涙の王国方面にて勃発したハルモニアと聖教会諸勢力の争いは、早くも最終局面を迎えていた。
初戦を快勝した"軍神"エリゴール率いる帝国第三軍は、勢いそのままに各国の軍勢を次々に撃破。複数の国軍で構成された連合軍故、統率が乱れている聖教会勢力は苦戦を強いられていた。
連合軍の主戦力たる聖教騎士団は、第五騎士団・第六騎士団ともに涙の王国の国境付近に布陣して以降、頑なに動こうとはしない。彼らは上官たる騎士団長レヴィの命により、エリゴールとの交戦を避け、睨み合いに徹する考えだった。
──"彼の軍神と尋常なる戦をしていては、命が幾つあっても足りぬというもの" 。
レヴィの判断は、ことエリゴールを相手にする場合に於いては最良のものであると言えた。聖教会の土地を守るだけならば、国境に兵を配置して睨みを利かせ、帝国第三軍を涙の王国に釘付けにしておけば良いのだから。下手に相手と交戦するだけ、兵や物資の無駄というものである。
果たして、他国の軍勢が軒並み、帝国第三軍の攻撃を受けて補給線を断たれ、前線で孤立してゆく中、聖教騎士団だけは全くの無傷であった。
一方、補給線を断たれた各国の軍中では餓死者が相次ぎ、士気は底をついていた。死んだ仲間の肉を貪り、僅かに残された食糧を巡り、身内同士で不毛な争いを繰り広げる。この世の地獄の全てが、そこにはあった。
後方に控える聖教騎士団に何度も救援を要請するも、未だ援軍の影一つない。余りにも距離が離れ過ぎており、使者の殆どが道中で力尽きて落命、或いは逃亡していたからだ。
補給線は断たれ、前線にて孤立し、周辺には魔族や堕罪者が跋扈。これだけでも十二分に絶望的な状況だと言うのに、それに追い討ちをかけるように、前方にはエリゴール率いる帝国第三軍の主力部隊が布陣し、威風堂々たる陣容をこれでもかと見せ付けてくる。
精神的にも肉体的にも追い詰められた将兵。正常な判断力を失いつつある彼らの前に蜘蛛の糸を垂らすが如く、エリゴールは声高に告げる。
──"速やかに降伏されたし。投降するのであれば、それ相応の待遇を保証しよう"。
敵将の、それも多くの同胞を殺した、恐ろしき堕天使の甘い言葉。多くの将兵は戯れ言だと思った。
だが、中にはそうではない者も当然いる。
国に絶対的な忠誠を誓っているわけでもなく、軍人として殉ずる覚悟もない半端者。
彼らはエリゴールの言葉に突き動かされるように、間もなく上官の目を盗んで脱柵。その日の夜は不思議と魔族や堕罪者の姿がなく、彼らは割とあっさりと、帝国第三軍の陣地へと駆け込むことに成功したのであった。
ハルモニア帝国第三軍司令部──
引っ立てられてきた敵軍の逃亡兵たちを見つめ、エリゴールは白い歯を見せて笑う。
「──帝国第三軍に、ようこそ」
眼前に佇む、黒い将官服の良く似合う端麗なる貴公子を目の当たりにした兵たちは皆一様に、その美しさに息を呑んだ。
少女にも少年にも見える目鼻立ちの整った容貌、肩に届く程度の長さの艶やかな銀髪、透き通るような紅い瞳。爽やかな笑みを浮かべてはいるが、同時に深い威厳も感じさせる。
エリゴールが軽く手を叩くと、温かなスープの入った器と大きなパンがそれぞれ、テキパキと逃亡兵たちに配られる。
「君たちの賢明なる判断に敬意を──さ、遠慮なく食べると良い。もう、何日も食べ物を口にしていないだろう?」
もし、逃亡兵たちに僅かでも正常な判断力が残っていれば、毒の有無を疑ったことだろう。けれども、何日も飢えに苦しんできた彼らは迷うことなくスープを啜り、パンを齧った。
「ふふっ……そんなに慌てずとも、別に食べ物は逃げたりなどしないよ?」
エリゴールの言葉など聞こえていないのか、逃亡兵たちは食事に夢中である。
まるで、餌を与えられた野良犬の如し。人としての尊厳など、欠片も感じられない。何と惨めで哀れな生き物なのだろう。一心不乱に食事を続ける彼らを観察しながら、エリゴールはすっと目を細めた。
その瞳の奥に、仄暗い焔がぼうっと灯る。彼の様子の変化に気付く者は居ない。
「感謝しますぞ──エリゴール卿。貴方のお陰で命拾いしました」
逃亡兵たちの中で最も身分が上であろう、高位貴族と思しき中年男が感謝を述べると、エリゴールはニコッと笑いながら、
「それは何より。では──」
パチン、と指を鳴らす音が響き渡る。
「──お楽しみの、始まりといこうか」
次の瞬間──視界全体が眩い光に包まれたかと思うと、そこは先程までいた第三軍の司令部ではなく、戦場全体を一望出来る小高い丘の上だった。
「え、エリゴール卿……? 一体、何を!?」
何が起こったのか分からないという顔をしている逃亡兵たちの四肢を、エリゴールは一瞬にして魔法の鎖で縛り上げ、宙に少し浮いた状態で磔にする。
余りに突然の出来事……理解が追いつかず、激しく狼狽する彼らを見て心底愉快そうに笑うと、エリゴールは穏やかな声で彼らに問い掛ける。
「──余興を始める前に、一つ問うとしよう。この周辺には、魔族や堕罪者が跋扈している。ところが、君たちは彼らの襲撃を受けることなく、無事に僕たちの元まで辿り着くことが出来た。何故だと思う?」
言われてみれば──貴族の男は、エリゴールの言葉にハッとする。確かに、当たり前のようにいた筈の魔族や堕罪者が、昨晩に限っては一体も姿を見せなかった。
厳密に言えば──今も、だ。魔族や堕罪者のみならず、鳥や獣さえも綺麗さっぱり姿を消しており、微かな気配さえも感じられない。
生命の危機を感じると、生き物はその場所から姿を消すと言うがまさか──
「──そのまさか、だよ」
正解、とでも言いたげに、エリゴールは何度か手を叩いた。
その時──
鯨の歌を思わせる、物悲しげな鳴き声が周囲に木霊する。鳴き声のした方を見ると、暁光に照らし出される、美しくも悍ましい巨大な獣の姿があった。
天馬を彷彿とさせるその異形の肉体は金属で出来ており、翼を含めた全長が一キロは優にあろうかという雄々しい巨体は、少しだけ宙に浮いていた。
「ジェリコ……そんな、まさか……」
日が昇るにつれて露わとなってゆく、怪物の全容を目の当たりにし、逃亡兵たちは皆恐怖に恐れ慄く。どうか目の前の悪夢が幻であれ、と願うも現実は何とも無情であった。
──機動要塞"ジェリコ"。エリゴールが個で保有する究極の切り札。ゴーレムの製造技術を基にして生み出された人造生命体。完全無人で動く、心を持たぬ殺戮兵器。"
何と言っても最大の強みは、要塞でありながら陣地変換が可能なこと、それでいて要塞の名に恥じぬ、魔術を用いた凄まじい火力を有していることであろう。
しかし、これだけ巨大な兵器を、一体どうやって誰にも気付かれることなく移動させたのか。答えは至極単純──ハルモニアで普及している転移魔法である。
前日の夕刻、エリゴールは密かに前線へと一人で赴き、兵站部隊と共に遙か後方で待機させていたジェリコを転移させるための魔法陣を描いていた。
魔法陣から溢れ出るジェリコの魔力に生命の危機を感じ、恐れを成した周辺の生き物たちは命からがら逃げ出し、皆その場から姿を消した。これが、逃亡兵たちが無事に帝国第三軍の陣地へと辿り着くことが出来た理由だった。
エリゴールが静かに右手を挙げると、それに呼応するかのようにジェリコが物悲しい鳴き声を発して動きを見せる。
「な、何をするつもりだ……?」
「何って──君たちには、何ら関係のないことだよ。ああ、そうだとも……生半可な気持ちで同胞を見捨てた君たちには、ね」
異変に気付いた嘗ての友軍が、ジェリコに向かって次々と砲撃を開始する。逃げてしまいたいという本音を押し殺して。軍人としての責務を全うするためだけに。
礫の如く降り注ぐ無数の砲弾はしかし、ジェリコの全身を覆う形で展開されている不可視の障壁に阻まれ、彼の機動要塞に傷一つ付けることが出来ない。
ジェリコの目がギラリと、鋭く光る。その頭上に、巨大な魔法陣が顕現したかと思うと、膨大なエネルギーの奔流が、魔法陣の中へと流れ込んでゆく。
「や、やめろ……」
「頼む……やめてくれ……」
「くくっ……僕に頼んだって、無駄だよ?」
逃亡兵たちの方へ向き直ると、エリゴールはこめかみに軽く人差し指を当てながら、嘲るような調子で声高らかに告げる。
「何故なら──これが、お前たちの選んだ道の末路なのだから。己の無力さを、己の惨めさを存分に噛み締めながら……お前たちの信ずる、主の温情に縋るが良い」
逃亡兵たちの、言葉にならぬ絶叫が響く。
「──
聖教会の教典の一節をエリゴールが諳んじると同時、魔力が一点に収束することで生じた巨大な雷球がジェリコの頭上より撃ち出され──
「──あっ……ああっ……」
──勇敢、或いは無謀にもジェリコに立ち向かった連合軍の将兵たちを、大地ごと大きく抉り取る形でこの世から消滅させた。一瞬にして奪われた数多の生命……その数は、十万を優に超えていた。
国境付近に布陣して動かぬ聖教騎士団の第五騎士団・第六騎士団を除く連合軍の残存戦力が、ほんの一瞬で皆殺しの憂き目に遭ったのだった。
「…………」
超巨大なクレーターを見下ろし、エリゴールはふっと笑みを零す。たった一撃でこれだけの戦果を挙げれば上々、出し惜しみせずに投入した甲斐があるというものである。
尤も──ジェリコを投入すると、何ら戦術を立てずとも敵を容易に蹂躙出来てしまうので、エリゴールとしてはあまり使いたくはないのだが。
「……さて、どう出る──聖教騎士団長レヴィ? 君が如何に優秀で、どれほど僕との交戦を避けたがったところで最早、聖教騎士たちを出し惜しみすることは出来ないよ? 代替品は皆、たった今僕が殺してしまったからね」
連合軍が壊滅したことを知れば当然、失われた兵たちの分を聖教騎士で埋め合わせするように、と各国は声高に要求するだろう。そうなれば、レヴィは自らの組み立てた戦術・戦略がどうであれ、世論に屈して騎士たちを動かさざるを得なくなる。
難攻不落の
「──おっと、いけない。考えるのに夢中で、すっかり忘れるところだったよ」
エリゴールはそこで一旦思考を止めると、逃亡兵たちの拘束を解く。
「……半端者は、我が軍にも帝国にも不要だ。祖国に逃げ帰るなり、死を選ぶなり、各々好きにすると良いよ。尤も……今更、半端者の君たちに一体何が出来る、という話ではあるけど、ね。では──僕は、これにて失礼させてもらうよ?」
転移魔法で姿を消すエリゴール……そんな彼には目もくれず、逃亡兵たちは悲しい歌を響かせる機動要塞と、嘗ての同胞たちの成れの果てを、その場に力なく座り込みながら、ただただ呆然と見つめていた。
光を失った両目から大粒の涙を零し、主に許しを乞う言葉を何度も何度も繰り返しながら。
正気を失った彼らには、ただ只管にそうすることしか出来なかったのである。