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口は禍の元というけど、人の名前について言及したら、とんでもない目に遭いそうになった件。



「失礼しまーす!」


 教室を出てから少しして、弥生さんは元気よく挨拶をしながら職員室に入っていった。僕も弥生さんの後ろからおずおずといった感じで入っていく。


 放課後なこともあり、職員室には部活に顔を出している先生以外の教師陣がほとんど揃っていた。先生方はそれぞれ、自分の業務に追われていて少し忙しそうに思えた。


 そして弥生さんがそんな先生方がいる職員室の中を進んでいき、とある先生の座る机の前で止まった。


「むっちゃんせんせー! あーしでーす。弥生未来でっす!」


 弥生さんは手を上げて、にこやかな笑顔を浮かべて言った。すると、その言葉を聞いた周りの先生方の視線が一斉にこちらに向いた。


 視線は弥生さんの方に集まっているのは分かってはいるけど、一緒にいる僕にも向いているような気がして、思わず緊張してしまった。


 そんな中、僕と弥生さんの目の前にいる先生―――釜谷先生が顔を上げ、眉根に皺を寄せて不機嫌そうな表情を浮かべていた。


「あのねぇ、弥生ちゃん。その呼び方は他の先生方がいる前では止めなさいって言ったでしょ。ここは教室じゃなくて、職員室なんだから」


 釜谷先生は頬杖をついて、呆れた様子でそう言った。それに対して弥生さんは、えへへと笑って誤魔化そうとしている。


「だってぇ、そっちの方が親しみやすいじゃないですかぁ」


「いいこと、弥生ちゃん。私は教師であなたは生徒。お友達じゃないのよ? だから、ちゃんと釜谷先生と呼びなさい」


「えー、でもぉ」


「ダメなものはダメ。分かったわね?」


「ぶぅ……はーい」


 釜谷先生に言われ、渋々といった様子で返事をする弥生さん。そんな彼女に対して、先生はやれやれと言わんばかりに首を左右に振った。


「あ、あの……」


 そんな二人の会話が終わったタイミングを見計らって、僕は恐る恐る声を掛けた。すると二人は同時にこちらを向いてきた。


「あら、立花ちゃん。何かしら?」


「その……むっちゃんって、何ですか?」


 僕が気になったことを尋ねると、弥生さんは首を傾げながら答えてくれた。


「ん? あぁ、あーしが付けた、先生のあだ名だよ。釜谷先生呼びだと厳つさ全開だから、親しみと可愛さマシマシになるように『むっちゃん』にしたんだよねー」


「そ、そうなんだ……けど、むっちゃんの『む』って、どこから取ったんですか?」


 僕は疑問に思ったことを素直に尋ねた。すると、弥生さんは一瞬きょとんとした表情を浮かべた後、ニッと笑った。


「そんなの決まってんじゃん。先生の名前から取ってるんだよ。可愛いっしょ?」


「え、でも……『かまたに』のどこに『む』なんて要素が……?」


「いやいや、だから名前からだって。先生の名前、睦月むつきっていうから、そこから取って『むっちゃん』なんだよ」


「睦月……?」


 僕はそう口にしながら、釜谷先生に視線を向ける。すると、先生は訝し気に僕を見つめ返してきた。


「何よ、急にジロジロ見て」


「えっ、いや、その……先生って、睦月って名前なんですか?」


「ええ、そうよ。それがどうかしたの?」


「えっと……それって、いわゆる源氏名ってやつですか?」


 僕が釜谷先生に向けてそう言うと、職員室のどこかで誰かが飲み物を吹き出す音が聞こえてきた。さらに僕の視界内にいる先生の一人は、食べていたせんべいを喉に詰まらせたのか、咳き込んでいる様子が見えた。


「くっ、くくく……源氏名って……」


 しかも、弥生さんまでが口を手で押さえて笑いを堪えているようだった。……あれ? 僕、そんなに変なこと言ったかな……?


 そして周りの先生方がぎこちない笑みや苦しそうに身体を震わせているのが見える中、釜谷先生は僕ににっこりとした笑みを浮かべていた。しかし、こめかみの辺りがピクピクと痙攣しているように見えた。


「へぇ……立花ちゃん、あなた。随分と面白いこと言うわね」


 釜谷先生は腕を組み、うんうんと頷きながら言った。それを聞いた僕は、何となく嫌な予感を感じた。


「あ、あはは……そんなに、面白かったですか……?」


 僕は引き攣った笑みを浮かべながら、何とかそれだけ口にした。すると、釜谷先生はゆっくりと立ち上がり、僕の方に近付いてくる。


 それを受けて僕は一歩後退りをするが、すぐに距離を詰められて目の前に立たれてしまう。そして先生は笑顔のまま、僕の頭の上にその大きな手をぽんっと乗せてきた。


「アタシにそんなことを言ってきた生徒はあなたが初めてよ。立花ちゃん、中々いい度胸してるじゃない」


 そう言って釜谷先生は少しずつ、徐々に僕の頭に置いた手に力を籠めていく。それに合わせて痛みが増していき、それと同時に恐怖も増していくのを感じた。


「ごっ、ごめんなさい……! こ、言葉の選択を間違えただけなんです……! 許してください……!」


 僕は慌てて弁明する。だが、釜谷先生は未だに笑顔を浮かべたままだった。それどころか、さらに力を籠めてきているようにも思えた。


「ふふっ、そう。言葉は慎重に選ばないとね。今回は許してあげるけど、次からは気を付けるのよ? 分かった?」


「はっ、はいぃ……」


 僕は涙目になりながら、必死にそう口にする。すると、ようやく釜谷先生は手を離してくれた。僕は安堵の息を漏らすと共に、掴まれていた部分を優しく擦る。


「はぁ……勘弁してくださいよ……危うく頭が潰れるかと思いましたよ……」


「あんたが変なことを言わなければ良かったのよ。自業自得だわ」


 釜谷先生は呆れた様子で溜息を吐きながら、元の席に戻っていく。そして椅子に腰掛けた。


「それで、あんたたち。話が逸れたけど、何の用だったかしら?」


「あっ、そうだった! 実はー、今度の校外学習のプリント作成の手伝い、立花くんも手伝ってくれることになりました!」


「えっ?」


 弥生さんが発した言葉に、僕は何それ聞いていないみたいな反応を示してしまった。しかし、そんな僕の反応はスルーされて話は進んでいく。


「あら、そうなの。それは助かるわ。それじゃあ、二人に必要な資料を渡すから準備室に来てちょうだい」


「はーい!」


「わ、分かりました」


 弥生さんは元気よく返事をし、僕は何も分からないままに返事をする。そして釜谷先生が立ち上がって移動を始めたので、僕たちもそれに着いていくことにした。


 職員室を出て目的地に向かって移動する最中、廊下を歩きながら、僕は隣にいる弥生さんに話し掛けることにした。


「あの、弥生さん」


「ん? どしたん?」


「さっき言ってた、手伝うっていうのは……どういうことですか?」


「えっとね、今度の校外学習で使う資料があって、それをみんなに配る用に纏める必要があんの。で、誰もやりたがらないからあーしが手伝うって言ったんだけど、やっぱり量が多いから人手が欲しくてさ。だから、手伝って欲しかったんだよね」


「あっ……なるほど」


 そういうことだったのか、と僕は納得した。確かにクラス分の資料纏めは一人でやるには大変そうな作業だし、誰か他の人の手を借りたくなる気持ちは分かる気がする。


「ごめんね。迷惑だったかな?」


「いや、そんなことはないですよ。特に予定も無かったですし、弥生さんだけじゃ大変でしょうから、僕も手伝いますよ」


 僕がそう言うと、彼女は嬉しそうに笑みを浮かべた。


「ありがとね、立花くん。立花くんなら、そう言ってくれると思ってたよー」


「い、いえ、これくらい……別に構いませんよ」


「いやー、ホント助かったわー。やっぱ持つべきものは友達だよねー」


 そう言いながら、弥生さんはバシバシと背中を叩いてくる。ちょっと痛いけど、悪い気はしなかった。




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