目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第68話 死兆星より愛を込めて

 その日の夜遅く──


 ハルモニア皇帝ゼノンとの謁見を終えたセラフィナは黙々と、自らに宛てがわれている客室へと続く回廊を、マルコシアスと共に歩んでいた。


 静寂が支配する回廊にコツコツと、セラフィナの履いているパンプスの踵の音のみが響く。シンプルなデザインの黒いドレスに身を包んだ彼女の腕には、少女の華奢な見た目には似合わぬ無骨な大口径の小銃が抱かれていた。


 それは、ゼノンから褒美として下賜された世に二つとない逸品だった。装備した者の魔力を吸い取り、それを一点に収束させて弾丸として撃ち出す。理論上、弾切れを起こす心配がないという優れものである。


 何か一つ問題があるとするならば、セラフィナには銃の心得がないことくらいだろうか。尤も今のセラフィナには、シェイドという頼もしい銃の名手がいるので、彼に持たせれば何ら問題はないだろう。


 ふと、セラフィナはその場に立ち止まると、無表情のまま腕に抱きかかえた小銃を見つめてホッと一つ溜め息を吐いた。


「──随分あっさりと、あの人を捜す了承を貰えたね、マルコシアス。些か話が出来すぎていて、正直なところ少し不安だけれど」


 セラフィナは自らの足に頭を擦り寄せるマルコシアスを優しく撫でながら、ポツリとそう呟く。


 スラリと伸びた彼女の細い両脚を覆う、シルク製の黒いストッキングはすっかり相棒の毛だらけになってしまっていた。私生活ではまだ使えるかもしれないが、もう公の場では履けそうもない。


 尤も、セラフィナは先程までの謁見の内容へと思いを馳せており、両足が毛まみれになっていることなど気にも留めていなかったが。


 養父たる剣聖アレスの行方を捜すため、暫くの間アルカディアを離れ、自由に行動したい──そのように申し出たセラフィナに対し、ゼノンは嫌な顔一つすることなく、やりたいようにやれば良いと承諾してくれた。そればかりか、アレス捜索の一助となるような、ちょっとした助言までしてくれた。


 普通なら、喜ぶべきことなのだろう。けれどもセラフィナは、それを素直に喜ぶことが出来なかった。一つ、大きな懸念すべきことがあったからだ。


「……"何時もなら陛下の傍に侍っている筈の性悪堕天使ベリアルが、今日に限っては玉座の間に居なかったことが妙に気になる"? うん──確かに、君の言う通りだね。私も、それが一番気になってる」


 ゼノンは彼の不在について、特に言及はしなかった。慣れているのか、これといって慌てた様子もなく、普段と同じく威風堂々としていた。


 ベリアルに秘密主義的なところがあるのは、どうやらゼノンも承知しているらしい。或いは、彼の堕天使が何を考えていようが、自分には一切関係のないことと割り切っているのかもしれない。


 居たら居たで不快だが、姿が見えないとそれはそれで不安になる。何を考えているのか分からないだけに、ベリアルの不在は言いようのない不安な気持ちをセラフィナに抱かせた。


「……彼は、一体何を考えているんだろうね」


 窓辺へとそっと歩み寄り、暗い夜空に瞬く無数の星々を見上げながら、セラフィナは再度溜め息を吐く。


「…………」


 そして──違和感に気付いた。


「──死兆星アルコルが、見えなくなっている。昨日までは当たり前のように見えていたのに、どうして?」


 ──死兆星アルコル。古くは徴兵時の視力検査に用いられ、肉眼でも視認可能な星の一つ。その一方で、肉眼で視認出来なくなることが凶兆とされている星である。


 ここで言う凶兆とは即ち"死"そのものであり、アルコルが肉眼で視認出来なくなった者は須らく近い内に死ぬと言われてきた。それ故に、死兆星と呼ばれるようになったという背景を持つ。


「……私も、近い内に死ぬのかな? 気の所為だと良いけれど」


 嗚呼、不安の種がまた一つ増えた。小さく溜め息を吐くセラフィナの目に、東の空へと堕ちてゆく一筋の流れ星が見えた。


 その流星こそ、正に凶兆──世界に死を振り撒く災いの化身であった。










 生命の気配が欠片も感じられぬ、荒涼たる砂の大地。一筋の流星が地面に直撃すると同時、眩い光と共に魔法陣が展開されたかと思うと、その中より一つの巨大な影が、音もなく屹立する。


 山のような巨躯を誇る黒き竜。筋骨隆々とは程遠い、ヒョロリと痩せ細った外見だが、それが却って見る者の恐怖を煽る。皮肉にも、彼の者の姿を認識出来る者は皆死滅し、最早この砂漠地帯には存在しないが。


 月明かりを受けて虹色に輝く、美しい二対の翼を有するその怪物は、天使であることを示す光輪ヘイローを頭上に戴いていた。


 天使アズラエル──死を司る者。


 獣のような唸り声を発しつつ、彼は周囲を何度か見回した。何処までも、何処までも果ての見えぬ砂漠地帯。


 眼前に広がるその景色に見覚えこそなかったが、アズラエルは自らが佇むその場所が如何なる場所であったのかを即座に理解した。


 嘗て、ソルの命令に従い、自らが死を振り撒いた東方世界。三日月の魔女アスタロトと戦い、そして敗れた因縁の場所。


 どれほどの時が経ったのかは分からない。そんなものはアズラエルにとって些事、最早どうでも良いことである。


 彼の脳裏にあったのは、主たるソルより賜った、"地上に存在する全ての異教徒の抹殺"という命令、そして自らがそれを未だ完遂していないであろうという自覚だった。


 翼を大きく広げ、何度か身体を揺らす。優しく頬を撫でる夜風が、何とも心地良い。


「…………」


 薄々分かってはいたことだが、自らが宿していた死を操るという権能は、既に失われていた。どうやら自分がアスタロトに敗れた後、別の天使に権能と役割が移譲されたようだ。


 そのことを、アズラエルは酷く不快に感じた。人類の創造に貢献し、長らく忠節を尽くしてきた自分に対してこの仕打ち。主命を完遂出来なかった自分の落ち度とはいえ、これは流石に酷すぎるのではないか。


 アズラエルの心の奥深くで、主への不信感が発芽する。それに引き寄せられるように、邪悪は姿を現した。


「ほぅ……これはこれは。永劫にも思えた永き眠りより、漸くお目覚めかな──死の天使アズラエル?」


 赤い衣を身に纏い、フードを目深に被って素顔を隠した人のような形をした何か。その背には大きな黒い翼を生やし、頭上にはアズラエルとは形状こそ異なるものの、彼と同じように光輪を戴いている。


「──最早、私は死の天使などではない。権能も役割も奪われ、天使としての尊厳も失われた。惨めで哀れな、ただの煙なき炎の子だ」


 一陣の風と共に現れた異人に対し、アズラエルは抑揚のない声でそう答える。恐ろしい外見に反し、変声期前の少年を思わせるその声は酷く穏やかなものであった。


「私に如何なる用か、主に刃を向ける者よ」


 アズラエルの問い掛けに対し、赤い衣を纏ったその者は含み笑う。男とも女ともつかぬ中性的な声であった。


「──女神シェオルは既に亡く、ソルの威信は地に堕ちた。私と共に歩む気はないか? 私なら其方の力、十全に引き出すことが出来る。愚かなソルとは違って、ね」


「戯れ言を……私に堕天せよと? 自らを創った創造主に牙を剥けと?」


「まぁ、聴き給えよ我が同胞。其方が抹殺を命じられた異教徒は人間、人間を創ったのは他ならぬソルだ。人の罪とは即ちソルの罪。其方はただ、主君の失態の尻拭いをさせられていただけに過ぎない」


「…………」


 それはそう。沈黙したアズラエルを見て満足そうに頷きながら、彼の者は言葉を続ける。


「私はね……世界を新しく創り直したいんだ。本来あるべき世界を。痛みも苦しみもない楽園を。生きとし生ける命の長──"獣の王"として、ね。罪の子たる人が、神の御使いたる天使を使役する現状なんて、可笑しいと思わないか?」


 懐かしい──嘗て、似たようなことを勇敢にもソルに向かって堂々と言い放った天使がいたのを思い出す。あれは誰で、何年前の出来事だったろうか。気が遠くなるような、遙か大昔の出来事だったことだけは、何となく覚えている。


「罪なき世界の実現……それが成就されたなら、これまでの其方の苦労も報われる。間違いない。私と共に歩む気はないか?」


「……私なぞ拾っても、貴方の悲願が成就されるとは限らんぞ? 死を操る権能を失った私に、果たして如何ほどの価値があるのか」


「嗚呼、あるとも──其方が思う以上に。権能などなくとも、其方が力持つ強き者であることに変わりはないのだから」


 どうせ、今から主命を完遂させてソルの所に戻っても用済みとして粛清されるだけ。それならばいっそ、このまま離反するのも悪くない。


 自分を虐げた主を、そしてこの世界を煩雑に破壊し、新たな世を創るのもまた一興か。


 アズラエルの口元が小さく歪む。肩を震わせながら、彼は異人を見つめて屈託のない笑みを浮かべた。


「溢れんばかりの親愛を以て──これより、貴方にお仕え致そう。新たなる主よ」


 斯くして、嘗て"死を司る天使"として恐れられた黒き怪物は主へと反旗を翻し、世界を脅かす敵へと変貌した。


 奇しくも彼が復活したこの日を境に、生きとし生ける全ての者たちが、死兆星を目視で確認することが出来なくなった。まるで、全ての生命の終焉を告げるかのように。


 そしてそれを象徴するかのような、目を覆いたくなる惨劇が間もなく、涙の王国にて繰り広げられることとなる。ハルモニアの誇る"軍神"エリゴールの手によって。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?