影子が影の中にこもったまま、もう八月も半ばを過ぎてしまった。夏休みも残すところあと少しだ。
逆柳からは『街の灯』をおびき出す囮として、なるべくひと気のないところを歩けと言われている。もちろん周りは二十四時間『猟犬部隊』に固められているので安心と言えば安心なのだが、なんだか馬の鼻先に吊り下げられた人参になった気がしてあまりいい気分ではない。
じりじりと照り付ける太陽が光と影のコントラストを際立たせている。アスファルトには逃げ水が生じ、あまりの暑さに道行くひとは少ない。
昼間は囮として歩き、夜が始まる直前にはミシェーラと公園で落ち合う。そんな生活だ。
その日もハルはさまようように日差しで焼け焦げた道を歩いていた。ゾンビのようにゆらゆらとひと気のない通りを行きながら、熱中症対策のスポーツドリンクを飲む。からだじゅうに水分が行き渡るような気がして少し生き返った。
額から流れる汗を手の甲でぬぐい、もうすぐ夕方になるな、と思ったそのときだった。
どん!と近くの物陰から音がした。
以前にも聞いたことがある、爆発音。
「ぎゃあああああああ!!」
悲鳴が上がり、物陰から這いずり出してきたのは、『猟犬部隊』の隊員だった。右半身が吹っ飛んでおり、血の道を描きながらずるずると虫のようにのたうち、
「……た、たすけ……」
言いかけたその言葉を遮るように、再び『猟犬部隊』の影が爆発する。今度こそ、隊員は木っ端みじんに砕け散ってしまった。
にわかに周囲の気配が殺気立つ。敵はまず、ハルではなくその周りにいる『猟犬部隊』に牙をむいた。囮作戦はお見通しだと言わんばかりに。
きっと『猟犬部隊』の間では様々な情報伝達がされているのだろう、目まぐるしく配置が変わり、『曳光弾』を込めたショットガンの銃口がこちらに向けられているのがわかる。
突然の出来事にうろたえるハルの影から、にゅ、と影子が出てきた。久しぶり、とも、ごめん、とも言わず、影子はただ闘争の赤い笑みを浮かべつつ、
「ふはっ、あのオッサン、裏かかれてんじゃん! アタシとしても想定外だけど、しゃあない、引きずり出して今度こそ全部粉々にしてやんよ!」
どるん!とうなるチェインソウを構え、右に左に視線を向ける。
「どこだ……? 出て来いよ!」
「影子! まず本体を……」
「るっせ。今更アンタの言うこと聞く義理はねえ」
言い放つ影子の声はひどく冷たかった。きっぱりと拒絶されている。
下唇を噛みながら、それでもハルは影子の身を案じた。影に引きこもってからずいぶん時間が経っているので、回復は充分だろう。が、本体を探して元から敵を断たなければ以前と同じことになるだろう。元の木阿弥だ。
また周囲で爆発が起こる。『猟犬部隊』が『影爆弾』の餌食になっているのだ。このままでは全滅だ。
「そこかぁ!!」
視界の端を横切ったオモチャの兵隊の行進に、影子のチェインソウが割って入る。ひと薙ぎすれば、兵隊は墨汁のような血液をまき散らして破裂してしまった。
三体、四体。しらみ潰しにオモチャの兵隊を片付けていく影子を脅威と認定したのか、『影爆弾』の注意が影子に向く。
何体かが影子に殺到し、その影に侵入しようとした。
「同じ手は食わねえっつってんだろ!!」
逆に言えば、向かってくる先が分かり切っている行軍と言える。自分の影へとまっしぐらに突っ込んでくる『影爆弾』たちを、うなりを上げるチェインソウが次々弾けさせた。
「まだまだぁ!!」
ロンドを踊るようにチェインソウを操る影子は、まさしく舞台上の踊り子だった。やけに赤いくちびるに、いびつな笑みが浮かんでいる。
状況を把握した『猟犬部隊』も、続々と物陰から出てきた。『曳光弾』を散発的に放ちながら、ハルを囲むようなフォーメーションでオモチャの兵隊たちを粉砕していく。
物量としては五分五分だった。そうこうしているうちにも、『影爆弾』たちは一体、また一体と粉砕されていき、確実に敵勢力を削っている。
しかし、それだけでは終わらなかった。
オモチャの兵隊たちはその身を削られながらも、特攻兵のように影に突撃してくる。『猟犬部隊』の隊員が侵入を許し、その影がまた爆発する。爆炎はひとりを爆砕するだけにとどまらず、周囲の隊員も巻き込んで荒れ狂った。
ハルを囲む一角が崩され、『猟犬部隊』の陣形は乱れた。この状況ではハルは丸はだかだ。
それを察知した遊撃手の影子が、苦々しげな顔をしながら取って返す。
「なぁにやってんだよ、このワンコロども!!」
影子はセーラー服をひるがえし、崩れた陣形を立て直そうとチェインソウをいななかせ、特攻してくるオモチャの兵隊の欠片を一掃した。
「次来いやぁ、次ぃ!!」
煽るように哄笑を上げ、ぶぅん、とチェインソウを振り払う影子。
しかし、また『猟犬部隊』の影に『影爆弾』の欠片が紛れ込み、大きく爆発した。守られていたハルにまで熱風が伝わるほどの衝撃だ。隊員は消し飛び、周囲のものまで巻き込まれて負傷する。
「……ちっ、こっちは本丸落とされたら終わりなんだよ!!」
標的はハルだ。『影爆弾』がハルの影に入ればすべては終わる。
……が、おかしい。
これだけ陣形が乱れているというのに、オモチャの兵隊たちはハルの影には見向きもしなかった。特攻してくるのはあくまで影子や『猟犬部隊』に向かってである。もう充分に城壁は崩しただろうに、肝心のハルの影にたどり着く気配は一向になかった。
「影子! なにか変だ!」
「るっせ! アンタは黙って守られてろ!!」
「そんなことできない!! 君は僕のものだろう!!」
「だから!! その約束は……」
ハルとのやり取りに気を取られた影子が、オモチャの兵隊を一体仕損じてしまう。カケラとなった『影爆弾』は影子の影に向かってまっしぐらに特攻し……
気が付いたら、ハルは影子と入れ替わるように影子を突き飛ばしていた。今更進路を変えられない『影爆弾』は、すぅ、とハルの影に溶け込んでしまう。
直後やってくるであろう耐えがたい衝撃を、鮮烈な死を覚悟して、ハルはぎゅっと目をつむった。
…………。
「……あれ……?」
冷や汗まみれになりながらうっすらと目を開けたハルの影は、まだ爆発していなかった。爆発しそうな気配もない。
それどころか、オモチャの兵隊たちは散り散りになって撤退していた。あれほど鳴り響いていた爆発音も、今は聞こえない。
あとに残されたのは、肉片になったり負傷したりした満身創痍の『猟犬部隊』と、震えの止まらないハルと、そして。
「なぁにやってんだ、このクソバカが!!」
影子の拳が咆哮と共にハルの頬にめり込む。マトモに食らったハルはもんどりうって倒れ、しばらくして訪れた痛みに顔をしかめた。
頭蓋骨が歪んだかと思うほどの強打のあと、影子はハルの胸倉をつかんで引きずり上げ、鼻と鼻がくっつくほど近くに顔を寄せて怒鳴り散らした。
「まだわかんねえのか!? アンタがいなきゃなんにもなんねえんだよ!! アタシを無意味にすんな!! アンタはただ黙っておとなしく守られてりゃいいんだよ!! それがアンタの、主人の役割だろ!!」
どこか苦いものを含んだ怒りの表情で、影子はハルの胸倉を揺さぶりながら吠えた。
たしかに、本丸であるハルが遊撃手である影子をかばうなど、愚の骨頂だ。ハルがたおれればすべては瓦解する。あるじの務めは大きく構えて守られていることだ。それは痛いくらいによくわかっていた。
けど、それでも。