血に染まった芹沢が仰向けに倒れていた。
凄まじい形相を貼り付かせて中空を見詰めている。
猪のような首の皮が裂け、断続的に血が噴き出す。
まだ息がある。
急に起き上がるのではないかと後ずさった。
だが、ヒュッと、大きな息を吐き出した後、芹沢の体は動きを止め、虚空を睨んだ瞳は永遠に力を失った。
マンションは完全な廃墟になった。
誰かが助けてくれたの?
それとも……。
刺身包丁の刃を見た。
血は付いていない。
ホッとしながら、念のため、ジックリ透かし見た。
研いだばかりの刃には、油膜のような曇りがあった。
心臓が自分の存在を主張し始める。
脳がうねる。
記憶の欠落がもどかしい。
早くここを出なきゃ。
和室の隅に落ちていた半ズボンをはいた。
シャツの前を合わせ、裾を半ズボンに押し込む。
芹沢の携帯は血溜まりにドップリと漬かっていた。
連絡を取るには公衆電話しかない。
テーブルの上に置かれていたポーチから、ふくらんだ小銭入れを抜き取った。
外に足を踏み出した。
足が壊れたロボットのように、バラバラに動こうとする。
「落ち着け、落ち着け」
一歩一歩、地面に足を押し込むように敷地の外に出た。
道路に立って振り返ると、女の後ろ姿が視界に入った。
輪郭はおぼろげである。
何者かに、背筋をスルリと撫でられた気がした。
蔓植物が絡まった階段をスーッと上っていったが、気のせいにした。
公衆電話を探し当て、震える指で十円玉を投入した。
「えっと、えっと……」
自宅や、父母の携帯の電話番号が頭の中でバラバラに散らばる。
豆腐の移動販売車が、乾いた道をユルユルと通り過ぎていく。
オフクロの携帯電話の番号をプッシュし掛けて、『こういうときは、まず、お父さまに報せなきゃ。でなきゃ、死ぬほど酷い目に遭わされる』と考え直した。
オヤジの応答は、静かだが緊張の色を帯びていた。
「今、どこだ? 無事か」
頭ごなしに叱りつけず、冷静に訊ねてくるオヤジの声が頼もしかった。
『芹沢さん死んだ』
『芹沢さん、変』
『僕、何も見てない』
『血だらけ』
切れ切れの言葉に、受話器を通して、オヤジの激しい動揺が伝わってきた。
一呼吸の間を空けてから、
『こちらから聞くことに、ゆっくり返事しなさい』
要領よく聞き出してくれた後、一一〇番通報せず、直に報せたことを、『お前にしてはよくやった』とほめてくれた。
顔色を失ったオフクロが白いベンツで駆けつけてくれた。
そのときになって体のひどい痛みに気が付いた。
練馬協同総合病院に運ばれ、五日間、入院させられた。
このときばかりはオフクロも優しく、付き添ってくれた。
いざとなればオヤジとオフクロが守ってくれる。
心に灯りが灯った気がした。
だが……。
オフクロに連れられて自宅に戻ると、待ち構えていたオヤジに、
「あのマンションでのことは忘れろ。あの場にお前はいなかったのだ」と言われ、
「嘘なんてつけない」というと激高された。
拳で頬を殴られ、足で蹴られての大騒ぎになり、朝倉が、自分も蹴られながら、必死の形相で止めてくれた。
オフクロはいつものオフクロに戻り、全くかばってくれなかった。
子供心に納得できなかったが、非力な子供は黙るしかなかった。
数日後、朝倉から『資金繰りに困った芹沢の発作的な自殺として処理された』と聞かされた。
「ですからもう安心ですよ」
ささやいたときの朝倉の真意は、怖くて聞けなかった。
毎晩、悪夢にうなされる日々が続いたが……。
人は、処理能力をはるかに超える体験をすると、心を守るため、記憶を封印してしまうことがある。
鮮烈だった記憶は、ひと月も経たないうちにゴッソリと抜け落ち、オレの中では無かったことになっていた――
オレが多重人格で、一連の事件のマルヒだったなんてことは?
部屋中のすべてがグルグル回る。
床が歪む。
立っていられず、膝をついた。
手がワナワナと震え、端末がツルリと手から落ちる。
慌てて拾い直した。
非常階段を駈け上ってくる、重量感のある足音がした。
現場のありさまに佐古田も絶句する。
パトカーのサイレンがいろいろな方向から聞こえ、救急車のサイレンも近付いてくる。
到着後すぐ踏み込んでいれば……と、自分の甘さに腹が立った。
犯人は殺人を楽しんでいる。
恐怖と苦痛を与えて喜びを感じている。
切り裂きジャック以上のシリアルキラー中のシリアルキラーだった。
シュンや花房、そして健太はどんな苦痛と恐怖を味わったのだろう。
案外……痛みで叫び、のたうち回っているうちに、感覚が記号になって、知覚から乖離していったのではないだろうか。
もがき苦しんでいるように見えても、条件反射的に体が動いているだけで、酷い苦しみは、案外、短い間かもしれない。
そうとでも思わなければいられなかった。
「オイ。何をボーッとしているんだ」
佐古田の言葉で、グイと現実に引き戻された。
「まだ殺人は起きるだろう。次は誰か? また、オール・リセットのメンバーが狙われるのか」
佐古田は独り言のようにつぶやいた。
「土御門刑事、怪我はありませんか」
到着した日向が声を掛けてきた。
穏やかな声を聞くと、肩の力がフッと抜ける気がした。
「えらくお早いお着きですな」
佐古田は聞こえよがしにつぶやきながら、形ばかりの一礼をして、隣のビルの裏口方向に向かっていった。
「本部に戻りましょう。わたしが運転します」
助手席に乗り込むと、日向は軽快なハンドリングでメインストリートに滑り出した。
混んでいる道を巧みに避けて捜査本部を目指す。
「オレは健太本人からのメッセージだと信じる。健太の目は何かを伝えようとしていた。健太は、口封じを兼ねて餌食になったのか? それとも最初から健太が三番目の標的で、オレは健太に呼び出されて、たまたま目撃者になったのか」
「ま、その点はたいした問題じゃないですけどね」
日向は前を向いたまま、冷めた口調で話をぶった切った。
「ところで、例の本が……」
バッグから本を取り出そうとして、ハタと手が止まった。
ポリ袋に入れた本は消失していた。
「無い。バッグはずっと手放さなかったのに」
氷のような寒気が背筋を駆ける。
「本のことはもういいです。誰の仕業か分かっていますから」
「エッ?」
衝撃の言葉に絶句した。
「いえ、一連の事件のマルヒの嫌がらせという意味ですよ」
「何だ。脅かすな」
「ともかく本のことなんてもうどうでもいいです。今度こそ、犯行を阻止するのみです」
日向は管理官である。
一巡査でしかないオレは蚊帳の外でも、何らかの有力情報を得ているのだ。
水面下で捜査が進展しているのではないかとの希望が湧いた。
「健太の次に狙われるのは……」
「まだ余裕があります」
「え? どういう意味だ?」
「事件はひと月ごとに起きています。シリアルキラーはこだわりがありますから次は六月です」
「いい加減な見立てだな。日向らしくもない」
横目で日向を見た。
「アレッ、メガネ、まだ新調してないのか」
「どうせ伊達メガネだったから、コレを機会にやめることにしました」
日向もチラリとこちらを見た。
「それもそうだ」
言い掛けて、突然脳裏に、押し掛け家庭教師をされていた頃の記憶が蘇って、アッという小さな声が出た。
「アッて何ですか?」
日向がまたチラッと目を向けてきた。
「今まで忘れてたけど、確かに、すげぇ度が入ってた。オレ、どのくらいド近眼かって、こっそりチェックしたことがあったんだ。目が悪くないのにあんなメガネを掛けてちゃ、目眩を起こしてしまうだろ」
「ハハ、それは、記憶違いですよ」
日向は愉快そうに笑った。