『例の対『ノラカゲ』法案だがね、内容が大幅に変更されることになったよ。一般人に自衛を呼びかけるのではなく、ASSBがより迅速な対応をできるようにね。まったく、骨が折れた。それでも給料が変わらないのが、サラリーマンのつらいところだよ』
電話口の逆柳はかすかに上機嫌そうだった。とはいえ、短くない付き合いで、かつ逆柳をそばで見ているものにしかわからない程度だったが。
『それにしても、長良瀬久太という駒は『影の王国』に取られたか……今回は向こうが一枚うわ手だったと認めざるを得ない。その『モダンタイムス』という男、『影』の圧倒的な能力ももちろん危険視すべきだが、本人のアジテーターとしての能力は脅威だ。今後新たな『影使い』を探していく上でキーになるだろう』
「……久太は、戻ってきますか?」
ハルがか細い声で問いかけると、逆柳は少しだけ間を置いて、
『確約はできないが、可能な限り迅速に、かつ穏便に『影の王国』から取り戻せるよう、『対策本部』で動くつもりだよ。君たちにとっても大切な存在だろうが、私にとっても重要な駒のひとつだ、『影の王国』ごときに握られたままにしておくにはもったいない』
「そのときは、僕たちも戦います」
『ぜひ奮戦してくれたまえ。長良瀬久太と接敵する機会はそう遠くないだろう。そのときに、君たちがどう動くか……それも私の計画に深くかかわってくるということを忘れないよう』
「……はい」
『それでは、私はこれで。新しい対『ノラカゲ』法案に関しての会議があるのでね』
それだけ言うと、逆柳は別れの挨拶もせずに通話を切ってしまった。
スマホを放り出し、自室のベッドにどさっとからだを横たえるハル。
逆柳も嫌味さえ言われなかった。
責められない、ということがこんなにつらいことだったとは。
そんなの、自分で自分を責めることしかできないじゃないか。
ベッドの上で何度か寝返りを打っていると、影の中から影子の声が聞こえてきた。
「……あのオッサン、相変わらずだな……ひとさまのこと駒扱いしやがって……」
「あのひとはああいうひとだからね。仕方ないよ」
「手を噛まない飼い犬ばっかじゃねえってこと、いつか思い知らせてやんねえとな」
「そりゃあ、本当に僕たちのことを駒としてしか見てないんだったらそうするさ。けど、なんだかんだであのひとも人間だ。ラインが苦手で甘いものが好きでヒーローになりたい、ただのオッサンだよ」
「……気に食わねえ」
「それより、君はもう大丈夫なの?」
影子が『総攻撃』で全力を使い果たし、影に引きこもってから五日が過ぎた。以前はもう戻ってこないと思っていた絶望の五日間だったが、今度は違う。
失わずに済んだ影子は、今もこうしてハルに語り掛けてくれる。
「んん、まだ具体化するにはちからが足りねえが、影の中に潜んでる分には問題ねえよ」
「……そっか」
おそらく一週間もすればまたハルの前に姿を現すだろう。
そしてまた学校に通い、傍若無人の振る舞いで周囲をひっかきまわすのだろう。
非日常的日常が戻ってくるのだ。
ハルはそのことに安堵しきれなかった。
欠けたピースがあるからだ。
長良瀬久太はしばらくの間、ハルの非日常的日常から消える。
なかったことにしてしまうにはあまりにも大きな欠損だ。
自分のちからが足りなかったばかりに、久太は向こう側に行ってしまった。
次対峙するときにどんな顔をすればいいのかわからない。それ以前に、取り戻せるかどうかも。
すっかり自信を喪失してしまったハルをおもんぱかってか、影の中から珍しく穏やかな声が聞こえてきた。
「……アンタは立派にあるじとしての務めを果たしてくれた。アタシを戦わせてくれて……ありがとう」
寝耳に水のお礼の言葉に、ハルはぎょっとしてからだを起こした。
まさか、あの影子の口からお礼の言葉が出てくるとは。
これは、相当に参っているらしい。影子にまで気を遣わせるなんて。
たしかに、ハルは影子のあるじとして振る舞うことができた。だからこそ、『メイド』を退けることができた。影子は望みの通りに戦い、ハルはあるじとしてこれ以上なく最適な命を下すことができた。
だが、一歩及ばなかった。
あの『モダンタイムス』の方が、王としての格は圧倒的に上だった。久太を奪われたのもそのせいだ。
ハルは、もっともっと強くならなければならない。
『影使い』として、影子のあるじとして、王として、そしてひとりの人間として。
こんなところで立ち止まっているヒマはないのだ。
久太は必ず取り返す。
そのためには、また『影使い』を探して、『影の王国』からの刺客に応戦しなければならない。
久太もいつかは敵としてハルの前に立ちはだかるだろう。
そのときは、なんとしてでもこっち側に引き戻す。
「……お礼なんていいよ。なんたって、僕は他でもない君のあるじなんだからね」
図らずも影子に励まされてしまったハルは、苦笑しながらそう言った。
「……言ってろ。アタシがケツ叩かなきゃなぁんもできねえクセに」
影子もまた、照れ隠しのようにそう言って、以降影に潜んでしまった。
ハルはひとりになって、ベッドに横になったまま握ったこぶしを掲げた。
「……やってやる。やってやるとも……!」
折れるにはまだ早い。こうしている間にも『影の王国』は動いているのだから。
ちからを持つものとして、その責任を果たさなければ。
いささか空元気とも言えなくもないが、ハルは自分に檄を飛ばすようにつぶやいて、そのままベッドで眠ってしまった。
影子は、影の中をたゆたいながら考える。
やはり自分はハルの剣であると。
そして、それ以上でもそれ以下でもないと。
ハルを守り、ハルの敵を蹴散らす、それだけが影子の使命だ。生まれてきた意味と言ってもいいかもしれない。
その関係性は、どこまでいっても主と従でしかない。
恋ごころなどというものとはまるで違うのだ。
たしかに、影子はハルに恋をしている。それは紛れもない事実だ。
しかし、この恋は実らずに終わる恋だ。
影子の中に閉じ込めて、主従の関係を貫き通し、やがては朽ちていく思い。
それが、罪を犯した自分に課した罰だ。
ひどく息苦しい。が、それに耐えて、いつも通り従者として振る舞わねばならない。恋ごころの片鱗すら悟られてはいけないのだ。
……なのに。
どうしても期待を殺しきれなかった。
もしかしたら、もしかしたら。
そればかり浮かんでは消え、そんな自分がどうしようもなく意地汚いモノのような気がしてしまう。
これが恋の呪縛というものか。
なんともおそろしく、業の深いものだ。
あと何度、この思いを殺さなければならないのか。
それを考えると憂鬱になって、影子は影の中でひとり落ち込んでいた。
「オハヨー、ハル、カゲコ!」
「よう、塚本! おはよーさん」
「影子様ぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!! おからだの具合はいかがですか!?!?」
久しぶりに影子を伴って登校すると、教室どころか学校の女王になってしまった影子にいくつもの視線が注がれた。いっしょにいるハルが気まずくなる。
いつものメンバーに挨拶を返し、学校への道をたどる。
秋風は冷たくなり始め、もうすぐ冬がやって来そうなにおいの空気だ。鼻の頭がつんとする。
冬が来るまでにもう一波乱ありそうだな……
そんな予感がして、ハルは秋冬ものに変わった制服のブレザーの襟元を合わせ、身震いした。
今回は、後味の悪い結末に終わった。
だが、まだ希望は残されている。
残る『七人の喜劇王』……『犬の生活』、『殺人狂時代』と『黄金狂時代』、『独裁者』がどう出るか。
いずれにせよ、次に現れる『影使い』は必ずこちらで確保しなければならない。
もう二度と失わない。
そして、今度こそ『モダンタイムス』に勝つ。
そうこころに決めたハルに、影子の声がかかる。
「おい、チンタラしてんじゃねえよ! 今日も楽しい楽しい楽しい楽しい楽しい楽しい楽しい楽しい学校生活が始まるんだからよ!」
「今行くよ!」
少し遅れを取っていたハルが、歩調を早める。
そうだ、今日もまた、非日常的日常が始まるのだ。
次の戦いが来るそれまで続く日常が。
足を止めて待っていてくれている影子やミシェーラのもとに向かって、ハルはしっかりとした一歩を踏み出した。