たゆたっていた意識が、ツイッと水面から引き上げられる。
ぶら下がっている点滴のバッグが朧気に見えた。
モニター音がする。
人の気配の無い病室の中はひどく薄暗かった。
もう一度目を閉じると、健太の顔が浮かんできた。
健太はやり場の無い怒りをぶつけてきた。
オレには戦う理由が無かったから、実力を出せなかった。
次にやり合うときは、負けないからなと、とりとめなく思考が動く。
かすかな気配を感じて、重いマブタを開いた。
ボンヤリした視界に、看護師の姿が映った。
若い女だった。
オレの顔をのぞき込んでくる。
白い指が伸び、体温を感じさせない指が、喉仏をツツッと撫でた。
香りに記憶があったが思い出せなかった。
女の目が細まって糸のようになった。
薄で切ったような瞳の奥の色は、懸命に目を凝らしてもうかがい知れない。
マスクで隠された口元は笑っているのだろう。
女がスッと体を離し、ドアを開けて出ていく。
意識がまた深い縁へと落ちようとしたとき、
「一博さん」
柔らかな声とともに、日向が入室してきた。
「看護師に出会わなかったか」
「誰もいませんでしたよ。意識混濁時の譫妄ですよ」
日向が、ベッド脇の床頭台に、入院グッズを手際よく収納しながら、事も無げに答えた。
手元スイッチで、ベッドの角度を変えて体を起こす。
アチコチ酷く痛むものの、骨折は免れたらしい。
健太は手加減していた。
得心しながら、あらためて日向の顔を見た。
「アレッ。メガネは?」
「地面に落として踏んだので、思い切り壊れてしまいました」
「日向らしくないな」
「そりゃ慌てますよ。第一報では意識不明の重体で、一時間半も掛けてこの練馬まで搬送されたと聞いたので……」
練馬区の病院というからには、土御門家が、理事長兼病院長と懇意にしている、練馬協同総合病院らしかった。
「駆け付けてみたら、打撲だけじゃないですか。驚かさないでくださいよ」
言いながら、一筋、額にかかった前髪を長い指で払った。
以前はキザに見えた仕草も今は優雅に見える。
気付くと、照明がオンになっているうえ、窓のカーテンも開いていた。
日向の長いまつ毛に縁取られた黒鳶色の瞳が、窓から差し込んだ光にきらめく。
「メガネ無しで運転して大丈夫だったのか? 警視さまが、免許条件違反で切符切られちゃ、カッコつかないだろ」
「伊達メガネだから、無くても大丈夫です」
日向は涼しい顔で答えた。
「二年もの付き合いで、全然、気付かなかった。オレ、やっぱ、刑事に向いてないな」
「ふふ。メガネは女避けです。なるべく似合わない野暮ったいデザインを選んでいます。この顔が目立たないようにね」
「よく言うよ」
「お互い、イケメンは苦労しますね。さぞ女にモテるだろうって、男のヤッカミもひどいし」
「日向がそんなキャラだとは思わなかった」
なぜか分からないが、笑いのツボにはまってしまった。
笑いが止まらず、ヒッヒッヒッと引き笑いになる。
涙まで出てきた。
「ところでさ。
ついでのように語った言葉に、日向の動きが止まった。
見る間に顔が蒼白になる。
ドアを開けて廊下の様子をうかがった。
「どうした、日向」
「怪しい女が本当にいたのかと思ったんです」
声音に苛立たしげな色があった。
「なに、焦っているんだ」
笑い飛ばそうとしたオレに、
「実は……」
日向は小さく首を振った。
「中村俊だけじゃなく、飯田修二からも喉仏が取り去られていました」
「シュンのときは切り刻まれていたし、喉仏だけが見つからなかったと聞いても、偶然の可能性があると思ったけど……」
「古い猟奇事件の掘り起こしも無駄じゃなかったでしょ」
「被害者が美男という、まれなケースからピックアップしろなんて、意味が分からないと思っていたけど、先見の明があったんだな」
明治末期に、被害者が男性ばかりの猟奇殺人事件が五件、立て続けに起こっていた。
いずれも若く、美男で、喉仏を失っていたという記録があった。
「2000年以降に起こった一連の猟奇殺人事件は、詳細な記録が残されていますし、同一人物の犯行と思われます」
「過去の犯人と同一人物なのか、全く別人が模倣しているのか……」
「喉仏が無かったという事実は秘匿されています。唯一の共通点であり、犯人しか知り得ない情報としてね。同一犯もしくは、以前の事件の詳細を知っている人物であることは間違いないです」
「ともかく以前の事件と関連していることがハッキリした。シリアルキラー中のシリアルキラーだな」
「人間にはできない所業です」
日向は苦々しげにつぶやいた。
眉根を寄せた横顔は、今まで見たことがないほど鬱々としていた。
「ところで、あの本だけど……」
「車に戻ると消えていました」
「やっぱ、そうか」
「申しわけありません。ウカツでした」
謝りながらも平然とした表情である。
「早く戦線復帰したい。健太を救いたいんだ」
「無理です。警察手帳だってわたしが預かっていますから」
日向はもとの無表情な顔に戻って、厳かに告げた。
翌々日、本部に復帰すると、五十名体制だった特捜本部は、総勢七十名体制になっていた。
だが、その後も捜査に進展はなかった。
三谷健太の行方も知れないままである。
過去の伝手をたどって、健太と近しい半グレ連中に当たったが、有力な手掛かりはつかめなかった。
『捜査は九割が無駄足だ』が口癖の佐古田と行動をともにしていたが、しだいに佐古田の単独行動が増えていった。