プロローグ
夜の街にサイレンの音が木霊する。
徐々に近づいてくるその音をぼんやりと聞きながら、俺は体内に燻る予熱を冷ますように長く息を吐いた。
怒り——それは一説によると『危機』に応じて発露する感情だという。
ここでいう危機とは、身体的な危機であり、精神的な危機であり、また社会的な危機でもある。
人間の脳がそういった危機を認識すると、脳細胞が活性化しストレス反応を起こす。
カテコールアミンが放出され——ドーパミン、ノルアドレナリン、アドレナリンが分泌される。それらの脳内物質によって交感神経優位となり、身体に様々な変化が起こる。
心拍数・血圧上昇、瞳孔散大、血管・気管支拡張、血糖値上昇、消化管機能低下、痛覚麻痺。
——所謂、『戦闘・逃走反応』だ。
「また……やってしまった……」
足元に転がる物言わぬ五人の肉体——それは俺が怒りに任せて作り出した犠牲者たちだ。
喧嘩を売られ、まんまと買ってしまった結果がこれである。
のぼせ上がった頭が冷静さを取り戻すにつれ、段々と後悔の念が増大してゆく。
「こっちも、マズいよなあ……」
俺は手元へ目を落とした。
そこには血に濡れた拳が激しく蠢き、独りでに
怒りには、『戦闘・逃走反応』の先がある。
戦闘・逃走反応を経てもなお危機を脱せず、脳内物質の濃度がある閾値へと達した時。
稀に、大脳辺縁系の経路から特殊な神経インパルスが発せられることがある。
それは四十億年前——人類がまだ大海に漂う矮小な単細胞生物に過ぎなかった頃から、現在に至るまで二重螺旋の中に脈々と受け継いできた生命体としてもっとも古い本能。
絶体絶命の危機にある生命よ!
——今こそ〝
話には聞いたことがあったが……。
「まさか、俺が異能に目覚めるなんて……」
「——貴様は完全に包囲されている! 大人しく投降しろ!」
「……はーい」
俺は彼らの勧告に逆らうことなく、ゆっくりと両手を挙げた。