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第12話 オレの喉仏をツツッと撫でる女

 たゆたっていた意識が、ツイッと水面から引き上げられる。


 ぶら下がっている点滴のバッグが朧気に見えた。

 モニター音がする。

 人の気配の無い病室の中はひどく薄暗かった。



 もう一度目を閉じると、健太の顔が浮かんできた。


 健太はやり場の無い怒りをぶつけてきた。

 オレには戦う理由が無かったから、実力を出せなかった。


 次にやり合うときは、負けないからなと、とりとめなく思考が動く。



 かすかな気配を感じて、重いマブタを開いた。

 ボンヤリした視界に、看護師の姿が映った。


 若い女だった。

 オレの顔をのぞき込んでくる。

 白い指が伸び、体温を感じさせない指が、喉仏をツツッと撫でた。


 香りに記憶があったが思い出せなかった。


 女の目が細まって糸のようになった。

 薄で切ったような瞳の奥の色は、懸命に目を凝らしてもうかがい知れない。

 マスクで隠された口元は笑っているのだろう。


 女がスッと体を離し、ドアを開けて出ていく。

 意識がまた深い縁へと落ちようとしたとき、

「一博さん」

 柔らかな声とともに、日向が入室してきた。


「看護師に出会わなかったか」


「誰もいませんでしたよ。意識混濁時の譫妄ですよ」


 日向が、ベッド脇の床頭台に、入院グッズを手際よく収納しながら、事も無げに答えた。


 手元スイッチで、ベッドの角度を変えて体を起こす。

 アチコチ酷く痛むものの、骨折は免れたらしい。


 健太は手加減していた。

 得心しながら、あらためて日向の顔を見た。


「アレッ。メガネは?」


「地面に落として踏んだので、思い切り壊れてしまいました」


「日向らしくないな」      


「そりゃ慌てますよ。第一報では意識不明の重体で、一時間半も掛けてこの練馬まで搬送されたと聞いたので……」


 練馬区の病院というからには、土御門家が、理事長兼病院長と懇意にしている、練馬協同総合病院らしかった。


「駆け付けてみたら、打撲だけじゃないですか。驚かさないでくださいよ」

 言いながら、一筋、額にかかった前髪を長い指で払った。


 以前はキザに見えた仕草も今は優雅に見える。


 気付くと、照明がオンになっているうえ、窓のカーテンも開いていた。

 日向の長いまつ毛に縁取られた黒鳶色の瞳が、窓から差し込んだ光にきらめく。


「メガネ無しで運転して大丈夫だったのか? 警視さまが、免許条件違反で切符切られちゃ、カッコつかないだろ」


「伊達メガネだから、無くても大丈夫です」

 日向は涼しい顔で答えた。


「二年もの付き合いで、全然、気付かなかった。オレ、やっぱ、刑事に向いてないな」


「ふふ。メガネは女避けです。なるべく似合わない野暮ったいデザインを選んでいます。この顔が目立たないようにね」


「よく言うよ」


「お互い、イケメンは苦労しますね。さぞ女にモテるだろうって、男のヤッカミもひどいし」


「日向がそんなキャラだとは思わなかった」


 なぜか分からないが、笑いのツボにはまってしまった。

 笑いが止まらず、ヒッヒッヒッと引き笑いになる。

 涙まで出てきた。




「ところでさ。譫妄せんもうって生々しいな。夢うつつで見た、女性の看護師は、オレの喉仏の辺りを撫でて、ニヤッと笑ったんだ」

 ついでのように語った言葉に、日向の動きが止まった。


 見る間に顔が蒼白になる。

 ドアを開けて廊下の様子をうかがった。 


「どうした、日向」


「怪しい女が本当にいたのかと思ったんです」

 声音に苛立たしげな色があった。


「なに、焦っているんだ」 

 笑い飛ばそうとしたオレに、

「実は……」

 日向は小さく首を振った。


「中村俊だけじゃなく、飯田修二からも喉仏が取り去られていました」


「シュンのときは切り刻まれていたし、喉仏だけが見つからなかったと聞いても、偶然の可能性があると思ったけど……」



「古い猟奇事件の掘り起こしも無駄じゃなかったでしょ」


「被害者が美男という、まれなケースからピックアップしろなんて、意味が分からないと思っていたけど、先見の明があったんだな」


 明治末期に、被害者が男性ばかりの猟奇殺人事件が五件、立て続けに起こっていた。

 いずれも若く、美男で、喉仏を失っていたという記録があった。


「2000年以降に起こった一連の猟奇殺人事件は、詳細な記録が残されていますし、同一人物の犯行と思われます」


「過去の犯人と同一人物なのか、全く別人が模倣しているのか……」


「喉仏が無かったという事実は秘匿されています。唯一の共通点であり、犯人しか知り得ない情報としてね。同一犯もしくは、以前の事件の詳細を知っている人物であることは間違いないです」


「ともかく以前の事件と関連していることがハッキリした。シリアルキラー中のシリアルキラーだな」


「人間にはできない所業です」

 日向は苦々しげにつぶやいた。


 眉根を寄せた横顔は、今まで見たことがないほど鬱々としていた。


「ところで、あの本だけど……」


「車に戻ると消えていました」


「やっぱ、そうか」


「申しわけありません。ウカツでした」

 謝りながらも平然とした表情である。




「早く戦線復帰したい。健太を救いたいんだ」


「無理です。警察手帳だってわたしが預かっていますから」

 日向はもとの無表情な顔に戻って、厳かに告げた。








 翌々日、本部に復帰すると、五十名体制だった特捜本部は、総勢七十名体制になっていた。



 だが、その後も捜査に進展はなかった。 


 三谷健太の行方も知れないままである。

 過去の伝手をたどって、健太と近しい半グレ連中に当たったが、有力な手掛かりはつかめなかった。



『捜査は九割が無駄足だ』が口癖の佐古田と行動をともにしていたが、しだいに佐古田の単独行動が増えていった。





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