影子が影にこもって一週間、雪杉との邂逅から四日経った、ある日のこと。
ハルのスマホに一件のメールが届いた。
差出人は不明、捨てアドだ。そこにはただ、『『影の王国』について。本日午後三時に、駅ビルのカフェテラスまで』と書かれてあった。
正直罠かとも思ったが、虎穴に入らずんば虎子を得ず、だ。
そんな衆人環視の街中で襲われることはないだろうが、一応逆柳に連絡を入れると、影ながら護衛をつけてくれると返ってきた。影子が引きこもっている今、万が一の事態には備えなければならない。
謎の差出人からの指定時刻、ハルは駅ビルのカフェテラスへと足を運んだ。ビル風は夏の熱気をかき消しきれず、吹き付ける熱風となっている。今日の最高気温は34度だ。Tシャツの背中に汗をかきながら、ハルはレジに待ち合わせである旨を伝えた。
外のテラス席に向かうと、そこにいたのは見覚えのある顔だった。
いや、忘れようにも忘れられない顔だ。
知らず、ハルの足は早まり、やがて助走をつけるような速さになった。
その勢いのまま、差出人の頬をこぶしで殴りつける。
椅子ごと派手にひっくり返った差出人……師匠は、打たれた頬を押さえながら上半身を起こして苦笑した。
ハルはそのからだに馬乗りになるようにして胸倉をつかみ、燃え滾る怒りのまま叫んだ。
「……なぜ裏切った!?」
「それは間違いだよ、ハル君」
師匠は耳慣れた涼やかな声音でそう言うと、首をゆっくりと横に振る。
「僕は最初から君の味方ではなかった。ウソは一切ついていない。ただ、肝心なことを話さなかっただけだ」
「そんな詭弁……!」
「残念だったね、僕は詭弁で生きてきたんだよ」
「……っ!」
そう言われてしまってはもう何も言えなかった。せめてもう一発、と掲げたこぶしにはちからが入らず、やんわりと師匠の手によってどかされる。
「話をしよう。席についてくれるかな?」
たしかに、ここで熱くなってしまっては元も子もない。師匠は『影の王国』に連なる唯一の手掛かりなのだ。そして、この前の事故のことも聞き出さなければならない。
師匠の上からどいたハルは、渋々カフェテラスの席に着く。驚いた店員が事情を聞きに来たが、殴られた本人の師匠が笑顔で『なんでもないです』と言ったので、怪訝そうな顔をしつつ立ち去っていった。
互いに向き合うようにして席に着くと、当然のように冷たいブラックコーヒーが出てきた。師匠のカフェではブラックコーヒーしかメニューになかった。毎日のように通い詰めていたハルは、苦手なブラックコーヒーに砂糖とミルクをたくさん入れて飲んでいたものだ。
何もかもが懐かしすぎて、ハルはコーヒーに手をつけることができなかった。
一方の師匠はストローに口をつけながら、
「……うん、悪くない味だ。ちょっと酸味がきつすぎるけど」
のんきに味の感想などを述べている。
いら立つな、と自分に言い聞かせながら、ハルは努めて落ち着いた声音で師匠に話しかけた。
「それで、『影の王国』について、でしたよね? なにか知っていることを話してもらえるんですか? それとも、この場で僕を消しますか?」
「そう結論を急ぐものじゃないよ、ハル君。君の悪い癖だ。僕は久しぶりに弟子の顔を見たくなって来たんだよ。ただそれだけさ。その世間話のタネに、『影の王国』の話題を用意したわけだ」
殴られて腫れた頬をかばうように頬杖を突きながら、師匠はのんびりとコーヒーを飲んでいる。あからさまに相手のペースに乗せられていた。やはりこのひとには敵わないな、と頭のどこかで思うハルがいる。
「元気にやってるかい?」
「……あなたが出て来なければ、ね」
「そう言わないでくれよ、かなしいな」
「あんな事故を起こしておいて、そんな風に言いますか?」
まずはあのフェリーでのことを聞き出そうと、ハルは核心を突いた。
しかし師匠はきょとんとした顔で、
「事故?」
そう問い返すばかりだ。そらっとぼけているだけの可能性もあるが、一応追撃しておく。
「一週間ほど前、あなたは『影』を使ってフェリーで事故を起こし、僕たちを陥れようとした。違いますか?」
「……ああ、あの件か」
どうやら思い至ったらしい。師匠はグラスを置いて肩をすくめ、
「あれは僕の仕業ではないよ」
「けど! あなた以外考えられない……!」
「君たちに『影』を潰された僕に、今更なにができるって言うんだい?」
「あ、新しい『影』で……!」
「ハル君」
しどろもどろになっているハルを、師匠は真正面から見つめた。
「一度失った『影』は二度と戻らない。君だってわかっているはずだ。モノクロームの『イデア』は唯一無二。その者に従う影は替わりがきかない。あるじが変われば『影』も姿を変えるかもしれないが、喪失してしまった『イデア』はもう帰らない」
ほら、と師匠は自分の影を差して見せる。船上で見たブリキの兵隊の『影』はおろか、かつてハルたちを追いつめた龍の『影』も出てこない。隠しているだけなのかもしれないが、少なくともハルにはその気配を感じ取ることができなかった。
言葉に詰まるハルを前に、師匠は優雅にグラスを持ち上げて言った。
「それに、今の僕は『影の王国』から追われる身だ。つまらない隠遁生活を送っているよ。連中からしてみれば、失敗した僕はもう用済みらしい。君さえいなければ、今日こうして表舞台に上ってくる予定もなかったしね」
師匠はもう、『影の王国』に属していないようだ。逆にそのいのちを狙われている。そんな今だからこそ話せることを話しておきたいと、ハルの前に姿を現したのだ。
どこまでが本当でどこまでがウソか。疑心暗鬼に陥りながらも、ハルは必死に頭を回した。
「じゃあ、あのフェリーでの事故は一体だれが起こしたっていうんですか?」
「『影爆弾』……『七人の喜劇王』のうち、『街の灯』の能力だね」
「……『七人の喜劇王』……?……『街の灯』……?」
わからないことだらけで混乱していると、師匠はくすくす笑いながらコーヒーを口に運んだ。
「追って説明するよ。『影の王国』は、僕……『ライムライト』を含め、七名の王で構成されている。それが、『七人の喜劇王』……それぞれが独自の『影』を従える、七名の主犯格さ」
「七名だけで構成されているんですか?」
「そう。『影使い』は特殊だからね、そうそうメンバーは増えないよ」
「他には一体どんな王がいるんですか?」
「『ライムライト』、『街の灯』、『犬の生活』、『モダンタイムス』、『独裁者』、『殺人狂時代』と『黄金狂時代』……その七名だ。うち『ライムライト』である僕の席が空席だから、今は六名になっているね」
「今回の事故を起こした『街の灯』って、どんな人物なんですか?」
「さあ? 基本的に、僕たちは顔を合わせたりはしないのでね。匿名性が保たれた秘密結社なんだ。他の王たちがどんな人物なのか、僕はまったく知らない。ただ、作戦行動の都合上、能力だけは聞いたことがある。『影爆弾』を使うと」
今回のフェリー事故については、本当に師匠はノータッチらしい。『街の灯』……『影爆弾』の『影使い』の正体は、結局わからなかった。
「じゃあ、どうして『街の灯』は僕たちを襲ったんですか?」
「それもわからない。僕が抜けた後のことはなにも。しかし、君たちを消す以上の意図があったことはたしかだね。その程度のことで動く組織ではないから」
「なら、その意図ってなんですか?」
「どうだろうね。たとえば、ASSBに対する宣戦布告、たとえば、カモフラージュ、たとえば……」
続けようとした師匠の影に、ふとなにかが入り込むのが見えた。一瞬だったのでなにがあったのかはわからなかったが、想像することはできる。
「師匠!」
とっさに彼のことを古い名で呼び、ハルが警告を発しようとしたそのとき。
師匠の影が大きく爆発し、爆炎を上げてはじけ飛ぶ。
ハルはテーブルや椅子ごと吹っ飛ばされ、爆心地はもうもうと煙でかすんで見えなかった。
「し、ししょ……!」
軽いケガを負ったハルが、からだを引きずりながら爆心地に近づく。熱いビル風が土煙を払いのけていくと、そこには……
ハルは目を見開いた。
すり鉢状にえぐれたウッドデッキから少し離れたところに、片腕だけが落ちている。グラスを握った形のままの焼け焦げた腕だけが。
あとには、なにも残っていなかった。
さっきまでハルと言葉を交わしていたはずの師匠は、『影爆弾』によって跡形もなく爆殺されてしまった。
「……あ、」
呆然として手を伸ばすことしかできないハルを、近くにいた男が制する。
「下がって!」
どうやら、客に紛れ込んでいたASSBの護衛らしい。五六人がせわしなくスマホで連絡を取ったり店に説明をしたり、ハルを保護したりと動き回っている。
油断なく辺りを警戒する護衛たちの向こう側に、ぽつりと落ちた片腕が遠のいていった。
「……う、」
なにか衝動めいたものに突き動かされ、たまらなくなったハルは、目に激情の涙を浮かべて叫んだ。
「あああああああああああ!!」
頭を抱えてその場にひざまずき、動かなくなる。
師匠は疑いようもなく、死んでしまった。
もうこの世には存在しない。
無邪気に慕っていたあのころを、苦い事件のことを思い出し、ハルはただ、かなしみでも怒りでもない、言い知れぬ感情に憑りつかれて喚いた。
どれほど喚いたところで、師匠という存在がこの世界から消えてしまった事実は揺るがず、ただハルをさいなむのだった。