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№20 かつて、

 ……また、夢だ。


 『影』も夢を見る。それは集合的無意識へのアクセスであり、情報の取捨選択である。


 ハルの影の中で眠り続けている影子にも、何度か夢が訪れた。


 その中には『影の王国』の真実に迫るものもいくつかあった。が、あくまで無意識は無意識だ。頭の中には残らない。


 ハルの姿もあちこちにあった。まるで昔のロードムービーのように再生される日常に、影子は懐かしい気持ちと歯がゆい気持ちを抱いた。


 違う、こんなんじゃない。


 アタシはもっと、非日常に生きる存在だ。


 しかし、この憧憬じみた感情はなんだ?


 影子は己の記憶に戸惑い、おののいた。退くことを知らない狂戦士である自分が恐怖するのは、ほかならぬ自分自身だった。


 繰り返し、繰り返し。脳裏に思い浮かぶ、ハルの怒った顔、呆れた顔、かなしそうな顔、笑顔。


 そのすべてに安堵することが、たまらなく悔しかった。


 闘争に生きる影子を、ハルが日常へと引き戻したのだ。


 あいつのせいで、アタシは腑抜けた。


 あいつのおかげで、アタシは安らいだ。


 それは事実だ。


 ミシェーラといっしょにいるハルが見えた。牙を失くした子犬のように、すっかりミシェーラになついている。甘えて、頭を撫でられて……


 やめろ、触るんじゃねえ。


 そいつはアタシのもんだ。


 アタシは、アンタのもんだ。


 なんてことだろう。


 これは、まるで……


 その感情がトリガーとなって、過去のある記憶がよみがえる。


 かつて、影子はある男の影だった。そのころの影子はハルの『イデア』である今ほど好戦的ではなく、ただ男の形をなぞって暮らしていた。


 生まれたときから、ずっとそばにいた。


 泣いたり怒ったり笑ったりしながら成長していく男のそばで、影子はただの影であることになんの疑問も持たずに過ごしていた。


 どこかハルに似ていた男は、非常に紳士的な青年になった。


 仕事をして、恋をして、結婚して、子供を持ち、年老いていく。


 そのどこかの時点で、影子はその男に惹かれた。


 決定的な何かがあったわけでもなく、ただ漫然と生涯のパートナーである男に特別な感情を抱いた。


 影が恋をしてしまったのだ。


 許されないことも、叶わないことも知っていた。が、止められなかった。


 ただ影として寄り添いながら、影子は思った。


 『食べちゃいたい』、と。


 暴走しそうになるそんな思いを必死に抑え、影子はひたすら影として男と共に過ごした。


 やがて男は死に至る病にかかった。


 病室でやせ衰えていく男のそばに、誰よりも長い間いたのは影子だった。


 血を吐き、もだえ苦しみ、痛みにあえぐその姿が、いやでもそばにあった。


 妻子より、親友よりもずっとそばにいても、影子には何もすることができない。ただの影である自分には、何もできないのだ。


 己の無力さに打ちひしがれていた、そんなある日。


 男はぽつりとこぼした。


 『ころしてくれ』、と。


 そうだ、影である自分にもできることがあるじゃないか。


 たったひとつだけ、男のためにできることが。


 影子は衝動のままに男に覆いかぶさり、どぷん、と男を食った。


 食われる瞬間、男の表情は安らいでいた。


 影子にとってはそれで充分だった。


 そして影子は『ノラカゲ』となり、ひどい飢餓感に苦しみながら長い歳月を過ごした。


 何人も食った。その分、影子は『影』として成長していった。


 幼い日のハルと出会ったのは、そんなときだった。


 いつものように食ってやろうと忍び寄る影子に、少年は静かに問いかけた。


 『きみ、のらかげでしょ?』


 逃げ出すでもなく、いのち乞いをするでもなく、ただあるがままに影子を受け入れるようなその口ぶりに、ひどく狼狽した。


 少年には影がなかった。たまにそういう人間がいるとは知っていた。


 幼いハルは、影踏みがしたいからぼくの影になって、と言ってきた。


 『おいで、こわくないよ』と、笑って手を差し伸べてくれた。


 もしかしたら、自分の終の棲家はこいつなのかもしれない。


 直感的に思った影子は、そのままハルの影となることを決めた。


 だが、以前のようなことがあってはならない。


 思いのままにハルを食うことは、絶対にあってはならない。


 影は恋など、してはいけないのだ。


 だから、影子はこの感情に『主従』という名前を付けた。


 なにがあっても守り、寄り添う。これは恋ではないのだから、きっと大丈夫だ。


 そうやってかりそめの安心を得て、影子は17年余りハルの影として過ごしてきた。ハルは成長し、やがて高校生になった。影子の中の『食べちゃいたい』という感情は膨らんでいく一方だったが、これは『主従関係』なのだと言い聞かせ、己を律した。


 ある日、ハルが『ノラカゲ』に襲われた。


 主人のために何かしたい。もう無力なままではいたくない。あるじを二度も失うのはごめんだ。


 そんな激しい衝動に駆られ、気付けば影子は『影子』として顕現していた。


 自分でも正直驚いた。が、それを悟られまいと目の前の『ノラカゲ』を潰してハルと対峙した。


 夢にまで見た、我があるじ。


 『影』として顕現した今、触れることだってできる。


 ハルの『イデア』としての自我が形成された今、対等に感情を交わすことだってできる。


 やっと、やっとだ。


 もう自分は無力な影ではない。


 ちからある『影』なのだ。


 だからこそ、主人のために戦わなければならない。


 それが、影子が影子である意味なのだ。


 その闘争心が悪い方向に向いていることはわかっていた。


 が、影子は戦うことをやめられはしなかった。


 もはや、ハルのための闘争が影子のアイデンティティになってしまったのだ。


 なにがあっても戦う。たとえ四肢をもがれようとも、たとえ消滅してしまっても、たとえハル本人がやめろと言っても。


 もう、影子にはそれしかなかった。


 だからこそ、ハルとあんなケンカをしてしまった。


 ハルはきっと正しい。しかし、自分だってきっと正しいのだ。


 正しさはひとそれぞれで、時としてそれがぶつかり合って争いになる。


 自分はただ、ハルを守るために戦いたいだけだった。それは、ハル本人が止めようとも止まらない。性根に染みついた従者根性だった。


 そうでなければ、影子は影子でいられない。


 主従の垣根を越えてしまえば、いつか恋に落ちる。そうなれば、あの男のような結末が待っているに違いない。


 だから、影子は『アタシはアンタのもんだ』とは言っても、『アンタはアタシのもんだ』とは決して口にしない。


 強迫観念じみた思いが深く根を張り、影子は意固地になってハルの影の中に引きこもっているのである。


 ……またあの女だ。


 ハルを甘やかして、すっかり陥落した気になっている。


 ああやって頭を撫でていいのはアタシだけだ。


 そんな顔をするな。


 やめろ。


 やめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろ。


 胸の内にくすぶる黒いもやもやした感情が暴走しそうになる。


 もはやこれは恋なのだが、影子は頑として認めない。


 あくまでも従者として、影子はミシェーラの存在を苦々しく思っていた。


 甘えに甘えているハルにも腹が立つ。


 そんな顔していいのはアタシの前だけだ。


 今にも飛び出してハルを奪い去りたいのに、意地を張ってしまってそうすることができない。


 なにか口実がなければ再びハルの前に姿を現すことはできないのだ。


 そうだ、あの『影爆弾』のオモチャの兵隊。


 アレがまた出てきたときは、ハルの前に顕現しよう。


 戦いのときだ。


 やはり自分は戦いに生きるしかないのだな、と再認識する。


 もどかしいが、今はそのときではない。


 やがて来る闘争のその時まで、影子は眠る。


 ハルの影の中、ハルの一番近くで。


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