僕が自宅に帰ると、家の中は既に明るくなっていた。玄関に並んでいる靴を見てみると、どうやら母さんはもう帰ってきているらしい。一人分しか無いので、まだ父さんは仕事から戻ってきていないみたいだ。
僕はそのことに確認すると、靴を脱いで玄関に揃えた後、おそらくリビングにいる母さんに向けて「ただいまー」と、声を掛けることにした。
そして、その後はリビングには寄らずに直接自分の部屋に直行する。部屋に入ると、僕は早速鞄を机の上に置き、部屋着に着替えてからベッドの上に仰向けに寝転がった。
「ふぅ……今日は色々あったなぁ……」
天井を見上げながら、僕は今日一日の出来事を振り返る。如月さんとの買い食い、如月さんとの会話、如月さんと一緒の時間……どれもこれも僕にとってはかけがえのない思い出だ。出来ることなら、ずっと忘れないでいたい。
「そう言えば、如月さんは……結局、参加してくれるのかな……」
ふと僕はそんなことを思った。あの時は保留はしてくれたけど、あれは僕に忖度をしてくれただけなのかもしれないから、実際のところどうなのかは分からなかった。
「でも、もし参加して……同じ班になってくれるのなら……嬉しいな」
僕はそう呟きながら、静かに目を閉じた。脳裏に浮かぶのは、如月さんの顔だった。こうして思い浮かべても、彼女は相変わらずの無表情だ。彼女の笑顔というものを想像するのは、けっこう難しい。
そもそも、如月さんは誰かに笑い掛けることはあるのだろうか。少なくとも僕は彼女の笑顔を見たのはたったの一度きり。彼女から告白をされた時に見かけたその時以外、僕は見たことがなかった。
それでも、あの時の彼女の顔はとても素敵だったと思う。普段の表情とは違った、あの可愛らしい顔。あれが見れただけでも、僕は満足だった。
「……もっと、如月さんのことを知りたいなぁ」
僕は誰に言うでもなく、ポツリと呟いた。如月さんにずっと片想いをしてきた僕だったけど、それでも彼女のことについて知らないことが多すぎる。彼女と話すようになってから知ったことの方が断然に多い。
けど、僕が知りたいと思っても、如月さんはそれを快く教えてくれるだろうか。偽装とはいえ、彼女と関わるようになった今でも、彼女とはどこか距離を感じる。それは、彼女が人との関わりを嫌っているからだ。
でも、だからと言って諦めるわけにはいかない。たとえ如月さんが拒絶しようとも、僕は彼女に近付きたい。その為にはどうしたらいいのか……。
「あっ……そうだ」
僕はあれこれと考えた結果、さっきの帰り道での如月さんとの会話を思い出した。その中で彼女の趣味の話となり、読んでいる本についておススメをされたのだ。
その本のタイトルを思い出しながら、僕はスマホを取り出して検索をする。すると、直ぐに該当する本が見つかった。しかも、電子書籍化もされていたので、今からでも購入をすれば読むことが出来る。
僕は迷わずその本のダウンロードボタンを押して購入した。そしてダウンロードが済むと僕はその本をすぐに読み始めた。
如月さんのことを知りたいのなら、彼女が興味を示すものを理解するのが一番手っ取り早いと思ったから。それにもしかしたら、この本が何かヒントになるかもしれない。
そう考えて僕はゆっくりと本を読み進めていく。特に何も分からなかったとしても、この本の話題で如月さんと会話が出来るかもしれないから、無駄にはならないはずだ。
そうして僕は夢中になって本を読んでいった。途中で夕食を食べたりはするものの、それ以外の時間は全て読書の時間に当てた。読み進めていくうちに時間帯が日付を越えて深夜帯に差しかかる。それでも僕は手を止めずに作品の世界観に没頭するのだった。
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既に日も落ちて、辺りはすっかり暗くなっていた。さっきまで長く伸びていた私の影も、今は消えて暗闇の中に溶け込んでいる。
私はそんな自分の足元を眺めながら、あてもなく歩いていた。特にどこかに寄ろうとか、家に帰ろうとかいう目的もなく、時間を無駄にする為だけに歩き続ける。それが、今の私に出来る唯一の行動だった。
「……はぁ」
思わず溜め息が漏れる。しかし、それも無理はないことだろう。今の私の心中を表すのに、この上なく的確な表現だった。
「私……何であんなこと、言ったんだろう……」
ぽつりと呟くように、自分の口から出た言葉。しかし、その言葉を発しても、誰も返事を返してくれない。当然だ。周りにはそれを返す相手もいない。私の心情を理解して、思ってくれる人は誰もいないのだから。
私があんなことを言ったせいで、彼には少なからず期待をさせてしまっただろう。本当は行きたくないというのに、嫌で嫌で仕方がないというのに、彼が必死に頼み込む姿を見たせいか、思わず考えとくなんて言葉を私は口にしていた。
あの時、彼の話を途中で打ち切って、とっとと別れてしまえば良かったのだ。そうすれば、彼に変な希望を持たせることもなかっただろうに。
「ほんと……馬鹿みたい……」
私はそう呟いて、その場に立ち止まる。そして、そのまま近くにあった電柱にもたれ掛かった。ひんやりとした冷たさを背中に感じながら、私は夜空を見上げる。
彼といた時には曇っていた空模様は消えていて、そこには満天の星空が広がっていた。星々の煌めきに、思わず見惚れてしまう。私なんかと違って、綺麗に輝く星々。そんなのと比べれば、私なんて黒く淀んだちっぽけな存在だ。
……でも、そんな私を彼は―――
「……止めよう」
あの時の言葉を思い返そうとして、私は頭を振って止めた。これ以上思い出すと、どうにかなりそうだったから。
そして私は寄り掛かっていた電柱から離れると、再び歩き出した。目的地なんてない。ただ、この場に留まるのは嫌だったから、とりあえず歩くことにしただけだ。
そうして彼と別れてから数時間が経ち、あてもなく彷徨い続けた後に、私はようやく自宅へとたどり着いた。誰もいない真っ暗な家に入り、電気をつけることもなく、そのまま二階にある自室へと向かう。
「はぁ……」
部屋に入ると、ベッドに倒れ込むようにして横になった。うつ伏せのまま、しばらくじっとしていると、次第に意識が薄れていくのを感じる。このまま眠ってしまおうかと思ったが、その前にお風呂に入らないといけないと思い直し、私は起き上がった。
それから寝間着を持って、脱衣所に向かう。そして服を脱いで裸になると、浴室に入った。シャワーのヘッドを手に持ち、そこから水流が勢いのあるまま噴き出すのを確認してから、それを頭から浴びる。
それを浴びれば、冷たい水が全身を濡らしていき、段々と体が冷えてくるのを感じた。何だか今日は暖かいお湯を浴びたい気分では無かったから、冷水を頭から被ることにした。
しばらくの間、そうやって全身で冷たいシャワーを浴び続けていき、やがて私は水を止めてからシャワーのヘッドを元の位置に戻す。それから私は身体や髪を洗うこともなく、浴室から出ていった。
バスタオルで全身を拭き終わると、持ってきた寝間着に手を伸ばして―――途中で止めた。持ってきたはいいものの、何だか着るような気分にもなれなかったから。
私はバスタオルだけを持って、脱衣所から出ていった。本当なら髪をドライヤーで乾かさないといけないけど、今はそれもやる気にもならない。
冷たくなった体のまま、私は自分の部屋に戻ると、そのままベッドの上に仰向けになる。そして天井を見上げながら、今日の出来事を思い返した。
帰り道での彼との寄り道や会話。それを思い返しながら、私は徐々に瞼を閉じていく。そして完全に瞼を閉ざした後、脳裏に浮かぶのは彼の顔だった。そして私は目を開いた。
「どうして……」
そこで、ふと疑問が浮かんだ。どうして彼と一緒にいる時は、こんなにも心が安らぐのだろう。今までこんなことはなかったのに。
「ねぇ……あなたは……私に何を求めているの……?」
天井を見つめながら、一人呟く。当然、それに答えてくれる人はいない。だから、私はそっと目を閉じた。そして、そのまま眠りに就く為に。
「早く……明日にならないかな……」
最後にそう呟き、私は眠りについた。
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