波乱の夏休みもなんとか乗り越え、ハルたちは再び学園生活に戻ってきた。
非日常的日常に退屈するヒマもなく、あわただしく毎日が過ぎ去っていく。
九月も後半を迎え、学校は毎年恒例の体育交流祭に向けて準備を始めていた。
要は体育祭なのだが、普通の体育祭とは違って、他の高校との交流を深めるためにいろいろな競技で成績を競い合うのだ。
この一風変わった行事では、毎年学校の威信をかけて気合の入った練習が行われていた。
しかも、相手の高校というのがヤンキー高校で有名な学校なのである。どちらかというと進学校寄りのハルの学校にしてみれば、ヤンキーごときに負けてなるものかとなる。おそらくは、向こうもお上品な優等生なんかに負けるか、と躍起になっているだろう。
今日も体育の授業は体育祭のための練習だ。
芋ジャージ姿でボールや何かの機材を運んでくるハルのそばで、影子は胸に『2-B 塚本(影)』と書かれた白い半袖の体操シャツに黒いブルマ、黒のハチマキ姿で、真っ黒な釘バットを延々素振りしていた。
「…………ナニヤッテンノ?」
突っ込むのもめんどくさくなってカタコトで問いかけると、影子はさわやかな笑顔で額の汗をぬぐいながらとげとげのバットを肩に担ぎ、
「ん! 決まってんだろ! 相手はヤンキー高だ、それなりの『準備』はしておかねえとなぁ……?」
「戦争じゃないんだからやめろよ!」
殺る気満々の影子が不穏なことを言うものだから、ハルは思わず大声を上げてしまった。影子は口を尖らせて、
「えー? ヤンキーと仲良くなんには夕日の河原でタイマン張るんだろ?」
「それ、ワタシも聞いたことありマツ! 夕暮れの河原で殴り合って、『お前強いな』『お前こそ』で芽生える友情! そして時と共に友情は愛情へと変わり、やがてヤンキー受けが……」
通りがかったミシェーラが、なにかわからない専門用語的なものをうわごとのようにつぶやいている。するとクラスの目立たない女子たちが集まってきて、お互いに共鳴するように密談を始め、最終的には、きゃー!と黄色い歓声を上げていた。
「影子様! そ、それで私を打ってください!!」
ギャル風に芋ジャージを着こなしている一ノ瀬がすり寄ると、影子は露骨に汚物を見るような目をして、
「こいつはてめえには上等すぎるシロモノだ。てめえはその辺の棒っきれでも咥え込んでひとりでよがってろ」
「はい♡ 私は影子様の従順な犬です♡」
「犬じゃねえ、豚だろうが、メス豚。鳴け」
「ぶひ♡ ぶひ♡」
遠目から生ぬるい視線を送るクラスメイト達も慣れたものである。これがかつてハルをいじめていたクラスのボスギャルの末路だとは、誰も想像すらしていなかったに違いない。
四つん這いになって豚の鳴きマネをする一ノ瀬のすぐそばを、合同練習中の倫城先輩が通りすがった。
「ははっ、相変わらずだなぁ、塚本影子。大変だな」
「まったくですよ……」
「……なあ、これから体育館裏でふたりきりで……」
「それ以上は聞きたくないですお断りします」
「相変わらずつれねえの」
ちょっとすねた顔がかわいいと思ってしまったら負けだ。じゃあな、と手を振り、倫城先輩はさわやかに去っていった。成績優秀、運動神経抜群、眉目秀麗、野球部のキャプテンで人望もあり、聖人のような人格者である倫城先輩が、まさかハルをつけ狙うホモだったとは、半年前まで想像すらしていなかった。
「おら!! 釘バット素振り100本!! アンタもやんだよ!!」
「釘バットしまって影子!!」
「私もお供しますぅ♡」
「エッ、なになに、棒を穴ニ!?」
さっきの余韻が冷めやらぬミシェーラがまたなにか勘違いし始めた。
もう収拾がつかなくなってしまったその場で、ハルは深いため息をつく。
同時に、少しだけ口元に笑みを浮かべた。
騒がしくて、にぎやかで、退屈しない日常。
決して完全なる平和ではないが、ハルはこの日常を愛していた。
戦って、勝ち取った日常だ。これから先も戦うことはあるだろう。しかし、ハルは折れることなくこの日常を守っていくつもりだ。
「おい、なにひとりでニヤけてんだよ? アタシでやらしー妄想でもしてんのか?」
「そ、そんなわけないだろ!?」
「あーやしー」
うろたえるハルに、影子が意地の悪い笑みを浮かべて迫る。
「ほーら、ブルマから伸びる白いふとももだよー♡」
「だいたい! なんでひとりだけそんなカッコなんだよ!?」
「んー、目立ちたいから?」
教師、仕事しろ。ハルは強くそう思った。
「目指せヤンキー軍団皆殺し!」
「目指すな!」
釘バットで空の彼方を差す影子に、ハルは渾身のツッコミを入れた。
ヤンキー高校か……ちょっとこわいけど、もしかしたらまた友達ができるかもしれない。
なぜだかわからないが、そんな予感がした。
「楽しみだな、体育交流祭」
「おっし、やんぞ!」
「うん!」
やる気になったハルは、せっせとボールなどを運んでいった。
今日は体育交流祭に向けての体力測定だ。
運動が苦手なハルにとっては憂鬱な行事だったが、今回ばかりは張り切った。
走って、跳んで、投げて……いろいろなことに筋肉を使って、汗をかいた。
記録を書いたボードを持ってひと休みしていると、陸上トラックの方から歓声が沸き上がる。
「すげえ!」
「ぶっちぎりだ!」
「さすが!」
……まあ、大方の予想はついていたが、とりあえず向かってみる。
「ッシャア!!」
ブルマ姿の影子がガッツポーズをする横で、計測係の生徒がストップウォッチを握って静かに混乱していた。
「……100メートル、9秒32……?」
「……たしか、ウサイン・ボルトがそんなんだったような……」
「……えっ、世界記録……?」
今まさに人類最速の男をぶっちぎった影子は、汗ひとつかかずに胸を張って余裕のピースサインだ。
「…………ま、いいや。記録しとこ」
考えるのをやめた記録係は、影子のボードに記録をそのまま書き連ねた。
「へっへー、すげえだろ? んん?」
勝ち誇ったようにハルにマウントを取る影子のボードを覗いてみると、どれもこれも世界レベルで戦える記録ばかりだった。
「……君、さ……」
「んん? なんだよ?」
「目立ちすぎなんだよ! こんなんじゃすぐに普通の女子高生じゃないってバレるだろ!? ちょっとは自嘲しろよな!」
「やだね。アタシは目立ちたいんだ!」
「……ああー、もう、これだから……!」
頭を抱えたハルは、とりあえずボールペンで影子の記録を普通の女子高生よりちょっと運動ができる、程度に書き換えておいた。これでよし。
一息ついているハルのボードを覗き込み、影子はその記録をぷーくすくすと嘲笑った。
「ウケる。これ、女子より体力ないんですけど」
「う、うるさいなあ!」
記録ボードを隠すように抱きしめて、ハルはそっぽを向いてしまった。
別段、『影使い』になったからといって、なにか本人に特別なちからが宿るようなことはないらしい。いきなりスーパーマンになるなんて、所詮他愛のない夢物語だ。ハルは運動音痴の冴えない高校二年生のままだった。
「ん、まあ、そんなアンタの『イデア』だからこそ、アタシは光輝けるんだけど! そこんとこはサンキューな!」
「うれしくない……!」
これは暗に、成績優秀スポーツ万能眉目秀麗な影子の『陽』であるハルが、バカでドジで間抜けでパッとしない、みたいに言われているようなものだ。心外だ。
……そうだ。同じ『影使い』のミシェーラはどうだろう?
ミシェーラの持つ『影』は、オモチャの兵隊の『影爆弾』だ。破壊と殺戮に特化した影の軍団。そんなミシェーラは、一体どんな身体能力を持っているのだろうか?
たしか、オモチャの兵隊自体は非力だったはずだ。とすれば、その『陽』の存在であるミシェーラは……?
「おい、どこ行くんだよ? アタシの活躍に嫉妬したか?」
「違うよ! ミシェーラの様子を見に行くの!」
「んん? あのデカケツビッチのことがそんなに気になるか?」
「そういう意味じゃなくて! 同じ『影使い』としてどうなのかなって、気になって……」
ああ、そういうことね、と訳知り顔でにんまり笑って、影子は珍しく引っ込んでくれた。こういうのはあとがこわい。
改ざんした記録ボードを持って体育教師のところへ行く影子を背に、ハルはミシェーラを探してグラウンドを歩いた。