「え、えっと、その……ところで、僕に何か用事でしょうか……?」
いつまでもにこにこと笑っている彼女を前に、少し気まずさを感じてしまい、僕はそう尋ねた。すると彼女は一瞬キョトンとした表情になった後、すぐにいつもの笑みを浮かべて言った。
「んー、別に用があるわけじゃないよ。ただ、何となく声掛けただけー。迷惑だった?」
「い、いえ、そんなことはないです……!」
「そっか。なら、良かったー。あっ、そういえばさ、この間はうちの店を利用してくれてありがとねー」
「いや、そんな……こちらこそ、ありがとうございました」
「いやいや、お礼なんていいよ。うちとしても、お客さんが増えてくれた方が嬉しいし。当たり前だけどさー」
「あはは……そうなんですか」
「ふふん、そうなのだよ」
何故か自慢げに胸を張る彼女を見て、僕は思わず笑みを零してしまった。それを見て、彼女もまた笑みを浮かべる。
「ふふっ、やっと笑ってくれたじゃん」
「えっ、ぼ、僕、そんなに暗い顔してましたかね……」
「してたよー。なんかさー、心ここにあらずって感じだったもん」
「……そ、そうですかね」
「うんうん、マジマジ」
僕は苦笑を浮かべながらそう言うと、彼女は大きく頷いて同意した。どうやら彼女は割と本気でそう思っていたらしい。
僕はそんな彼女に対して、曖昧な返事を返すことしか出来なかった。そこまで酷い顔をしていたつもりは無かったんだけどな……。
そんなことを思っていると、ガラッと音を立てて教室の扉が開かれた。その音に反応して僕と弥生さんがそちらに目を向けると、そこに立っていたのは如月さんだった。
教室に入ってきた如月さんは誰に目を向けることもなく、自分の席に真っ直ぐ向かっていき、そして静かに椅子を引いて腰掛けた。その姿は相変わらず静かで、騒がしい教室の中で異彩を放っているように思えた。
そんな如月さんの様子を、僕は自分の席から見つめていた。そしてどうしたものかと頭を悩ませる。何故ならつい先日、彼女とは気まずい感じとなって別れているからだ。
果たして、そのことについて謝るべきか。それとも、このまま何もせずに静観をするべきか。どちらが正解なのか、僕には分からなかった。
そうして僕が悩んでいると、軽く肩を叩かれる感触があった。何だろうと思って振り向くと、そこには弥生さんの笑顔があった。
「ど、どうかしたんですか?」
「いやー、如月さんが来たんだし、挨拶でもしてきたらどうかなーって思って」
「え?」
「立花くん、如月さんの彼氏なんだからさー、こういう時こそしっかりしないとダメだよー?」
笑顔でそう言う彼女の言葉に、僕はハッとした。確かに彼女の言う通りだ。ここで変に遠慮してしまうからいけないんだ。ここは勇気を出して行くべきだろう。
そう思った僕は椅子から立ち上がると、真っ直ぐに彼女の元へと向かっていった。そして彼女の目の前まで来ると、僕は緊張しつつも声を掛けた。
「お、おはよう、如月さん」
「……」
しかし、彼女は僕の言葉に一切反応を示さず、ただ黙っているだけだった。その様子はまるで僕という存在そのものを遮断しているようだと感じた。
やっぱり、あの時の出過ぎた提案が原因だろうか……。僕はそんなことを考えながら、どうやって謝罪するべきかと思案していると―――
「……おはよ」
ぽつりと呟くような小さな声が聞こえたかと思うと、如月さんは少しだけ顔を上げてこちらを見ていた。その表情は相変わらず無表情だったけど、機嫌を悪くしている感じは見られなかった。そのことに安堵しつつ、僕は言葉を続けた。
「こ、この間はごめんね? 変なこと言っちゃって……」
「別に、気にしてない」
「そ、そうなんだ……それならいいんだけど……」
「……うん」
「……」
「……」
そこで会話が途切れてしまった。どうしよう……ここから何を話せばいいのかな……? 僕は何とか会話を続けようと頭を働かせるけど、特に何も思い浮かばなかった。
僕は思わず如月さんの顔を見つめるけど、それで特に何かが変わるという訳でもない。彼女が会話を振ってくることなんて、期待することが間違っているのだから。
そうして二人して黙ったままでいると、再び教室の扉が音を立てて開かれる。そこから現れるのは見事な上腕二頭筋を半袖のシャツの袖口から覗かせた担任の釜谷先生だ。
「はい、静かになさい、このおバカさんたち! 長い休みで浮かれすぎなんじゃないの!? ほら、ホームルームを始めるわよ!」
釜谷先生の野太い声が教室に響き渡ると同時に、生徒たちが慌てて自分の席に戻っていく。僕もそれに倣って戻ろうとするけど―――
「はい、そこの一番浮かれている、浮かれポンチの立花ちゃん! あんたも早く席に着きなさい!」
「は、はいっ!?」
いきなり名指しで呼ばれて、僕は驚きのあまりビクッと身体を震わせた。そしてぎこちない動きで自分の席に戻る。その間、釜谷先生は鋭い目つきで僕のことを見ていたので生きた心地がしなかった。
「じゃあ、ホームルームを始めるわよ!」
そう言って教壇に立った先生が連絡事項を伝えていく。それを聞き流しつつ、僕はチラッと隣の席に座る如月さんの方を見た。すると彼女はいつも通り、つまらなさそうな表情で黒板を眺めているようだった。
その姿を見ていると、やはり先程のことは彼女にとっては本当にどうでもいいことだったのかもしれない。と、僕はそう思ったのだった。
そして釜谷先生の口から連絡事項やら、今後の予定について何か言っていたけれども、それらは全て右耳から左耳に抜けていくだけで、結局何一つとして頭の中に残ることは無かった。
僕はその間、ずっと如月さんのことで頭がいっぱいだった。どうしてあんなことを言ったのか、あの時、どう思ったのか、そして、これからどうするつもりなのか。気になって仕方がなかった。
「はい、じゃあホームルーム終わりよ。次の授業は移動教室なんだから、さっさと準備をして行きなさい」
気が付けば釜谷先生の話が終わり、それを聞いた生徒達は次々に立ち上がって移動を始めていく。そんな中、僕も次の授業の準備を始めたんだけど……如月さんのいる席へ視線を向けると、そこにはもう彼女の姿はどこにも無かった。どうやら先に行ってしまったようだ。
僕は思わず溜め息を零してしまう。どうせなら、ホームルーム前に続かなかった彼女とのコミュニケーションを今のうちに取りたかったのだけれども、それは叶わなかった。
仕方ない、また別の機会でそれは果たそう。僕はそんな風に思いながらも、急いで教科書やノートなどを持って移動する準備を整えると、そのまま他の生徒達と一緒に教室を出ようと―――
「はーい、ストップよ」
したところで、僕は背後から声を掛けられた。振り返ると、そこにいたのは釜谷先生だった。
その姿を見て、僕は思わず身構えてしまう。何せさっき怒られたばかりなのだし、反射的に警戒してしまったとしても無理はないことだろう。
そんな僕の様子を見て、釜谷先生は苦笑を浮かべていた。
「あら、何よその態度。そんなに身構えなくてもいいじゃないのよ」
「す、すみません……」
どうやら怒っている訳ではないみたいだ。僕はホッと胸を撫で下ろしつつも、釜谷先生に尋ねた。
「えっと、どうしたんですか?」
僕が警戒心を解いて釜谷先生にそう聞くと、先生はその強面な顔面に、にっこりと笑みを浮かべて言った。
「ねぇ、立花ちゃん。今からちょぉっと先生とお話でもどうかしら?」
その釜谷先生の言葉に僕は嫌な予感がした。そしてそれと同時に冷や汗が流れ出すのを感じた。だって、あの笑みが意味するものと言えば一つしかないからだ。つまり……そういうことなのだろう。
僕が何も言わずに固まっていると、釜谷先生は笑顔のまま僕に近付いてきて言った。
「さっ、行きましょうか」
「い、いや、僕、これから授業が……」
「いいから、来るのよ」
「あっ、ちょっ……」
僕は抵抗虚しく、釜谷先生に制服の襟首を掴まれて、いつもの連行スタイルで強制的に連行されるのであった。