久太は今日も爪を噛んでいた。
というより、もはや指の皮をむしりかじっていると言った方がいいか。
指先から絶え間なく血を流し、路地裏でうずくまりながら、ここへ来るであろう人物をひたすらに待つ。
久太は完全に恐慌状態に陥っていた。
常に見張られているような錯覚。まわりのすべてが敵に見える。いつなんどき誰かが……いや、ハルが久太に罰を与えに来てもおかしくない。
きっと来るに違いない。その前に、早く、早く。
神に祈る心地で待っていると、その人物はいつものように一本歯の下駄をからころと鳴らしながらひょっこり現れた。
「やあ、やあ! 長良瀬久太君! おやおや? ずいぶん元気がないようだけれど、大丈夫かい? 小生心配だよぅ!」
ウザ絡みしてくる『モダンタイムス』を手で押しのけ、憔悴しきった久太はすがるように問いかけた。
「……やったのか……?」
誰を、なにを、とは言わない。こわくて言えない。
しかし『モダンタイムス』はそれですべてを察して、へらりと笑って答えた。
「うん! 逃げられたけど、とりあえずこっぴどくやっつけといたよぅ!」
「……そう、か……」
ほっと息をついて引きつった笑みを浮かべる。これでもう、久太に害が及ぶことはないだろう。そういう安堵と共に、ハルがなんとか逃げおおせてくれた安堵もあった。
この期に及んで、久太はまだハルを友達だと信じたがっているのだ。
まだ一縷の望みが残されていると。
『モダンタイムス』はそれが気に食わなかった。
へらへら笑いながら決断を迫る。
「ほぅらね。小生の言った通り、塚本ハル君はASSBの手先の『影使い』だったろう? なにせ、『七人の喜劇王』と聞いた途端襲い掛かってきたんだからね! 小生こわかったよぅ!」
「……あのハルが……そんなこと……」
うわごとのようにつぶやく久太に、畳みかけるように『モダンタイムス』はひょうひょうと続ける。
「うわ、まだ信じてるのかい? 女々しい男だなぁ、長良瀬久太君は! ああ、『女々しい』って表現は昨今では過剰に叩かれる傾向にあるね! ま・それはさておき」
ひらりと肩をすくめてから、『モダンタイムス』は久太に近づき、ないしょ話をするように声を潜めた。
「残念ながら、君はこっち側の人間なんだよねぇ」
「……こっち側……?」
「うん、そうだよぅ」
頭を抱える久太に、クマの浮いた片目でにんまりと笑いかける『モダンタイムス』。
「三年前にこの街で起きた青少年リンチ殺害事件、知ってるでしょ?」
ぎくり、久太のからだがすくむ。
もちろん、いやというほど知っている。
だが、なぜこの男までもが知っているのだ?
誰も知らないはずなのに。
混乱する久太に向かって、『モダンタイムス』は笑みをこらえるような声音でないしょ話を続けた。
「冬の早朝の河原で、全裸の14歳の少年の遺体が発見された。遺体にはありとあらゆる暴行の痕跡が残っていて、死因は凍死だったそうな。つまり、棄てられるまでは意識があって、責め苦にもだえ苦しんでたってわけだ。いやだねぇ、こわいねぇ!」
あの夜。久太たちのグループはあいつを呼び出した。
そして……
「知ってるはずだよねぇ。そりゃあそうだ! だって、この事件、君と仲間たちがやったことだもんね!」
「……やめろ……!」
殺す気はなかったんだ。ただ、仲間たちとあいつをシメている内に、だんだんと暴行がエスカレートしていって、あいつは虫の息になった。こわくなって久太たちはぼろぼろのあいつを河原に棄てて、逃げた。
死因は凍死だ。久太たちが直接手を下したわけではない。仕方なかったんだ。あんな集団ヒステリーを起こした仲間たちを、久太ひとりで止められるはずもなかった。そんなことをしたら、いっしょに殺されてしまう。だから、久太もあいつを殴った。
そうだ、仕方なかったんだ。
俺のせいじゃない。
あいつがグループの悪事を密告するなんて言い出さなければ……!
路地裏の片隅で頭を抱えてうずくまる久太は、必死に言い訳を探した。
今度ははっきりと、これが『言い訳』であることは自覚していた。
なんと弁明しても、久太たちがあいつを殺したことに違いはない。
それをわかっているからこそ、その罪に対する罰に怯えた。
罪を自覚しているからこそ、今こうしてがたがた震えているのだ。
ぶつぶつと言い訳を並べる久太に、やれやれ、と『モダンタイムス』は肩をすくめてため息をついた。
「いい加減認めなよぅ。絆だ仲間だ、なんて言ってても、それって結局はただの共犯者意識でしょ? 罪の意識があるから連帯してこれたんでしょ? 君は塚本ハル君をそんな輪の中に入れたいと思ってるの? また共犯者になって、トモダチごっこでもする?」
「……やめろ、やめてくれ……!」
そんなはずはない。ハルは『仲間』ではなく『友達』だ。足を引っ張り合い、監視し合うような関係ではなく、純粋に友情で成り立つ関係。
久太はそんな『友達』にあこがれただけなのに。それさえも許されないというのだろうか?
その内心を見透かしたように、『モダンタイムス』が、ちっち、と舌を鳴らす。
「『友情』っていうのはね、君には上等品すぎるんだよぅ。罪を犯した人間が欲していいものじゃない。君は罪悪感だけでつながる『仲間』の輪にがんじがらめになってるのがお似合いだよぅ。不健全だねぇ!」
「……やめろよ……!」
「いいや、やめないよ? 『罪を知らない』ってことは、別に『罪を犯したことがない』って意味じゃなくて、『罪とはどういうものなのかを知らない』ってことなんだよねぇ! まさにイノセントな君にぴったりじゃないか! ねえ、『罪を知らない』長良瀬久太君?」
「……やめろぉ……!」
とうとう涙目になってかぶりを振る久太は、必死に耳を閉ざそうとした。しかし、指の隙間からこぼれる砂のように、『モダンタイムス』の言葉はどこからともなく浸透し、久太の脳を揺らす。
「不健全だよねぇ! けど、そんな不健全な組織が小生たち『影の王国』なんだよぅ! さあ、もっともっと、罪を重ねよう? その罪の数だけ、小生たちは強くつながっていられるよ?」
「……めろやめろやめろやめろやめ……!」
「君はお日様の下に戻りたかったようだけどね、残念! もう遅い! 君は罪を重ねすぎた! ほぅら、だれかが罰を与えにやってくるよ? あはは! ひとりどころか、何人も『影』にひとを食わせて殺した罪もあるからねぇ、一体どんなひどい罰なんだろうねぇ! 小生たちはそれを助けてあげられるよ? なんたって『共犯者』で『仲間』だからね!」
久太のこころはぐらぐらと揺れていた。もう何を信じていいかわからない。
ハルは敵だ。けど友達だ。
『モダンタイムス』は『共犯者』だ。けど『影』たちのためにASSBと戦おうとしている。
最後の最後で、久太は『モダンタイムス』を信じられなかった。
そして、ハルとの友情を信じたがった。
それを粉砕するかの如く、『モダンタイムス』がはやし立てる。
「ほぅら、ほら! 早くしないと、君の罪にふさわしい罰を与えに、君の信じた『友達』がやって来るよ! 何十人もの人間のいのちを奪ったんだ、それにふさわしい罰はなにかな? あはは、逃げろ逃げろ逃げ惑え! そぅら、処刑人がすぐそこまで来てるよぅ!」
「やめろぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」
涙でぐしゃぐしゃになった顔で、久太が絶叫した。
もういい、なにも考えたくない。
全部、『モダンタイムス』に任せてしまおう。
もう、疲れた。
どうにでもなれ。
久太は完全に壊れた。
なんだっていい、とにかく罰から逃れたい。
大切な友情を手放したっていい。
小さなからだをさらに小さく丸めながら、久太は嗚咽しつつこころの中でつぶやいた。
ごめんな、ハル。
バイバイ。
そんな久太を見て、『モダンタイムス』は至極愉快そうに哄笑を上げていた。まるでとっておきの喜劇でも見ているかのような、そんな大笑いだ。
長良瀬久太は堕ちた。
あとはどう料理するかだが……
ああしようこうしようと夢想を膨らませながら、『モダンタイムス』はペテン師の顔で笑い続けた。