それからも、ハルは毎日ミシェーラと夕方落ち合って公園に行っては、話を聞いてもらって慰めの言葉をかけてもらっていた。
腑抜けている自覚はある。
しかし、いろいろなことが起こりすぎた。
自分で抱え込むにはあまりにもたくさんの問題があって、現実逃避しなければ壊れてしまいそうだった。
ミシェーラはいつも、ただやさしくハルを肯定しては頭を撫でてくれた。
ぬるま湯はいつだって気持ちいい。
そうして、影子が引きこもってから二週間が過ぎた。
久しぶりにスマホを見ると、狙いすましたかのようにラインが届く。
逆柳からだった。
本部へ来るようにと、それだけ書かれていた。修辞学を好むあの男も、ラインは使いこなせないらしく、いつもこんな短文ばかりだ。
億劫さがのしかかってきたが、ハルはなんとか重い腰を上げ、電車に乗って割と近所にあるASSBの本部ビルまでやってきた。
以前ここへ来たときは、鼻息荒く『閣下』との交渉をしに来た。それが今では、受付も顔パスで通されるくらいだ。
入館証をもらってエレベーターに乗り、会議室まで直行する。
扉を開けると空調がよく効いていた。その中に汗ひとつかいていない逆柳が座っており、そばにお付きの女性秘書がついている。デジャブだ。
「大変だったね、塚本ハル君」
汗だくのハルに向かって、まるですべて知っていましたよと言わんばかりに逆柳が告げる。
「……おかげさまで」
「だが安心したまえ。私は無神論者だが、神とやらは越えられるものにだけその試練を与えるらしい。君は今、神とか言う益体もない存在に試されているのだよ」
「……ども」
マトモに相手をしているだけの気力がない。ハルは手の甲で額の汗をぬぐいながら席に着いた。
「それで、わざわざ呼び出しておいて何の用ですか?」
「その前に。雪杉に遭遇したそうだね」
「ええ。いかにもあなたのライバルらしい、切れそうな男でしたよ」
「そう、切れる男だ。そして、己の正義を持っている。狂信的なまでの正義を、ね」
「釘を差されましたよ。『自分の立場をよく考えた方がいい』、って」
「あの男ならそう言うだろう。想定の範囲内だ」
双方の手のひらで転がされているハルの身の上も気にせず、愉快そうに喉で笑う逆柳。ひとの気も知らないで、『閣下』は出世争いの権謀術数に夢中のようだ。
「その雪杉が動く。例のカフェテラスの爆発事故も、ASSBは『影の王国』のテロと断定した。近々会見が開かれるだろう。その前に、雪杉が先手を打ってきた」
「どんな先手ですか?」
聞いてほしいんだろうな、と思いつつも尋ねざるを得ないハルに、逆柳は片頬だけで笑い、
「国会議員を複数名焚きつけて、『ノラカゲ』対策法案の書き換えを要請した。そしてその名目に基づき、自分の部隊を作り上げている。いわば、『影の王国』に対抗するための『十字軍』をね」
クルセイダーズと来たものだ。正義を執行するための軍隊。それが雪杉の『十字軍』というわけか。国会議員も動員して法案改正までさせるあたり、雪杉の本気がうかがえた。
「だが、そう簡単に退く我々ではない。ASSB上層部は私と雪杉両方に今回の『影の王国』……君の報告によると『七人の喜劇王』の『街の灯』を打破せよとのご指名をしてきた。今回の件を試金石として、どちらを特級捜査官に任命するか決定するらしい。まったく、面白くない進級試験だよ」
逆柳にとって、この一連の事件はテストなのだ。自分か、雪杉か。どちらかしか選ばれない勝負だ。負けられない戦いになる。
「それで、打倒『街の灯』のマトとして、僕たちに動き方を指示しに呼び出したというわけですね」
「話が早くて助かるよ、塚本ハル君」
肩をすくめたあと、その手を顎の下で組み、逆柳は静かに語った。
「それに、君とて『街の灯』には思うところがあるだろう?」
内心を見透かされたハルはうつむくことで目が泳ぐのを悟らせまいとした。が、それは徒労だった。逆柳はその動揺を突くように、
「『街の灯』は近々また動く。君たちを狙ってね。そういったターゲットを柵のうちに囲っているという点では、私が一歩先を行っていると言っていい」
「……前も言いましたけど、子供をマトに使って罪悪感はないんですか?」
「罪悪感? それは誤った判断をして、その後始末をするときに芽生える感情だよ。私には無縁の感情だ」
逆柳は判断を誤らない。勝ち馬にしか乗らない男だ。その最終決定が成されるとき、彼の勝利は決定している。
「ともかく、『猟犬部隊』は全面的に君たちをバックアップする。せいぜい派手にやって、私の追い風となってくれたまえ」
今度『街の灯』が動くときが勝負だ。『猟犬部隊』は『街の灯』と初接敵する。そのときにきちんとした対応ができるかどうか。
初手は失敗に終わってもいい。しかし、そこで充分に情報を集め、『街の灯』が大々的に動くときに真価を発揮する。逆柳の描いた筋書きはそんなところだろう。
つまり、最初はハルたちが痛い目を見てもいいという考えだ。最悪死ななければいい。それまでに影子を引きずり出して、また『街の灯』の『影爆弾』に立ち向かわなければならない。
ハルは己の役割を理解し、不承不承ながらもうなずいた。
「君が聡い人間で助かったよ。お互いにベットすべきものをベットして、ベストを尽くそうではないか」
「……オッズは高そうですけどね」
「どれだけ高くても構わない。私は今まで、すべての賭けに勝ってきたのだから」
その言葉に、驕った様子は見受けられなかった。淡々と事実のみを述べている。賭けに勝つためにできる限りの手を尽くした結果が、今の逆柳なのだ。
「今回も、勝つ。そのためには、君たちというピースが必要不可欠なのだということを肝に銘じてくれたまえ」
そう言うと、女性秘書になにかを耳打ちされた逆柳は席を立ち、
「健闘を祈る」
彼にしてみれば月並みな言葉と共に会議室を去っていった。
ひとり残されたハルは知らず張り詰めていた背筋を緩め、
「……どいつもこいつも、勝手なんだよ……」
眉根を寄せてため息をついた。
逆柳と雪杉の覇権争い。『街の灯』の動向。影子は影から出て来ず、師匠は死んだ。誰も彼もが好き勝手に動いている。てんでばらばらだ。
それに振り回されているハルとしては、正直しんどい。しんどいが、ハルがバランサーとして立ち回らなければすべては崩壊するのだ。
影子を舞台の上に引きずり上げて、雪杉の策謀をかわしながら、逆柳と共に『街の灯』を打ち破る。
今のハルに求められている役割は、そんなところだった。
そんな言葉では言い表せないほどの厄介な案件だが、やるしかない。
ハルは椅子から立ち上がり、会議室を後にした。
扉を閉めていると、耳慣れた声が背後から聞こえる。
「よっ、塚本」
「倫城先輩……!」
さわやかに挨拶する先輩は、ただの完璧超人ホモではなかった。ASSBの高校生エージェント……逆柳の『猟犬部隊』に所属する、れっきとした戦士、れっきとしたサラリーマンだ。
「いろいろあったみたいだな。お疲れさん」
「ええ、まあ……先輩は、どうしてここに?」
「俺も『閣下』から呼び出し食らってたとこ。おおかた塚本を秘密裏に守れとかそんな感じの……ちょっと時間あるか?」
「あ、はい」
「ちょっと屋上行こうぜ」
先輩に促されるまま、ハルはエレベーターに乗って屋上へ向かった。
昼に比べればまだ涼しい風が吹きつける屋上は、いくつかベンチがあって休憩スペースになっているようだ。が、今はひともいない。
先輩は自販機で冷たいスポーツドリンクを二本買って、一本をハルに手渡してくれた。
「ありがとうございます」
「いいって。ま、座れよ」
夕暮れ時から夜に変わる空を見上げながら、ハルはベンチに座って飲み物のふたを開けた。緊張でからからになった喉に少し甘い飲み物がよく沁みる。
先輩もスポーツドリンクに口をつけながら、ハルの方を見ずに、
「『閣下』に言われただろ。雪杉さんが動いてるって」
「……はい」
「そんで、お前も出世争いの駒のひとつになってくれ、とか?」
「……その通りです」
「ははっ、あのひとも案外わかりやすいからなぁ」
さわやかに笑ってから、先輩の表情が陰りを見せる。
「……ぶっちゃけ、俺も今迷ってるんだよ。柳か、杉か、どっちにつくか」
遠くを見つめながら、先輩がつぶやいた。ペットボトルを片手に、ぼやくように続ける。
「俺ももう高校三年の夏だ、野球部も春高で引退したし、受験だし。キャリアの転換点ってやつ? もちろん将来はASSBに就職するつもりでいるけど、そのときの上司が『閣下』のままなのか、雪杉さんになるのか、わかんねえ。たぶん、今が見極め時だ」
倫城先輩も未来ある若者なのだ。ここで判断を誤れば、その分出世コースから外れてしまう。それは先輩としても避けたいところだろう。
高校生なのにすっかり疲れ切ったサラリーマンの顔をしながら、先輩はペットボトルに口をつけた。
「俺はまだ子供だ。けど、大人の世界に足を突っ込んでる。突っ込んだ以上、子供のフリして逃げることは許されない。手のひらで転がされようとも、それなりにうまく立ち回らなきゃならないんだ」
倫城先輩らしい割り切り方だった。その横顔は幼さを残しつつも、すっかり大人のそれだ。
「……高校生エージェントは、いろいろフクザツですね」
ハルが同情するように言うと、先輩はちらりとハルに視線を送り、
「惚れた?」
にこっとさわやかに笑うものだから、ハルはスポーツドリンクを吹き出しそうになった。
「ははっ、冗談だよ……塚本、お前も気をつけろよ。事態の中心にいるのは、たぶんお前だ。お前を巡って、すべてが動いてる。だから、くれぐれも軽率な行動はしてくれるなよ?」
「……それはわかってます。先輩も、どっちにつくかはまだ決めてないでしょうけど、しくじらないでくださいね」
「俺はしくらねえよ。これでもいくつか死線を潜り抜けてきたんでね、心配ご無用だ」
先輩はスポーツドリンクを飲み干すと、ゴミ箱にペットボトルを投げた。がこん、と音がして、空のペットボトルがゴミ箱に収まる。さすが野球部キャプテンの投球コントロールだ。
「っし! 今は調子いいな! 俺はそろそろ行くわ。引き留めて悪かった」
「いえ、僕も話できてよかったです」
「うれしいこと言ってくれるじゃねえの。ま、お互い生きて二学期迎えようぜ」
「はい」
ハルが答えると、先輩はひらりと手を振って屋上から去って行った。
ぬるくなったスポーツドリンクを飲みながらビル風に吹かれ、ハルは思う。
振り回されているのは自分だけじゃなかったんだな、と。
「……なんだかな」
ことはハルの想定の範囲外に及んでいるらしい。
ままならないものだ。
スポーツドリンクを飲み終えて、小さくため息をつく。
もうすぐ夜が来る。
影子はよく眠れているだろうか?
そんなことを気にしながら、ハルはペットボトルをゴミ箱に捨てて、夜の迫る屋上を後にした。