「……あ……やめ……!」
じゃぶん。いのち乞いの言葉を最後まで聞かず、『メイド』はスーツ姿の中年男性を飲み込んでしまった。
「……今日はもう、このくらいにしておくか」
「はい、ご主人様♡」
パーカーのフードを目深にかぶった久太が告げると、見上げるほどの大きさの『メイド』が甘ったるい声音で返事をする。
もうずいぶんとひとを食わせてきた。敵対する人間も、無関係な人間も。
その分『メイド』の姿や言葉は、まるでカメラのピントが合うように具体性を帯びていき、今やメイド服の裾のフリルまで鮮明になっている。
「今日も私、お腹いっぱいです♡」
「それはいいけどな、お前デカくて目立つんだから、できるだけ隠れて食えよ」
「ご、ごめんなさいご主人様! 私、気をつけますぅ!」
『メイド』がおろおろと挙動不審になると、辺りにつむじ風が巻き起こった。五階建てのビルほどの大きさの『影』なのだ、当然そうなるだろう。
「もういい、戻れ。もうじき夜だ」
「はい、はい、ご主人様♡」
こびへつらうように腰をくねらせる『メイド』に指示を出していると、ふと裏路地に、かん、かん、と乾いた音が響く。
急いで振り返ると、それは一本歯の下駄の音だとわかった。
……音の主の男は、一言で言うと極彩色だった。
ド派手な花魁衣装を肩に羽織り、短くした髪は燃えるような赤に染められている。片目を真っ赤な椿の眼帯でふさいでおり、背が高い割に異常なほどにやせ細っていた。もしかしたら体重よりも衣装の方が重いかもしれない。
男は巨大な『メイド』には目もくれず、歩調を緩めながらにんまりと笑った。
「やっと見っけ、『影使い』君」
『影使い』? この男は『影』についてなにか知っているのだろうか?
「……なんなんだ、あんた」
警戒心をマックスにした久太が問いかけると、男はさらに笑みを深めて、
「なんだかなぁ。ひとに名前を聞くときは、まず自分から名乗るべきじゃない?」
イカれた身なりで、いきなり至極マトモなことを言ってきた。面食らった久太は思わず名乗ってしまう。
「……長良瀬久太」
「うん、よろしい! 自己紹介ってのはねぇ、大切だよ。人間関係をスムーズにする。ああ、名乗られたんだから名乗らなきゃいけないな。小生はね、『モダンタイムス』っていう、ただの王様だよ」
「……『モダンタイムス』……王様……?」
言っていることがめちゃくちゃだ。やはり、ただの頭のイカれた変質者なのか。
関わってはマズいと思い、久太はその場を逃げ出そうとした。
しかし、きびすを返そうとした瞬間、背後から首筋に冷たい何かが突きつけられる。
「……動くな」
凛とした少女の声音だ。なにか刃物を当てているらしい。今自分がどうなっているのか確認するのも怖くて、久太は呼吸さえ止めてしまった。
「ご主人様ぁ!」
『メイド』が声を上げるが、首元の刃物は揺るがない。
「あーあ、ダメだよ、秋赤音。初対面のひとにそんな粗相しちゃあ」
「いえ。あるじ様の言葉を耳に入れようとせぬ不届きもの、このくらいは」
「とにかく、だぁめ。乱暴しちゃいけない」
「……委細承知」
す、と喉元に突きつけられたプレッシャーが遠のく。自分が息を止めていたことに気付いた久太は、ようやく重いため息をこぼした。
「大丈夫ですかぁ、ご主人様ぁ!」
「……大丈夫だ」
油断せずに男……『モダンタイムス』に視線を合わせていると、自分の喉元にやいばを当てていた人物が寄り添うようにたたずむ。
極彩色の男に比べれば、少女はモノクロームだった。白と黒で構成された動きやすそうな和風の衣装は、漫画で見たくのいちのものだ。手にはクナイを持っており、黒い頭巾からは黒髪のポニーテールが伸びている。
まったく隙のないたたずまいは訓練されたもののそれだった。ただのコスプレではなく、少女、秋赤音はまさしくくのいちなのだ。
「あるじ様のお言葉だ。こころして聞くがいい」
「まったくもう、秋赤音はいつもそうやって、」
「あるじ様がしゃきっとなさらないからです」
「あはは、まあ、そりゃあ、『イデア』である君がそんなんだからねぇ。小生はちゃらんぽらんなわけだよ」
「……『イデア』……? まさか、その女、『メイド』と同じ……!?」
「そう、『影』だよ。小生の『影』、秋赤音。陽の小生に対しての陰。小生の『イデア』。ところできみきみ、陰陽思想って知ってるかな?」
「……ちょっとは知ってるけど……?」
「『影』はね、そのあるじと正反対の性質を持つ『実存』に対しての『イデア』なんだよ。君は男、メイドちゃんは女、君は背が低い、メイドちゃんはちょう大きい、君はヤンキー、メイドちゃんはのほほんおっとりドジっ子ちゃん。こんな風にね」
なるほど、たしかに真逆だ。『影』とはそういう風になるべくしてなったのか。
久太が黙って話を聞いているのをいいことに、『モダンタイムス』はぺらぺらと先を続けた。
「世の中は存外広くてねぇ、君や小生のような『影使い』というものも存在するんだよ。自分の『イデア』を使役するあるじ。それが『影使い』さ」
「……『ノラカゲ』ってのは聞いたことある。それとは違うのか?」
「ぜぇんっぜん!! アレはあるじを持たない『影』だよ。ただひとを食うしか能のないザコ。けど、『影使い』の『影』には個性がある。『イデア』たる個性がね。そして、『影』はあるじを食わない。あるじに従い、あるじを守る存在だ。安全な味方だよ」
「……味方……」
「けどねぇ、困ったことに、そんな『影』をやっつけたがるひとたちがいるんだよぅ。ASSBって聞いたことある? ほらほら、ニュースでたまにやってるやつ。あいつら、『影』とみるとすーぐ攻撃してくるんだよね。だから、小生は『影』を守るために組織を作り上げたんだ」
「組織だと?」
「うん! 『影の王国』って言ってね、『影』たちが安心して暮らせる世界を目指してるんだぁ。その王国の王様は七人いたはずなんだけど、ちょっと欠員が出ちゃって、今は五人しかいない。その内のひとりが小生ってワケ」
『影使い』にASSB、そして『影の王国』の七人の王様。
だんだんと話が見えてきて、久太は俄然興味をそそられた。
「ASSBと敵対してるのか?」
「そ、そ。自分の『影』を守るのがあるじとしての務めだろう? 『影』を守るためにも、ASSBは打倒すべき組織だ。ASSBの対抗組織、それが『影の王国』」
政府機関すら敵に回すとは、よほどのこわいもの知らずらしい。それとも、それほどまでに自分の『影』が大切なのか。
自分は、と考える。最初は気味悪かった『メイド』も、形や言葉を得た今、すっかり久太の半身となっている。もしも自分の『イデア』とやらが『メイド』ならば、守ってやりたいとも思った。
そんな久太のこころの揺れに気付いたように、『モダンタイムス』はわざとらしく首を傾げ、
「でもねぇ、王様が五人だけっていうのは収まりが悪いんだよねぇ。そこで、君。『影の王国』の王様のひとりにならない? 先っちょだけだから」
ぱん、と手を合わせてお願いしてくる。部活の勧誘みたいだ。というか、先っちょだけってなんだ。
「……正直、ASSBと敵対する気はない。俺は現状維持でいいと思ってる」
慎重に言葉を選びながら、久太が口を開いた。
「けど、その現状が切り崩されんなら、戦うつもりはある。まだ実感ねえけど、『メイド』が俺の『イデア』ってやつなら、守ってやりたい」
「要するにぃ?」
「…………考えとく、とだけ」
今決断するのは時期尚早だ。これは久太の人生に関わる問題な気がしたからだ。
ASSBの手から『影』を守る組織、『影の王国』。
悪い話ではなさそうだが、どうもこの『モダンタイムス』という男は信用ならない。たまにいるのだ、息をするように平気でウソをつく人間が。この話には裏があるかもしれない、だから簡単に乗ってはいけない。
『モダンタイムス』は余裕しゃくしゃくの笑みでうなずき、
「いいよぉ。じっくり悩んで決めてね。悩んでる間も、小生は君の味方だよん!」
「味方、か……」
『メイド』と出会ってからというもの、『影』に関してはおおよそ味方と呼べるものはいなかった。ずっと孤独に『メイド』と向き合ってきたのだ。そこへ来て、同じ『影使い』が現れて、味方になってくれると言う。もうひとりで抱え込まなくていいのだ。
「そいじゃ、またちょくちょく様子見に来るからねぇ。いろいろあるだろうけど、お達者でー」
『モダンタイムス』はしつこく勧誘するようなことはせず、至極さらりと手を振って、秋赤音と共に気楽に下駄の歯を鳴らしながら去っていった。
「……おい、お前どう思う?」
ふたりきりになった久太と『メイド』は高低差のある視線を合わせて、
「……うーん、私はバカだから、ご主人様の判断に任せます。どこまでもついてきますからね♡」
「……そ、か」
『メイド』は久太を全面的に信頼してくれている。
その信頼に応えるために、正しい判断をしなければならない。
あの『モダンタイムス』という男、そして『影の王国』。
どこまでが本当で、どこまでがウソなのか。
信用ならない男だが、とりあえずのところ脅威ではない。判断を保留しておいていいだろう。時間をかけて真実を見抜く。そうするしかない。
「……ふぁ、ご主人様ぁ、私もう眠いですぅ……」
「ああ、もう夜だったな。いいぞ、戻れ」
「はぁい、おやすみなさい、ご主人様♡」
久太の小さな影に巨大な『影』がするすると吸い込まれていく。
たったひとりになった久太はパーカーのフードを深くかぶり直し、ポケットに手を突っ込んで裏路地から立ち去った。
見極めてやる。
そうこころに決めて。