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№16 水面下の舌戦

「……了解した。君たちは少し休みたまえ」


 ハルからの連絡を受けて、逆柳は目を細めてそう告げるとそのまま通話を切ってしまった。


「いいのか?」


「ええ、構いませんよ。向こうはひとまず片付いたようですので」


 手に持った、イマイチ使い慣れないスマホをひらつかせてからスーツの懐にしまう。


 そこは、古式ゆかしい日本家屋の畳敷きの大広間だった。五十畳ほどはあるだろう広大な間取りに、豪華絢爛な金襴の絵が描かれたふすま、床の間には立派な赤備えが一式と、二振りの日本刀。廊下の向こうには立派な松と鯉の泳ぐ池が見え、鹿威しが、かこん、と音を立てていた。


 それもそのはず、ここは政界の一大派閥の議員邸である。逆柳が正座しているふかふかのちりめん座布団も、おそらくは最高級品であろう。


 目の前には、老人がひとり。


 老いてなお出刃包丁のようにぎらつく眼光に、力強い鷲鼻。贅肉はこそげ落ちているが、貧相ないでたちでは決してない。着流しに羽織姿の老人は、ともすれば政治家というよりは一家の大親分といった風情だ。


 なるほど、政治屋とヤクザは紙一重とはよく言ったものだ、と逆柳はこっそりと口元を緩めた。


「『影の王国』の『七人の喜劇王』がひとり、『モダンタイムス』か……」


 老人は目をぎらつかせながらあご先に手をやった。先ほどの通話はスピーカーにしてあったので、今しがたのハルの報告はすべてこの老人にも聞こえている。


「……小癪なことをしてくれたものよの」


「そう、現場では今、こういうことが起こっているのですよ」


 現場を知らない政治家である老人に対して、逆柳は皮肉めいた言い回しでそう告げた。


「貴方がたの法案は、そこに一般市民を突っ込ませるためのそれです。さて、何人、何十人、何百人、何千人死ぬでしょうね?」


 対『ノラカゲ』法案。雪杉の置き土産であるその法案を押し通そうとしていた議員の中でも、もっともタカ派とされる議員がこの老人だった。


 思想としては以前の雪杉と同じ、『すべての『影』は悪である』というものだった。もちろん、政治家らしく清濁併せ呑むことができる点は、雪杉にはなかったところだが。


 舌戦の相手としては申し分ない。舌なめずりをしたくなるが、そこは抑えてあくまでもお上品に逆柳は議論の幕を開けた。


 死ぬ、という概念からは程遠そうな生気に満ちた老人は、ふん、と鼻を鳴らして脇息に肘をついた。


「一般市民が自衛できないのならば、一体だれが彼らを守ってくれる? まさか、『影』が味方になってくれるから大丈夫、などとは言うまいな?」


 先手を封じるような老人の言葉に、背筋をまっすぐに伸ばして正座をする逆柳は、間を持たせるように供された宇治茶を一口、含んだ。そして、


「そのための私、そのための『猟犬部隊』、そしてそのための『対策本部』です。一般市民の安全は私たちが保証しますよ」


「ずいぶんと大きく出たものだ。その強がり、いつまでもつかな?」


「強がりではありません。確固たる実績に基づいた自信、いえ、確信です」


 そればかりはペテンではなかった。


 逆柳は固く信じているのだ。


 自分が、ハルと影子たちが、そして『対策本部』が、活路を拓く、と。


 まっすぐ射抜くように老人の瞳を見詰める。並の人間ならばすぐに目をそらしていただろうが、逆柳はずいぶんと長い間、老人と見つめ合っていた。


 結局、先に目をそらしたのは老人の方だった。勝った、と言うよりは、勝ちを譲られた、と言うべきだろう。


 老人は大げさなため息をつき、わざと困った顔をしながら、


「たしかに、君は『影』については一家言あるかもしれん。だが、『影の王国』が今後また一般市民を巻き込んだテロを起こしたとしたらどうする? 先の『街の灯』、ミシェーラ・キッドソンの一件、忘れたとは言わせんぞ」


「無論」


「ふん、ならばいい。あのようなテロがもう一度起こってみろ、今度こそひとが死ぬぞ? それこそ何人も、何十人も、何百人も、何千人もな」


 先ほどの逆柳のレトリックをそのまま借りて、老人は揶揄するように告げた。ここは下手に切り込んではいけない。そう判断した逆柳は何も言わず、ただ黙って背筋を伸ばして前を見据えていた。


 老人は脇息から身を乗り出し、活気づいたように続ける。


「そのための対『ノラカゲ』法案だ。一般市民も自衛せねばならん。そういった体制を作らねば、国民は納得せんのだ。君たちは、今後今までのような奇跡が起こる保証までしてくれるのか?」


 まだだ。まだ口を開くべきではない。問いかけには答えず、逆柳は口を引き結んで前だけを見詰めていた。


「『影使い』の協力を仰げるということはいいだろう。『影使い』の集まりである『影の王国』には『影使い』をぶつける必要がある。しかし、手持ちの手札に『影使い』はふたりだけだろう。塚本ハルとミシェーラ・キッドソン、彼らですべてのテロに対処できるとは思えんがな」


 今は雌伏する時である。言いたいだけ言わせて、最高のタイミングで最大効果を発揮する言の葉を。


 そんな逆柳の目論見を見越してか、弁論術のプロフェッショナルである老人は駆け引きを楽しむように笑って続けた。


「仮に君たち『対策本部』の後押しがあったとしても、不意に起こるテロリズムに対しては後手後手に回るしかないのが対処する側の宿命だ。そして、テロの標的はいつも一般市民だ。その一般市民が自衛できなくてどうする? 君は黙って死ねというのか? 今こそ、すべての国民が『影』に対抗する手段を獲得する時だ」


「……お言葉ですが、先生。その必要はありません」


 ようやく逆柳が口を開いた。この男にしては今ひとつ打撃力に欠ける一言だったが、それはジャブであり、本命は二言目にあった。


「一般市民は自分たちで身を守る必要はありません。本当は何が起こっているのか、知る必要もありません。『影』とはなんなのか、『影の王国』とは何なのか、何も知る必要はないのですよ」


 知る必要にまで言及されて、初めて老人の目が軽く見開かれた。


 すべてを闇に葬ろうとしているとも取れる逆柳の宣言は、ともすれば過激に過ぎていた。少なくとも、敵の陣中深くでする発言ではない。


 かこん、とまた鹿威しが鳴った。


「……国民には、知る権利がある」


 逆柳の真意を探ろうとしている老人の言葉に、返す言葉は涼しげだった。


「知らなくとも良いことを知らせる必要がどこにありますか?」


「……君は、国民の知る権利を全否定するつもりか?」


「ええ。真っ向から否定します」


 今度こそ、老人は面食らった顔で黙り込んでしまった。


 この老人の前でここまできっぱりと爆弾発言ができるのは、相当なバカか、相当な狂人か、相当に肝の据わった頭の切れる人間だ。逆柳にバカの自覚はないので、狂人か三つ目かだと信じている。ある意味そのふたつは同じステージに存在しているのだが。


 老人の隙を突いて、逆柳は臆することなくとうとうと語った。


「国民は何も知らず、ただ我々に守られていればいい。知ることは、恐怖することにつながります。いたずらに一般市民の恐怖をあおる必要はない。報道は必要最小限に、そして事態はあくまで秘密裏に処理する。そういった対応こそが必要なのではないでしょうか?」


「……続きを聞こう」


「ありがとうございます。我々はなんの見返りも求めない。相変わらずなんの仕事をしているのかもわからない、公安の給料泥棒呼ばわりされても一向にかまいません。正体不明の昼行燈。本来、正義のヒーローとはそういうものですからね」


「……ふふっ、『正義のヒーロー』とは、な」


「ニチアサは今も私の人生の潤いのひとつでしてね」


 毎年手を変え品を変えテレビで放映されるヒーローもののことなど、この老人はなにも知らないだろう。


 だが、それでいいのだ。


 知る必要のないことをわざわざ知らせることはない。


 それは『影の王国』と国民に関してもだ。


 なまじっか過激な報道がされるからこそ、一般市民はテロに怯える。怯えるからこそ、自衛の手段を求める。対『ノラカゲ』法案は、その行きつく先だった。


 ならば最初から最後までなにも知らないままの方がいい。すべてを秘密裏に処理することによって、国民はまさに『何事もなかったかのように』日常生活を送れるのだ。


 そのために暗躍するヒーローの存在など知らなくても良い。感謝されたくて活動をしているヒーローなどどこにもいない。いたとしたら、それはもはやヒーローではなくただの偽善者だ。


 逆柳はただ、『ヒーロー』になりたかった。


 その夢を、今、ハルたちに託しているのだ。


「お約束いたしましょう。私の進退を賭けて、『影の王国』は必ず撃滅いたします。ゆえに、対『ノラカゲ』法案は必要ありません」


 ダメ押しに、とばかりに逆柳が手札を切った。


 長い人生の中で数えるほどしかいなかった論客と対峙して、老人は久々に喉が渇くような焦燥感を味わった。スリル、と言い換えてもいいかもしれない。


 もちろん老獪な政治家だ、反論のしようはいくらでもある。


 が、その反論のすべてが撃墜される未来しか見えない時点で、老人のチェックメイトは決定していた。


「いいですね? 先生」


 にっこりと笑いかける逆柳に対して、老人は苦悶するように呻く。


 これは勝者の笑みだ。


 ならば、敗者には敗者にふさわしい笑みがあるだろう。


 そんな笑みを浮かべながら、老人が出した答えは……


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