誰もいない静かな廊下を、僕と弥生さんは並んで歩いていく。それぞれの手にさっき作成をしたプリントの束を持った上で。
本当なら男として全部持つなんてかっこの良いことでも出来れば良かったのだけど、一クラス分ともなると流石に量も多く重いので、二人で分担して運ぶことになった。それでも弥生さんよりも僕が負担する割合は多くしてはあるけれども。
僕はそうして移動をする最中、弥生さんを見ていた。彼女は嫌な顔をせず、笑みを携えて僕の隣を歩いている。そんな彼女の笑みを見て、先程の光景と言葉を僕は思い出していた。
『だってさ。みんな自分のことしか考えていないから』
いつもと違う笑みを携えてた上でのあの言葉。明るく元気に語る弥生さんしか知らない僕には、少し衝撃的な言葉にも思えた。けど、よくよく考えてみれば、僕は彼女のことについて、ほとんど知らなかったりする。
一年間同じクラスで、ずっと片想いをしてきた如月さんとは違い、弥生さんとは今年になって同じクラスになった程度の関係だ。さらに言えば、名前を覚えたのもつい最近で、それ以前は賑やかなクラスメイトの一人という認識でしか無かったのだ。
僕が知っている弥生さんと言えば、いつも明るい笑顔で周りを盛り上げるムードメーカーのような存在。誰とでも仲良くなれていて、男女問わず人気が高い女の子という感じだろうか。
まさにクラスの中心人物と言っていい存在。だからこそ、彼女の周りには人が集まるし、彼女が中心となって話が進んでいく。今朝だってそうだ。班決めに際して、彼女がみんなの話を調整しながら進めていると傍から聞いていてそう思った。
如月さんが我関せずと言わんばかりにクラスに溶け込まないスタイルとすれば、彼女とは全く逆の立ち位置にいる弥生さん。そんな彼女にも、やっぱり悩みとかの葛藤なんかがあったりするのだろうか?
そうしたものとは全く無縁な人だと僕は勝手に思っていたけど、実はそうじゃないのかもしれない。そんなことを思いながら、僕は弥生さんの横顔を見つめる。すると、視線に気付いたのか、弥生さんはこちらに顔を向けてきた。
「ん、どしたのー?」
「あ、いや……その、大丈夫ですか? プリント、重くないですか?」
「あはははっ、大丈夫だよー。これでも力には自信があるんだからさ。うちでも手伝いとか、色々としているからさー」
そう言って笑う弥生さんの表情はいつも通りのものに戻っていた。僕はそれを見てホッと息を吐くと、改めて前を向いて歩き続けることにした。
しばらく歩くと、ようやく職員室が見えてきた。僕らは扉を開けて中に入ると、釜谷先生の席がある場所まで移動する。そうして先生の席にやって来たのだけれども……そこには先生の姿は無かった。
「あれれ、いないねー」
「おかしいですね……どこか行ってしまっているんでしょうか」
僕は首を傾げながら、辺りを見渡す。すると、隣に座る他の先生が僕たちに声を掛けてきた。
「あっ、君たち。釜谷先生なら、あっちでお話中だよ」
そう言ってその先生は職員室内の一角に向けて指を差す。そこは僕も何度か利用することになった応接スペースだった。衝立があって誰と話しているかは分からないけど、確かに釜谷先生の声が聞こえてきていた。
「あっ、そうなんですか。なら、出直した方がいいでしょうか?」
「いや、別に来客とかそんなのでも無いから、大丈夫だと思うよ。ほら、早く行った方がいいんじゃないかな」
「分かりました、ありがとうございます」
僕は教えてくれた先生に軽く会釈をした後、応接スペースに向かって歩き出した。そしてそのままそちらに向かうと、そこでは釜谷先生と一人の男子生徒が話をしていた。
「あら、あなたたち。もう終わったの?」
「あっ、はい。これ、どうしたら……」
釜谷先生にプリントの束を見せながら問い掛けると、先生は頷いて言った。
「ああ、ありがとう。それはアタシの机の上に置いてちょうだいな」
「りょーかいでーす! じゃ、パパっと置いてきちゃいますね!」
弥生さんは元気よく返事をすると、釜谷先生の机の場所まで速足気味に引き返していく。そんな姿を僕は苦笑混じりに見送った後、視線を釜谷先生の方へと戻す。
「じゃあ、僕も―――」
「あぁ、立花ちゃん。ちょっと待ちなさい」
僕はこの場から離れようとしたのだが、釜谷先生から呼び止められてしまった。なんだろうと思い立ち止まると、先生は顎に手を当てて考え込むような仕草を見せる。
「うーん……そうね。あんた、それを置いたらここにまた戻ってきなさい。あと、弥生ちゃんも一緒によ」
「え? あ、はい……?」
僕は戸惑いながらも頷くと、手に持っていたプリントの束を釜谷先生の机の上に置き、そして先に行っていた弥生さんへ説明する。そして僕たちはまた、先生の待つ応接スペースまで戻ってきた。
「その、お待たせしました」
「大丈夫よ、そんなに待ってないからねぇ」
釜谷先生はにこやかに微笑みながら僕らを迎えてくれていた。僕はそれに対して頭を下げる。
「それで、何かあったんですか?」
そう尋ねると、釜谷先生は笑みを浮かべながら答えた。
「いやぁね。こうしてうちのクラスの代表格が揃いも揃った訳だし、ちょうどいいからあんたたちも話に加わりなさい」
「え、はぁ……」
釜谷先生の言葉に僕は曖昧な返事を返すと、首を傾げるのだった。そんなやり取りをしている最中、ふと視線を感じたのでそちらに僕が顔を向けると、そこには先生と相対している男子生徒がいた。彼は僕と目が合うと、気だるげな感じに目を半開きにして僕を見つめ返してくる。
「あ、えっと、あの時の……」
僕はその顔に見覚えがあったので思わずそう呟くと、彼は大きく溜め息を吐いてから返事をした。
「あの時の……じゃねえよ。お前、今日の昼に会ったばかりなのに、もう忘れてたのかよ」
呆れた様子でそう言う彼に、僕は苦笑いを浮かべて謝るしかなかった。すると、隣にいた弥生さんが彼を指差しながら言った。
「あれ?
「おう」
弥生さんの声に彼は軽く手を挙げて反応をする。どうやら、彼女は彼を知っている―――いや、知っていて当たり前か。だって、クラスメイトなんだから。覚えていない僕の方がおかしいだけだ。
そう、釜谷先生と向かい合って座っていたのは、今日の昼に屋上で会った彼だった。短く切り揃えられた赤髪と、相手を威嚇するような鋭い三白眼。背は高く、体つきもがっしりしていて、まるでスポーツマンのようだ。
そして彼はつまらなそうに頭を掻き、それから再び僕に視線を向けてきた。
「いいか、お前。人としてな、最低限の礼儀ぐらいわきまえとけ。特に人の顔や名前を覚えてないってのは、失礼にも程があるぞ」
「す、すみません……」
彼の剣幕に押されて、僕は反射的に謝ってしまう。すると、それを見た弥生さんが笑い声を上げた。
「あははっ、怒られてるー」
弥生さんの笑い声を聞きながら、僕は恥ずかしさのあまり俯いてしまった。
「……ったくよぉ、まあいいや。これを機に覚えとけ。俺は卯月。
彼はそう言うと、面倒くさそうな態度で手をひらひらと振る。そんな彼に、僕は慌てて頭を下げた。
「は、はい。こちらこそ、よろしくお願いします……えっと、卯月くん」
「おう。ってか、卯月でいい。男からくん呼びされるなんて柄でもねえしな。あと、敬語も止めろ。気持ち悪い」
「え、その……わ、分かったよ……よろしくね、卯月」
「ああ、それでいい」
僕の返事に満足したのか、卯月は大きく頷いた。その様子を見た弥生さんがまた笑っていたけれど、今度は何も言い返せなかった。
「あははっ、ほんと面白いなー、二人はさ」
「おい、笑ってんじゃねえよ」
弥生さんに噛みつくように言い放つ卯月だったが、弥生さんは相変わらず楽しそうに笑っているだけだった。
そんな二人の様子を、僕は呆気に取られた状態で見つめていると、釜谷先生が咳払いをして場を鎮めてくれた。
「はいはい、そこまでよ。それよりもあんたたち二人も座りなさい。さっさと話を進めるわよ」
「あっ、はい」
「はーい」
釜谷先生の指示に従い、僕らは応接スペースにあるソファーに並んで腰掛けた。その際、弥生さんが真ん中に座り、その両サイドに僕と卯月が座る形になった。
そして対面に釜谷先生が一人で座る。腕を組みながら何かを考えている様子だけど、これから何を話すつもりなのだろうか。僕はそう思いながら釜谷先生の動向を窺っていた。
やがて、釜谷先生は顔を上げると、僕たちの方を見回してから口を開いた。