いつの間にか、湖面を這っていた霧が足元を浸食し始めていた。
「コダさん、オレは三頭山口周辺を当たります」
「よし、オレも行く」
佐古田が即答する。
廃駅に続く階段付近に車を停め、ライトを手に階段を上る。
霧は濃さを増し、渦巻くように流れる。
「またもツッチーと因縁のある場所か」
「もう四年経っていますが、今も変わっていないと思います」
湖の上を横断するロープウェイが休止されてから半世紀も経っている。
途中から階段が消え失せ、木の枝を頼りに急な斜面を登り切ると、プラットホームに残されたゴンドラが姿を現した。
「オレたちは、手分けして、手薄な場所のナシ割りをやろう。くれぐれも鑑識さんの邪魔をするなよ」
佐古田は言うだけ言うと、元駅舎に向かっていった。
あの日、屋上に生えていた蔓植物が定家葛だったかどうか、急に気になって、駅舎屋上へ続く階段を上った。
霧はここまで追い掛けてきていた。
さらに深くなってくる。
あの日のように、うらぶれた階段を上って屋上に出た。
霧が立ちこめた屋上一面に、定家葛が低く繁茂していた。
「You! いや、土御門一博!」
深い霧の中、健太の押し殺した声がした。
「犯人は必ず犯行現場に戻るって、本当だったな」
「どういう意味だよ」
「お前が花房さんを殺ったんだろ。その前はシュンだ」
「何だと」
「シュンにも恨みがあったろ。いい仲だったのに、お前がグループを抜けたとき、うちに残った。つまり裏切った。可愛さ余って憎さ百倍ってか」
「シュンとは……」
「バイの花房さんとお前が、シュンを取り合ってたって、メンバー皆が知ってるこった」
健太は単純だ。
自分が信じたいことしか信じない。
「You、お前、シュンが死んだとき、二日間休暇を取っていただろ」
「どうしてそれを? 確かに休暇を取ってた。久しぶりに遠出して、廃工場の探索に行った。それがどうした」
「つまり、シュンについてのアリバイが無いってこった」
「しかし、誰がそんなことを」
「サツにも口の軽い奴がいる。事情聴取のとき、鎌を掛けたら、ポロッと漏らしやがった。昨日だって、ズル休みしたってな。だから、シュンについても花房さんについてもアリバイが
「バ、バカな」
「テメエは警視総監さまの御曹司だ。なんとでもしてかばってもらえるだろうよ」
「報復するならすぐやっている。三年も経ってからなんてあり得ない」
「それだけ執念深いサイコ野郎ってわけだろ」
「証拠があるのか」
「オレっちはサツじゃねえ。証拠だ何だと、まだるっこしいものなんて要らねえ。報復あるのみだ」
健太は素手だった。
武器を使ってでも勝ちさえすればいいという、ヤンキーとは違う。
健太はいつも正々堂々としていた。
大声を出せば応援が来るが、健太の意気に応えなければならない。
「拳で疑いを晴らしてやる」
足幅を広く取ったスタンスから、顔面に上段蹴りを放った。
瞬間、蹴りは空を切り、一歩踏み込んだ健太に軸足を払われた。
転倒し体勢を立て直そうとする後頭部に、健太が肘を打ち込んできた。
「オレに挑戦たぁ、十年早いぜ」
バランスを崩し、前につんのめる。
腕が捉えられ、関節技に持ち込まれる。
持ち前の柔軟さで体を回転させて逃れたものの……健太の胴廻し回転蹴りがオレの上段に炸裂した。
「ツッ」
かろうじてブロックしたオレはうめいた。
「何だ。たいしたことねえな」
両腕をダラリと下げたまま立った健太の目は、獰猛な獣の目をしていた。
繰り出す突きや蹴りは、健太に大きなダメージを与えられず、オレばかりが息を上がらせた。
「ホラホラ、助けを呼ばねえのか? お巡りさーん、助けてーってな」
前蹴り、下突き、カギ突き、カカト落とし、膝蹴り。
健太の攻撃は笑えるほど当たった。
筋肉を引き締めて耐えるしかない。
体が吹っ飛び、定家葛の茂みに転がった。
定家葛の硬くツヤツヤした葉の間に、一輪だけ、白い花が咲いていた。
強い芳香が漂ってくる。
フッと健太の攻撃が止んだ。
腫れたまぶたの間から見えたのは、ピタリと動きを止めた健太の姿だった。
「ワワワ」
定家葛の蔓が足に絡み付いている。
健太が転倒し、ジタバタもがく。
「ツッチー!」
佐古田の野太い叫び声がした。
「クソッ」
健太が蔓を引きちぎって逃走する気配を感じながら、オレの意識は深い沼に沈んでいった。