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第14話 フラッシュバックする呪われた記憶

 低いダミ声には聞き覚えがあった。


 動悸がどんどん増す。

 息が苦しい。

 何度も息を吸い込むと、さらに苦しくなった。

 血まみれの床に膝をついた。


 芹沢良一

 忘れていた名前が、顔が、記憶の水底から浮き上がる。




 脳の最深部に仕舞われ、鍵を掛けられていた、あの日の記憶が、濁流となって目前に躍り出た。

 トラウマの再体験、フラッシュバックだった。




 ―—芹沢良一は、オレがK大付属小学校に通っていたときの運転手だった。


 三十代半ばの大男で、三年前に警察官を辞し、妻の両親とともに小さな生花店を営んでいた。


 無口で生真面目、妻子もあり、厳重な素行調査でも問題が無かった。

 元警察官であるだけに、オヤジの信頼も厚かった。 


 三年余りは淡々と過ぎていった。


 芹沢は、寡黙で無愛想だが、オレにはひどく優しかった。

 理不尽な理由で、過度な暴力をふるうオヤジから、身を挺して守ってくれた。

 父親が芹沢だったらと思うことさえあった。



 だが、芹沢はしだいに変化していった。


 ふざけてお姫さま抱っこをされたり、くすぐられたり、触れられることがしだいに多くなった。


 小学校四年生の、夏休みも間近なある日の夕方だった。


 ベントレーに乗り込んでしばらくすると、午後からのハードな水泳教育のせいで、ウトウト眠ってしまった。


 夢うつつの中、芹沢に、

「今日はちょっと寄り道しましょう。面白い場所にご案内します」

 言われ、うんとうなずいた。


 目覚めると、ベントレーは知らない町を走行していた。


 緑が無く、通りは閑散として、すれ違う車も無い。

 町全体が年老いて薄茶色に染まっていた。


 外の景色を眺めながら芹沢に声を掛けた。


「ねえ、芹沢のおじさんも、警察官だったのでしょ?」


「短い間でしたけどね」

 一瞬、間が空いてから、ノンビリした口調で答えた。


「僕も大きくなったら、お父さまみたいに警察官にならなきゃいけないのかな」


「そんなこと決まってないですよ。坊ちゃんの自由ですよ」


「僕、警察官より……」

 言い掛けて、なりたいものなど無いことに気付いた。




「向き不向きはあるでしょうけどね」

 芹沢は堰を切ったように、早口で語り始めた。


「察官(警察官)になるよう誘ってくれたのは、柔道部の先輩でね。わたしが察官を辞めようとしたときには、ずいぶん引き留められました。前歯が折れるほど殴られましたが、わたしのためだとよく分かっていました。男同士の友情はいいものでね。腹を割って何でも話せます。今でも付き合いがあります。先輩は、刑事として、社会正義の実現のために頑張っている眩しい人です」

 いつになく饒舌に語った。




 ベントレーは小さなマンションの敷地に停車した。


「さあ、さあ、秘密基地に着きましたよ~」

 ドアを開けた芹沢は、白い手袋をした手で、うやうやしく、オレの手を取って車外に誘った。


 マンションは簡素な造りの四階建てで、一階の壁面に茂る青々した蔓植物は、二階へと触手を伸ばしていた。


「去年亡くなった親父の持ち物でしたけど、五年前から入居者ゼロです。櫛の歯が抜けるように、皆、出ていってしまいましてねえ」


 無機質なドアが並ぶさま、シンとしてひと気が絶えたさまに惹かれた。


「わたしはね。一人になりたいとき、親父が住んでいた部屋に泊まっているんです。ねえ、坊ちゃん、お化けが出そうな、オンボロマンションの中がどんな具合だか知りたくないですか」

 人懐っこい笑みを浮かべると、目元の皺が急に際立った。


 死に掛けている、貧相な建物の内部がどうなっているか、好奇心でいっぱいになった。


「親父の幽霊が待っているかもですよ~。坊ちゃんは、怖いモノが好きでしたよね」

 言いながら芹沢は手袋を外した。


 オレの、子どもらしくない特殊な嗜好を熟知した上での誘いだった。


「さあさあ、どうぞ」

 芹沢が優しく招き入れる。


 カタリ

 静かな室内に、内側から施錠する音が大きく響いた。


「どこでも自由に見てください。親父が住んでいたときのままです」


 シンクの扉を開けてみると、ホルダーに収められた包丁が目に飛び込んできた。


 屋敷では、朝倉に見張られているので、包丁に触れたことが無かった。

 刺身包丁の凶暴なシャープさに惹かれて手を伸ばした。


「危ない。危ない。包丁に触っちゃいけませんよ。研いだばかりで、よく切れますから。ちょっと刃に触れただけでスッパリ。血が派手にドバーッと出て、辺りは血の海な~んてね」

 芹沢は甲高い声でケラケラ笑った。


「でね、こちらの部屋で寝てるんです。一人でね」

 芹沢が襖をガラリと開けた。


 ガランとした六畳の間の中央には、ガムテープが一つ転がっていた。


「エ?」

 背中を強く押され、吹っ飛ばされて畳の上に転がった。


 俯せにされるや、後ろ手に拘束される。

 体をヒョイとひっくり返され、口にガムテープを貼り付けられた。


 流れるような動きで叫ぶ間もない。

 恐怖よりも驚きでいっぱいになった。

 自分の身に起こっていることが他人事に感じられた。



 見下ろす芹沢の目は瞳孔が開き、血走っていた。

 悲鳴のような声でまくしたてる。


「坊ちゃんがいけない。坊ちゃんが惑わすから、オレは……オレは今まで築いてきた、ささやかな幸せを全部、捨てる気になったんだ」 


 芹沢は、グイッとオレの顎をつかんで顔を近付けてきた。

 荒い息が掛かり、湿った舌が顔中を這い回る。

 タバコ臭さに息を止めた。吐き気がこみ上げる。


「坊ちゃんをオレの物にしたい。もう誰にも渡さない。この一瞬で人生が終わりだっていい。坊ちゃんが悪い。今までずっと心の底でくすぶっていた火種に、火をつけちまったんだ」


 白い制服の胸元がグイとはだけられ、ボタンが畳の上に、パラパラ音を立てて飛び散る。


「坊ちゃんのせいだ。ガキだっていうのに、男に色目を使いやがって。メチャクチャにしてやる。『生きた人形』をぶっこわしてやる」


 オレのせいだという言葉が、呪文のように頭を巡った。


 無力な人形と見知った人の皮を被った獣。

 それらを俯瞰で見ている気がした。


 生きた人形だから? 

 僕のせい?




 獣の息づかいと、体を這い回るヌメヌメした舌と、下着を引きちぎられる感触に、意識が体からスルリと抜け出した。








 どのくらい経っただろう。


 タン……タン……タン

 蛇口からシンクに水が落ちる緩慢な音に、恐る恐る目を開いた。


 横向けに転がされ、両手は自由になっている。



 右手に刺身包丁があった。

 柄をシッカリ握っていて、なかなか手から放せない。

 上体を起こし、震える左手で、指を一本一本引きはがした。


 ポタリ

 包丁は大きな音を立てて畳の上に落ちた。



 ヨロヨロ立ち上がった。


 水の音が大きく響くばかりで室内は静まり返っていた。

 表通りを通る車の音が小さく聞こえてくる。



 水音に混じって、かすかな音がした。

 包丁を拾い上げ、握りしめながら、恐る恐るリビングをのぞいた。



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