道に取り込んでしまおうと。
しかし、ハルにその気はなかった。雪杉はある意味で危険な男だ。その正義のためならなんでもするだろう。たとえ、ひとの道理に反していたとしても、だ。
そんな爆弾を抱えた男についていくくらいなら、まだ腹に一物ある逆柳についていった方がマシに思えた。逆柳にしてみれば、駒のひとつ、くらいにしか思っていないだろうが。
「どいつもこいつも、勝手なんだよ……!」
誰にともなくいら立ちをぶつけて、ハルはぬるくなった缶ジュースのふたを開けて一気に飲み干した。
さらに増えた胸の中のもやもやも胃の中に流し込んでしまいたかったが、それは叶わず、ハルは空き缶をゴミ箱に捨てて、再び陽炎の立つアスファルトの道へと帰っていった。