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第5話   鬱陶しかった日向との距離が……

 ――松本喜三郎の出し物は、浅草奥山で、四年ものロングランを続けていた。

 茂吉は大勢の客に紛れて、喜三郎の小屋に入った。


 大トリを飾る『塑像巡礼姿観音立像』の前まで来たときだった。

 完敗だ。

 世俗を超越しつつ、壮絶に色香の漂う人形を見た瞬間、潔く負けを認めざるを得なかった。  



 生人形師を廃業し、故郷熊本に戻る決心をした茂吉は、あいさつのため、池田修太朗の屋敷を訪ねた。 


 池田家では、当主の二子で、十五歳になったばかりの薫が病の床に伏し、まさに身まからんとしていた。

 修太朗に、我が子の姿を生人形としてこの世に留めたいと懇願され、病床に招き入れられた。


 茂吉は脳天から雷に打たれた心地がした。

 病み衰えてなお、輝く美しさを保つ薫は、男でも女でもない清い身体の持ち主だった。

 まさに生ける観音像だった。


 これなら勝てる。

 喜三郎の稀代の傑作を超える生人形をこの世に生み出せる。


 茂吉は、薫が棺に納められ、墓に葬られるまで、何枚も何枚も姿を描き写し、寝食を忘れて生人形作りに励んだ。


 そうして生み出された生人形がこの谷汲観音像だった――


「モデルとなった薫さんは、お父さまや一博さんの直系の尊属ではないですが、後日、お父さまにお聞きしたところ……」


 忠刻の実家池田家は岡山藩主池田氏につながる家系であることが唯一の誇りだった。


 忠刻という古風な名前は、初代藩主池田光政の正室勝姫の父で、播磨国姫路新田藩の初代藩主本多忠刻の名から取られたという。


 本多忠刻は、二代将軍徳川秀忠の長女千姫の夫で、眉目秀麗なだけでなく、剣術をよくし、かの宮本武蔵を迎えて師事した優れた人物で、二代目岡山藩藩主からすれば、血を分けた祖父に当たった。


「聞いたこと無かった。つまり、オヤジのオヤジは、息子に、はるか遠い先祖の名前を付けたわけか」


「夕食に招かれた際に、水を向けたところ、『先祖がどうのこうのは、今のわたしに何ら関係が無いから忘れていたが、そういえば……だそうだ』と、笑いながら教えてくださいました。ところで……」

 日向は急に砕けた口調になった。


「土御門家のディナーには驚きました。わたしのような庶民とは住んでいる世界が違うと痛感しました。一博さんは、毎日、あんな豪華な食事をされていたのですね。で、その後も何度かお招きいただきましたが、その頃にはもう一博さんは自由が丘のお屋敷に寄り付かなくなっていて……初対面はあの愛宕南警察署の取調室だったというわけです」


 ヒョイと話が飛んだ。

 当時の屈辱が蘇りそうになって、

「そんなことはいいだろ。で、その人形は今どこにあるんだ」と話題を変えた。


「供養のため、菩提寺に納められましたが、夜中に家に戻ろうと歩き始めたため、池田家に戻されました」


 日向は怪異譚なんかを信じているのか。

 途端に興ざめした。


 心霊関連の事象をたやすく信じる者は多いが、理性がウリに見える日向までがと意外だった。


「へ~え、で?」

 馬鹿らしくなって、壁に体をダラリともたせ掛けた。


「池田家はその後没落し、どういう経緯をたどったのか、大阪におけるテキヤ界の重鎮新井鉄太郎の屋敷に置かれていました。興行の世界つながりで譲り受けたのでしょう」


 ――当時、日向の叔父は、大阪府警刑事部捜査第四課の刑事で、暴力団関連の犯罪捜査に当たっていた。


 夏休みに泊りがけで遊びに来た日向少年に『察官を目指すんやったら、コレかて勉強や』と、天王寺区にあった新井の家に同行させた。


 酔って上機嫌だった新井は、秘蔵のお宝を見せてやると言って、古びた厨子に納められた谷汲観音像を見せてくれた。


 一目ボレだった。

 日向少年は、持ち歩いていたインスタントカメラのシャッターを押し続けた。



 東京に戻って、ワクワクしながら現像に出したところ、すべてブレていて、かろうじて残ったのがこの写真だった。


 その後、新井組長は抗争に巻き込まれて射殺され、組は没落して観音像は行方知れずになった――


「喜三郎作の塑像巡礼姿観音立像が、後に、谷汲観音像と改名されたため、今では、谷汲観音像といえば喜三郎作しか認知されていません」


「フーン。ソリャ残念だよな」としか言いようが無かった。


 同時にフッと、妄想が羽を広げる。

 自分ソックリの生人形に会ったとしたら……生身のオレが厨子に閉じ込められ、生人形が生を得て歩き出す光景が思い浮かんだ。


 汚い肉体をもてあます人間から清浄な生人形にすり替わる。

 背筋を冷たい快感が走った。


「茂吉師が、今ではまったく忘れ去られた存在なのが残念です」

 そこまで話した日向は、

「何だかオタクみたいに熱く語っちゃいましたね」と、あざとく首をすくめた。


 日向は茂吉という人物にだけ『師』を付けていた。

 それだけ尊敬し、入れ込んでいるのだと思えば微笑ましかった。


「オレさ……」

 言葉が次々にこぼれ出てきた。


「オヤジは外面だけ立派で、家では、シツケだと、ひどい暴力を振るう最低な奴だ。オヤジと同じ察官になるなんてまっぴらだったから、無理矢理、察官にされて嫌でしょうが無かったんだ」 


「で?」

 日向が包み込むような笑みを向けてきた。


「シュンはいい奴だった。どうしてもこの手で挙げてやると決めた。捜査の最前線に立てることに感謝すべきだって……その……まあ、無理矢理、警察官にされたのも悪くないと思えてきたんだ」 


「それは良かったです。実をいえば、わたしも心苦しく思っていました」


「今は、警察官採用試験に始まって、刑事になるまでいろいろ助けてくれて、有り難かったと思ってる」


 日向は、オレの言葉にうなずきながら、メガネを外し、中指で眉間を撫でた。

 伏し目になると、睫毛の深さと長さが際立ったが、すぐにメガネを掛け直した。 


「警視庁副総監だったお父さまの下で働き始めてから、半年も経たない五年前のことです。わたしは、突然、血液系の希有な難病に侵され、生命の危機に瀕しました。なんとか命拾いしましたが、以来、憑き物が落ちたように、出世欲と無縁になりました……で、第六係を立ち上げる件は、わたしから提案し、お父さまのお力で実現したわけです」


「出世に興味が無くなったといっても、どうして、親父にそこまで肩入れするんだ」 


「お父さまの特別な伝手で、血液系疾患の専門医のいる八代病院に入院でき、治療が効を奏したおかげで、この通り元気になれたからです」


 八代病院は、JR肥薩線八代駅から車で五分ほどの距離にある、医療療養病棟を含めて七十四床の、内科、外科、整形外科しかない病院だという。


「その難病って?」


「病名はまだ付いていません。確立した治療法ではないため自費扱いで、莫大な費用が掛かったはずですが、お父さまは『気にしなくていい』としかおっしゃいませんでした」


「あのオヤジが?」

 恐らく、病院の経営者が水月の『信者』で、無理を聞いてくれたのだろう。




 アイスコーヒーを注ぎ足そうとする日向を制して、

「オレ、これで帰る」

 立ち上がって玄関ドアに向かった。


 キッチン周りが目に入った。

 シンクも調理台もピカピカで、長く使われていない様子である。


「最近は料理しないのか」         

 オレの問い掛けに、日向の顔が一瞬こわばった。


「オレの家庭教師をしていたときは、料理が趣味かと思うくらい色んな料理を作って部屋まで持って来てくれただろ」


「美味しそうに食べてくれる人がいると、作り甲斐があるので頑張っていましたが、今はとんとご無沙汰ですねえ」


 柔らかな笑みを返してきたので、

「オレ、家庭の味を知らずに育ったからさ。アンタの下手な料理が、生まれて初めてのオフクロの味ってわけでさ。なんか悲惨」言い返した。


「よく言いますね。リスみたいに頬袋いっぱいガツガツ詰め込んで、お坊ちゃま育ちとは思えない、下品な食べ方をしていたくせに」


「不味いから早いとこ食い切ろうと思っただけだ」


「暇ができたらまた作りますよ。オフクロの味をね」


 少しばかり得意げな日向の声を聞きながら部屋の外に出た。



 日向もただの人間だ。

 口笛でも吹きたくなった。




 部屋に戻ってシャワーを浴び、パジャマ代わりのジャージに着替えると、ランドリーバッグに洗濯物を押し込んだ。

 廊下に出て、日向の部屋のドアノブにバッグを掛ける。


 こうしておけば、翌朝には、キチンと畳まれた洗濯物が、オレの部屋のドアノブに掛けられている。


 入居した日に『ついでだから一緒に洗いますよ』と言われ、自室の洗濯機を一度も使ったことが無かった。





 ベッドに横になったが寝付けなかった。

 やっと寝入ったと思っても、シュンの笑顔と凄惨な遺体のありさまが目まぐるしく浮かんで、何度も目が覚め、気付けばスマホの目覚ましが鳴っていた。



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