目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

№18 正しいのは誰?

 カフェテラスの惨劇から三日経ったが、ハルの中にはまだショックがわだかまっていた。


 影子も影から出て来ず、ひとり部屋の中、ベッドの上でうずくまって過ごしていた。


 今でも瞼の裏に浮かぶ、焼け焦げた腕の破片。


 もうとっくに情などなくなったと思っていたが、実際目の前であんな風に惨死されると、いやでも思い出す羽目になる。


 まだ今より小さかったころ、読んだ本の作者が近くにいると聞いて駆け込んだ、あの喫茶店。


 師匠は今と変わらない姿で出迎えてくれて、自分を弟子として受け入れてくれた。自分の知らないことをたくさん教えてくれて、苦いコーヒーを出してくれた。迷ったときは相談に乗ってくれて、落ち込んだ時は何も言わないでいてくれた。


 そんな師匠が、あの事件で『影の王国』の首謀者として動いていたことを知ったときは、ひどく打ちのめされた。真相を暴くときも、動悸と震えが止まらなかった。


 影子と共に『影』を打ち破り、どこかに消えてしまった師匠のことなど、もう慕うべくもない……そう思っていた。


 しかし、目の前に現れたのは当たり前のように変わらない師匠で、言い知れぬ懐かしさがこみあげてきたのは否定できない。怒りが懐かしさを上回っていたので気付かなかったが、たしかに思ったのだ。


 『生きていてよかった』、と。


 なのに目の前で凄惨に爆殺されて、ハルの精神的打撃は計り知れなかった。


 彼を殺したのは、『影の王国』の『七人の喜劇王』のうちのひとり、『街の灯』だ。正体もなにもわからない『影使い』。


 しかし、一度ハルたちを襲撃した以上、『街の灯』はきっとまた姿を現すだろう。そのとき、どんな顔をしたらいいのかわからなかった。


 師匠を失ったことに対しては、怒りもかなしみもわかない。


 しかし、途方もない喪失感を覚えた。


 その喪失感がある以上、『街の灯』は単なる脅威ではない。


 仇討ち、などというものではないが、師匠を殺したことについて、なんらかの対価を払わせたかった。


 もう彼は戻ってこないとわかっていても、だ。


 しかし、ハルひとりではなにもできない。影子がいなければハルは無力なのだ。


 その影子は影の中に潜んだままだんまりで、出てきてはくれない。あのフェリーの事故以来ずっとだ。よほどハルが止めたことに腹を立てているらしい。


 ハルはあの選択を間違いだとは思っていなかった。あの時止めていなければ、影子はまた消えていたに違いない。主人として、もう二度とあんな思いはしたくなかった。


 影子の本質は『闘争』だ。争いを嫌うハルの『イデア』である影子は、戦うことに生きる意味を見出していた。


 息をするように戦う。故に、戦いができないということは息ができないということと同義だ。


 たとえその呼吸を奪おうとも、消えてしまうよりよっぽどいい。


 しかし影子はそれを良しとしなかった。戦うことを止められるくらいなら死んだ方がマシだと。それほどに、影子の衝動は苛烈だった。常に泳ぎ回る回遊魚のように、走るのをやめてしまっては生きていられない。


 精神的な死を取るか、肉体的な死を取るか。


 その価値観の違いが、今回の軋轢を生んでしまった。


 どちらも頑固に自分が正しいと信じて譲らない。強く結んだはずの主従関係すら危うくなってきた。


 もはや根競べじみてきた確執は、一週間以上経った今でも続いている。


「……影子の、バカ……」


 ベッドの上にうずくまってつぶやいても、誰も返事をしてくれない。誰もひっぱたいてくれない。


 その静寂で思い出すのが、あの焼け焦げた片腕だ。完全に思考の悪循環にとらわれていた。


 何度目かのため息をついていると、不意に自室の窓にかつかつと何かが当たる音が聞こえてきた。


 怪訝に思いながらカーテンと窓を開く。時刻は夕暮れで、もうすぐ夜だ。久しぶりの外の空気は熱く淀んでおり、蝉の声が雨音のように響いていた。


「ヤッホー、ハル!」


「ミシェーラ……?」


 二階から見下ろした路上には、タンクトップに短パン姿のミシェーラが立っていた。その手の中には小石が握られている。どうやらハルの部屋の窓に向かって小さな石を投げていたらしい。


「どうしたの? 上がる?」


 ハルが問いかけると、ミシェーラはにっこり笑い、


「ハル、ライン送っても未読スルーネ! ちょっと心配になって見に来ただけヨ! オカマイナク!」


 ああ、そうか。ここのところ、スマホを一切見ていなかった。ミシェーラや先輩はあの事故についていろいろ話したいこともあるだろう。一ノ瀬の連絡先は知らないが、影子にも連絡が行っているはずだ。


 お構いなく、とは言っているが、せっかく心配して様子を見に来てくれたのだ、このまま帰すのも悪い。


「待ってて、ちょっと支度して下行くから!」


 ミシェーラの返事を待たず窓を閉めたハルは、部屋着から着替えて寝癖を直し、玄関のドアを開けて外に出た。


「お待たせ」


「……ハル、寝てなイ? 目の下どんよりヨ」


「うん、まあ、いろいろあって……ここじゃなんだから、座れるところ行こうよ。近くに公園があるから」


「ウン!」


 元気よく返事をしたミシェーラと共に、ハルは少し歩いたところにある公園までやってきた。雪杉と出くわした公園だった。


 辺りはすっかり日が暮れて、水銀灯が瞬きながら点灯しようとしている。巣に帰っていくカラスたちの群を見上げながら、ハルとミシェーラはベンチに腰を下ろした。


 しばしの沈黙ののち、まずハルが口を開いた。


「連絡取れなくてごめん。ミシェーラ、あれからどうだった?」


「オーウ、パパとママすごく心配したネ。けど、警察?のひとがお話聞きに来ただけで特になにもなかったヨ」


「……そっか……よかった」


「ハルは? いろいろあったって」


 影子とのケンカ、雪杉の宣戦布告、『影の王国』の『七人の喜劇王』、そして師匠の爆死。いろいろありすぎて、しかも事情を知らないミシェーラには話しづらいことが多くて、ハルは考えあぐねた。


「……影子とケンカしちゃって、しばらく会ってないんだ。偉いひとにしばらくおとなしくしてろって釘刺されたり、知り合いがちょっとイヤな死に方したり。まあ、そんなとこ」


 あくまで軽い調子で説明して、なんでもない風に肩をすくめて笑うハル。しかし、その笑みは少し歪んでしまった。


「……ソッカ……あんまり良くないネ」


 それを敏感に読み取ったミシェーラは、眉尻を下げて不格好な笑みを見詰めた。


「カゲコとはなんでケンカしたカ?」


「価値観の違い、っていうのかな。基本的に僕がイヤだって言ったことはやめてくれるんだけど、今回だけは譲れないことがあったみたいで。無理矢理止めたら、お前とは絶交だ、って言って会ってくれなくなっちゃった」


「ふたりともガンコだからネ……お互い意地になっちゃってるネ」


「そうなんだ……僕は間違ってない……はずなんだけど、影子も間違ってなくて……」


「ふたりの正しさがケンカしちゃったんだネ」


 正しさ。正義。ふと雪杉のことを思い出した。


 それぞれが自分の思う正しさを突き通そうと動いているのだ。極論戦争と同じで、それは争いにもなる。


「……僕が折れるべきなのかな」


 ぽつりとこぼしたハルの言葉に、ミシェーラは無言で手を伸ばした。


 そのまま、髪の毛をやわくかきまぜるように頭を撫で、


「アナタはなにも悪くないヨ、間違ってないヨ」


「……ミシェーラ……」


 そんな風に甘やかされて、ハルは思わず泣きそうになった。


 ミシェーラは事情を知らない。なのに、ハルに寄り添おうとしてくれている。


 つんとする鼻の奥をやり過ごして、ハルはミシェーラにされるがままに無言で蝉の声に溺れた。


「きっと、みんな正しい。ハルも、カゲコも、偉いひとも、死んだ知り合いのひとも、自分の中に正しさを持ってタ。けど、みんなの正しさは同じじゃナイ。だから争いが生まれる。望まなくても、戦わなきゃいけナイ」


 かなしそうな顔をしながらミシェーラがささやく。たしか、海へ行った時もこんな顔をしていた。


「世界が白黒のカートゥーンになればいいのにネ。自分の正しさは、みんなの正しさ。時々ケンカもするけど、最後は仲良し。ハッピーエンド。難しいことなにもない世界。だから、やさしい世界」


 古式ゆかしいアニメの世界。仲良くケンカして、仲直り。最後はみんながしあわせになる世界。


 しかし、リアルは残酷だ。みんながみんな、全員しあわせになれることなんてない。誰かがしあわせになるには、誰かがふしあわせにならなければならないのだ。


 だからこそ、戦う。自分の信じた正しさを貫くために。自分にも、影子にも、雪杉にも、師匠にも正しさがある。だから今、ハルは悩んでいるのだ。


「ハルは折れないで……ワタシも、折れないから」


「ミシェーラにも、自分の正しさがあるんだね」


「そうヨ。だから、ワタシも戦ってる。誰も争わない、やさしい世界のためニ」


「……そっか……」


 ハルはそのまま、ミシェーラの肩にもたれかかった。


 甘やかされて、ラクな方へ流れているのはわかっている。


 しかし今のハルには、肯定と思考停止が必要だった。


 ともかく、考え疲れていた。


 ミシェーラは嫌がるそぶりも見せず、ただハルの頭を撫でている。


「そうヨ、アナタは間違ってナイ。だから、アナタは悪くナイ」


「……ありがとう、ミシェーラ」


「気にしないデ。ワタシ、ハルが好きだからこうしてるだけだかラ」


「……ありがとう」


 もう一度お礼を言って、ハルはミシェーラに身を委ねた。


 夜も更けてきた。『影』の眠る夜だ。水銀灯に照らし出された闇には、光と影がきついコントラストを描いている。


 決して相容れることのない光と影。まるでハルと影子のようだ。いくら主従の誓いを果たしたと言っても、根底の部分ではわかり合えない。それは影子がハルとは真逆の『イデア』だからだろうか?


 ……どうでもいい。


 今はただ、まどろんでいたい。


 完全にちからを抜いたハルは、ただただやさしいミシェーラの手だけを感じながら、ゆっくりと目を閉じた。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?