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第15話 レイプ犯を殺害したのは小四のオレ?

 血に染まった芹沢が仰向けに倒れていた。


 凄まじい形相を貼り付かせて中空を見詰めている。

 猪のような首の皮が裂け、断続的に血が噴き出す。


 まだ息がある。

 急に起き上がるのではないかと後ずさった。



 だが、ヒュッと、大きな息を吐き出した後、芹沢の体は動きを止め、虚空を睨んだ瞳は永遠に力を失った。



 マンションは完全な廃墟になった。



 誰かが助けてくれたの? 

 それとも……。



 刺身包丁の刃を見た。

 血は付いていない。

 ホッとしながら、念のため、ジックリ透かし見た。


 研いだばかりの刃には、油膜のような曇りがあった。


 心臓が自分の存在を主張し始める。

 脳がうねる。

 記憶の欠落がもどかしい。



 早くここを出なきゃ。

 和室の隅に落ちていた半ズボンをはいた。

 シャツの前を合わせ、裾を半ズボンに押し込む。



 芹沢の携帯は血溜まりにドップリと漬かっていた。

 連絡を取るには公衆電話しかない。

 テーブルの上に置かれていたポーチから、ふくらんだ小銭入れを抜き取った。




 外に足を踏み出した。

 足が壊れたロボットのように、バラバラに動こうとする。


「落ち着け、落ち着け」

 一歩一歩、地面に足を押し込むように敷地の外に出た。



 道路に立って振り返ると、女の後ろ姿が視界に入った。

 輪郭はおぼろげである。

 何者かに、背筋をスルリと撫でられた気がした。

 蔓植物が絡まった階段をスーッと上っていったが、気のせいにした。






 公衆電話を探し当て、震える指で十円玉を投入した。


「えっと、えっと……」

 自宅や、父母の携帯の電話番号が頭の中でバラバラに散らばる。


 豆腐の移動販売車が、乾いた道をユルユルと通り過ぎていく。



 オフクロの携帯電話の番号をプッシュし掛けて、『こういうときは、まず、お父さまに報せなきゃ。でなきゃ、死ぬほど酷い目に遭わされる』と考え直した。




 オヤジの応答は、静かだが緊張の色を帯びていた。

「今、どこだ? 無事か」


 頭ごなしに叱りつけず、冷静に訊ねてくるオヤジの声が頼もしかった。


『芹沢さん死んだ』

『芹沢さん、変』

『僕、何も見てない』

『血だらけ』

 切れ切れの言葉に、受話器を通して、オヤジの激しい動揺が伝わってきた。 



 一呼吸の間を空けてから、

『こちらから聞くことに、ゆっくり返事しなさい』

 要領よく聞き出してくれた後、一一〇番通報せず、直に報せたことを、『お前にしてはよくやった』とほめてくれた。






 顔色を失ったオフクロが白いベンツで駆けつけてくれた。

 そのときになって体のひどい痛みに気が付いた。




 練馬協同総合病院に運ばれ、五日間、入院させられた。

 このときばかりはオフクロも優しく、付き添ってくれた。




 いざとなればオヤジとオフクロが守ってくれる。

 心に灯りが灯った気がした。

 だが……。




 オフクロに連れられて自宅に戻ると、待ち構えていたオヤジに、

「あのマンションでのことは忘れろ。あの場にお前はいなかったのだ」と言われ、

「嘘なんてつけない」というと激高された。


 拳で頬を殴られ、足で蹴られての大騒ぎになり、朝倉が、自分も蹴られながら、必死の形相で止めてくれた。

 オフクロはいつものオフクロに戻り、全くかばってくれなかった。


 子供心に納得できなかったが、非力な子供は黙るしかなかった。





 数日後、朝倉から『資金繰りに困った芹沢の発作的な自殺として処理された』と聞かされた。


「ですからもう安心ですよ」

 ささやいたときの朝倉の真意は、怖くて聞けなかった。



 毎晩、悪夢にうなされる日々が続いたが……。

 人は、処理能力をはるかに超える体験をすると、心を守るため、記憶を封印してしまうことがある。


 鮮烈だった記憶は、ひと月も経たないうちにゴッソリと抜け落ち、オレの中では無かったことになっていた――




 オレが多重人格で、一連の事件のマルヒだったなんてことは?


 部屋中のすべてがグルグル回る。

 床が歪む。

 立っていられず、膝をついた。


 手がワナワナと震え、端末がツルリと手から落ちる。

 慌てて拾い直した。




 非常階段を駈け上ってくる、重量感のある足音がした。

 現場のありさまに佐古田も絶句する。


 パトカーのサイレンがいろいろな方向から聞こえ、救急車のサイレンも近付いてくる。


 到着後すぐ踏み込んでいれば……と、自分の甘さに腹が立った。


 犯人は殺人を楽しんでいる。

 恐怖と苦痛を与えて喜びを感じている。

 切り裂きジャック以上のシリアルキラー中のシリアルキラーだった。


 シュンや花房、そして健太はどんな苦痛と恐怖を味わったのだろう。


 案外……痛みで叫び、のたうち回っているうちに、感覚が記号になって、知覚から乖離していったのではないだろうか。


 もがき苦しんでいるように見えても、条件反射的に体が動いているだけで、酷い苦しみは、案外、短い間かもしれない。


 そうとでも思わなければいられなかった。




「オイ。何をボーッとしているんだ」

 佐古田の言葉で、グイと現実に引き戻された。


「まだ殺人は起きるだろう。次は誰か? また、オール・リセットのメンバーが狙われるのか」

 佐古田は独り言のようにつぶやいた。




「土御門刑事、怪我はありませんか」

 到着した日向が声を掛けてきた。

 穏やかな声を聞くと、肩の力がフッと抜ける気がした。




「えらくお早いお着きですな」

 佐古田は聞こえよがしにつぶやきながら、形ばかりの一礼をして、隣のビルの裏口方向に向かっていった。






「本部に戻りましょう。わたしが運転します」

 助手席に乗り込むと、日向は軽快なハンドリングでメインストリートに滑り出した。

 混んでいる道を巧みに避けて捜査本部を目指す。



「オレは健太本人からのメッセージだと信じる。健太の目は何かを伝えようとしていた。健太は、口封じを兼ねて餌食になったのか? それとも最初から健太が三番目の標的で、オレは健太に呼び出されて、たまたま目撃者になったのか」


「ま、その点はたいした問題じゃないですけどね」

 日向は前を向いたまま、冷めた口調で話をぶった切った。



「ところで、例の本が……」

 バッグから本を取り出そうとして、ハタと手が止まった。

 ポリ袋に入れた本は消失していた。


「無い。バッグはずっと手放さなかったのに」

 氷のような寒気が背筋を駆ける。


「本のことはもういいです。誰の仕業か分かっていますから」


「エッ?」

 衝撃の言葉に絶句した。


「いえ、一連の事件のマルヒの嫌がらせという意味ですよ」


「何だ。脅かすな」


「ともかく本のことなんてもうどうでもいいです。今度こそ、犯行を阻止するのみです」



 日向は管理官である。

 一巡査でしかないオレは蚊帳の外でも、何らかの有力情報を得ているのだ。

 水面下で捜査が進展しているのではないかとの希望が湧いた。



「健太の次に狙われるのは……」 


「まだ余裕があります」


「え? どういう意味だ?」


「事件はひと月ごとに起きています。シリアルキラーはこだわりがありますから次は六月です」


「いい加減な見立てだな。日向らしくもない」

 横目で日向を見た。


「アレッ、メガネ、まだ新調してないのか」


「どうせ伊達メガネだったから、コレを機会にやめることにしました」

 日向もチラリとこちらを見た。


「それもそうだ」

 言い掛けて、突然脳裏に、押し掛け家庭教師をされていた頃の記憶が蘇って、アッという小さな声が出た。


「アッて何ですか?」

 日向がまたチラッと目を向けてきた。


「今まで忘れてたけど、確かに、すげぇ度が入ってた。オレ、どのくらいド近眼かって、こっそりチェックしたことがあったんだ。目が悪くないのにあんなメガネを掛けてちゃ、目眩を起こしてしまうだろ」


「ハハ、それは、記憶違いですよ」

 日向は愉快そうに笑った。 

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