影子はハルの影の中で眠り続けていた。
秋赤音から受けたダメージは甚大だ。コアを貫かれたのだ、あのまま消滅していなかっただけマシだった。
少しでも早く最前線に復帰するために、今は眠り続けなければならない。眠りから目が覚めたら、そのときはすべてにケリをつける。
あの秋赤音の勝利宣言、まだはらわたが煮えくり返っていた。
自分のあるじを蔑んだ、それは万死に値する。
なにがあってもあの『影』は打ち倒さなければならない。
それが従者である影子にとってのケジメだった。
……しかし、従者としてではなく、ひとりの女子高生としても、影子は激怒していた。
自分の思い人をけなされたのだ、それはいち乙女としては憤激するところではある。
従者としての自分と、ただの少女としての自分。
そうだ、自分はたしかに恋をしている。認めよう、それは事実だ。
自分のあるじに、ハルに恋をしている。
求めて、欲して、焦がれてほしかった。実際、自分はハルを求めて、欲して、焦がれている。ハルには自分と同じ思いになってほしかった。
『影』のくせに、いっちょまえに両想いなどというものを望んでいるのだ。
……しかし、果たして自分には恋をする資格があるのだろうか?
ハルのことを考えていると、いつもその問題にぶつかる。
かつてあるじに恋をして、食った自分がまた恋をする?
そんなもの、同じ轍を踏まないという保証はどこにもない。
恋をすれば、またあるじを食ってしまうような気がした。
それほどあの件は、影子の中のトラウマとして刻み込まれていた。
それだけではない。影子はハルに出会うまで大勢の人間を食ってきた。何人ものいのちを食らってきたのだ。
ハルとの平穏な日々を過ごす今になって、ふとした瞬間に、奪ってきたいのちの重さに押しつぶされそうになる。
あるじに恋をして食った罪。
たくさんの人間を血肉にしてきた罪。
この罪をあがなうためにはどうすればいい?
この身を潔白にするにはどうすればいい?
……簡単なことだ。
この恋ごころを封じ込めてしまうのだ。
重しをつけて、この広大で深遠な暗い海の中へと沈めてしまおう。
誰にも告げないし、もちろん本人にも悟られてはいけない。
思いにふたをして、ぎゅうぎゅうに押し込める。それは窒息しそうなくらい苦しいことだったが、影子はそれを甘んじて受け入れた。
この恋は実らせずに終わらせる。
それが、影子なりのケジメの付け方だった。
罪をあがなうための罰だ。
いつか破裂して気が狂ってしまうまで、ずっとずっと、思いを隠していよう。
そんな罪滅ぼししかできない自分に自嘲の笑みを浮かべる。
まどろみの中でそう決めて、影子はまた、深い深い眠りの海へと沈んでいった。
一方で、ハルもまた悩んでいた。
影子が大ダメージを負って三日、いまだに影から出てくる気配はない。
逆柳から待機を命じられて、ハルは今、自室に閉じこもってベッドの上で丸くなっている。
その間、ずっと考えていた。
『自分は影子のあるじにふさわしいのか?』と。
秋赤音のあの言葉が、ハルの中に深くわだかまる。
『影使い』として、そしてあるじとして、ハルは『モダンタイムス』の足元にも及ばなかった。だから、負けた。
覆ることのない圧倒的事実を前にして、ハルはすっかり打ちのめされていた。
影子は、強い。それこそ、自分などよりずっとふさわしいあるじがどこかにいるだろう。この手を離した方が影子のためになるのではないか?
影子のあるじであり続けることに、ハルはひどい不安を抱いてしまった。
やいばは、ふさわしくない使い手の手中にあればいつか折れてしまう。
もし今度、『モダンタイムス』に接敵して、今度こそ影子を失ってしまったら……?
考えただけでもぞっとした。
自分が影子を死なせるのだ。
ふがいないあるじのせいで。
たとえば、あの『モダンタイムス』のように、自分は影子の絶対的な王として君臨することはできるだろうか?
……無理だ。今の自分の器ではそれは叶わない。
失うことに怯えて、後悔がこわくて、ハルは玉座から降りようとしていた。
そういったことをおそれて一歩を踏み出せない辺り、やはり自分は王の器ではないのだな。
ベッドの上で膝を抱えていたハルは、もう何度目かもわからないため息をついた。
そんな折、隣に置いてあったスマホが着信を告げる。
逆柳から新しい指示でも来たか、と画面を見ると、そこにはミシェーラの名前が表示されていた。
一体何の用事だろう、と通話に出て、
「……もしもし、ミシェーラ?」
『ハルー! 大変だったって聞いたヨ!』
ハルの声にかぶるようにしてミシェーラの声が聞こえてくる。これはこころから心配してくれている声だ。ウソが下手なミシェーラらしかった。
『大丈夫? カゲコは? ハルも落ち込んでナイ?』
「……うん、平気」
『ウソ。その声は平気じゃナイ』
どうやら相当参っているらしい。ミシェーラにまで空元気を見破られてしまった。ばつが悪そうに笑いながら、
「……うん、ちょっとキツい」
『だと思った!』
こつん、と部屋の窓に何かがぶつかる音。閉め切っていたカーテンと窓を開けると、そこにはいつかのようにミシェーラが立っていた。
『来ちゃった!』
スマホ越しに話しながら、すぐ近くで手を振るミシェーラ。ハルは苦笑しながら通話を切ると、簡単な身支度をして外へ出る。
「お待たせ」
「ハルの強がりなんてワタシにはお見通しなんだカラ! ちょっと話、しヨ」
ハルの腕を取ると、ミシェーラはゆっくりと歩き始めた。夕暮れの街中を連れて歩き、たどり着いたのはおなじみの公園のベンチだ。
もうそろそろ夜が来る時間帯。自販機でジュースを買って渡してくれるミシェーラに小さくお礼を言うと、ハルは缶を開けて口をつけた。
ふたりの間に、つかの間の沈黙が訪れる。近くの草むらでりんりんと鈴虫が鳴いていた。
「……ごめん、気を遣わせちゃって」
「いいヨ! 同じ『影使い』としてなにかちからになりたいナ、って思って!」
同じ『影使い』、か……ジュースを飲みながら、ハルは何気ない風を装ってミシェーラに尋ねてみた。
「……『影』のあるじとして、ふさわしく振舞うにはどうすればいいんだろうね……?」
影子とのことは口には出さず、あくまでハルは『影使い』としてのミシェーラに質問をした。
ミシェーラはしばらくの間うなっていたが、
「……ワタシは『影』のあるじって言えるほどの自覚はないナ。ホラ、ワタシの『影』、ほとんどひとを食べてないからあんなに漠然とした『影』でしょ? 次々生まれては爆発していくし」
たしかに、ミシェーラの『影』には人格らしきものはない。ただのオモチャの兵隊の『影爆弾』だ。あるじ、という感覚が薄いことも理解できる。
やっぱり、自分にしかわからないよな……とうつむくハルの肩を、ミシェーラが叩いた。
「ケド、『影使い』としてのプライドはあるヨ。誇り、っていうのかナ。そういうの、全部ハルが気付かせてくれたんだヨ」
「……僕が?」
「ソ。自分にはちからがあって、それを使いこなしてひとのために戦うことが自分の使命なんだナ、って。ちからを持ってるひとはみんなそう。ただ持ってるだけじゃ意味ナイ。なにかのために使わなきゃいけナイ。ひとのためでも、自分のためでも」
「……ミシェーラ、僕は……」
「だから、ハルもそのちからを無駄にしちゃダメヨ。たとえ一回負けたからって、くじけることないヨ。次こそは勝つ!って思わなきゃ。カゲコもきっとそうおもってるヨ」
あきらめかけていたハルに言葉を浴びせ、必死にちからづけようとしているミシェーラ。
たしかに、これはちからだ。ちからはただ持っているだけでは無意味。使いこなさなければならないのだ。
たとえそれが、何のためであっても。
戦うことが自分に与えられた『ちから』なら、それが影子という形をしているなら、自分は向き合っていかなければならない。
それがちからを持つ者の定めなのだ。
「だから、負けるな、ハル!」
もう一度、今度は少し強く肩を叩き、ミシェーラが笑う。
「……君には慰めてもらってるばっかりだ」
ゆるいため息をついて、ハルが苦笑する。
そんなハルの頭を、ミシェーラはやさしくなでてくれた。
「……『親友』、だからネ」
なぜか少し目をそらしてそうつぶやくミシェーラ。
ちからをもつものの宿命。それはわかっている。
しかし、そこから逃げ出したい自分がいるのも事実だ。
本当はもっと弱音を吐きたかったが、きっとミシェーラを心配させてしまう。
内心のもやもやを抱えたまま、ハルはミシェーラに頭を撫でられ続けていた。