「あ~、ばれちゃいましたね」
日向は涼しい顔でドアを開け、オレを招き入れた。
淡い光が差し込む室内には、オーデコロンの匂いが漂っている。
香りは隠花植物を連想させた。
「何かあればすぐ駆けつけられると思いましてね」
涼しい目を向けてきた。
「どうしてそこまで監視する必要があるんだ」
オレの問いに日向は押し黙った。
一呼吸置いて、引き結ばれた唇が動く。
「次に狙われるのはあなたかも知れないからです」
「オヤジみたいなことを言うな。そんなこと、どうして分かる」
「わたしもお父さまもお母さまも皆、当事者だからです」
「どういう意味だ」
「わたしが一博さんの立場でもやはり笑い飛ばすでしょう。以前のわたしもまさにそうでした。今のところ何の証拠もありません。ですが、三件の事件は、千姫をった生人形の仕業です」
「意味が分からない」
「三件とも人間業と思えますか? あんなこと人間にできるはずがないです」
「まだ解けないだけで、真相が分かれば……」
「お父さまは、『いざとなれば、わたしに策がある。心配するな』とおっしゃいますが、具体的な方策は、わたしにも分かりません。悪い予感しかしないのです」
日向は苦悶するように顔を歪めた。
陰翳が日向の横顔を縁取る。
大げさで芝居じみていた。
「オフクロがあんなだから、オヤジやアンタまでスピに毒されたのか?」
「千姫人形は、わたしなどが対抗できる相手ではありませんが、それでも、あなたを全力で守ります」
「日向、お前はオレの何なんだ。なぜそこまで言うんだ」
「心配してはいけませんか」
「放っておいてくれ」
「千姫人形を確実に滅ぼす方法は一つしかありません。生人形は、思いを遂げると……」
日向の言葉をさえぎって立ち上がった。
「もうイイ!」
どんな場面でも理性的だった日向が、世迷い言を口にしている。
しかも、学歴を誇示し、冷静沈着を旨としている警視総監さままで、妙な新興宗教かカルトじみたことを信じているという。
突拍子もないことを主張する陰謀論者を笑えない。
そこでピンときた。
狂信的な連中なら、目的のために何でもする。
「もしかしてオレのことをサツにタレこんだのは花房じゃなくて、日向だったのか」
「お父さまのご指示でした」
平然と言い放つ日向は、遠い存在だった。
身体検査の際の悔しさが蘇ってきた。
留置場は、拘置所でも刑務所でもない。
体の内部にクスリや危険物を隠し持っていないかだけ確認できれば、それ以上、子細に調べることはないと、健太から聞いていたが……。
サディスティックな目をした警察官に、
「よ~くチェックしなきゃな。もっと大きく股を広げて」
必要以上に長い間、屈辱的な姿勢を取らされた上、のぞかれ、執拗に触れられた。
身体検査は拒否できない。
少しの辛抱だと唇を噛んだ。
それも、脅しの効果を上げるための演出だった。
「そこまでするか」
怒りのドス黒い雲がムクムクと湧き上がる。
マンマと乗せられて狼狽した自分にも腹が立った。
「お願いです。話を聞いてください。突飛な話ですが真実です」
日向は両手でオレの右手を取った。
まるで大切な宝物を手に取るような仕草だった。
ヒンヤリした手の感触に、ゾクッと寒気が体を這う。
「例の本の出現と消失も、人ならぬ千姫人形の仕業です。いくらなんでもあんなこと人間には不可能です」
すがりつくような目は尋常ではない。
狂っている。
激しい怒りがこみ上げ、雷雲のように黒々と湧き上がってきた。
「放せ! お前をチョッとでも頼りにしたオレがバカだった」
ふりほどくついでに、日向の頬目掛けてパンチを繰り出した。
日向は表情も変えず、ヒョイとサイドステップした。
拳が空を切る。
日向が放った掌底が、ピタリと寸止めで止まる。
風圧が微かな痛みを残し、頬を張られた気がした。
「一博さん」
日向は額に掛かった髪を形の良い指でかき上げた。
「酒臭いですよ。酔いがさめてから、冷静に話し合いましょう。理解していただけるよう、順序立ててゆっくりお話しますから」
頭がおかしい男とコレ以上、話すのはゴメンである。
「そうだな」
短く答え、日向の脇をすり抜けてドアに向かった。
部屋に戻ったオレは、ベランダに出て、隔壁越しにファイバースコープを差し込んだ。
狭い場所の内部をうかがうための、廃墟探索アイテムがこういう際に役に立つ。
カーテンは開いたままで、日向はベッドに浅く腰を掛けていた。
谷汲観音像の額を、身じろぎもせず、ジッと見詰めている。
ピクリとも動かない。
蛇の肌で背筋を撫でられるような悪寒が走った。
一連の事件は、日向潤という、常軌を逸した人物の仕業だった。
それならすべて辻褄が合う。
本の出現と消失も、日向なら容易い。
忠刻に相手にされず、今度はオレに執着しているのだ。
オレを自分のモノにするため、虚言を吐いて周囲を惑わしているに違いない。
ガツガツせず、巧みに網を縮めていた。
日向に全幅の信頼を置いているオヤジも、上手く丸め込まれている。
姑息な手段で警察官になるよう強要してきた狂言も、日向が発案、実行し、オヤジはただ乗せられただけに違いない。
もともと嘘くさい男だった。
ソツの無いエリートを演じながら、ポロリと人間らしさを見せる。
人は、そういうギャップに弱い。
『案外イイ人だな』から、好意を抱くのに時間は掛からない。
そこまで計算していた。
オレが親しかった人物に異様に嫉妬することも、狂った思考の持ち主ならあり得た。
窮地に追い込むことで自分を頼りにするよう仕向けるための犯行だった。
サイコなら手段を選ばない。
今はなに一つ立証できない。
頭を冷やしてから反撃方法を考えよう。
この場は行方をくらますしかない。
動きやすい私服に着替え、廃墟探索の装備一式と着替えをバッグに詰め込むと、スマホをベッドの上に放り出した。
自室のドアから出ては気取られる。
別の部屋から脱出することにした。
ここは四階である。
住人は単身の男性ばかりで、ベランダの施錠がされていない部屋が多い。
隔壁越しに、身を乗り出して四〇五号室をうかがった。
大手市銀勤務で、平日の昼間は留守であることは以前から知っていた。
散らかった部屋を横切って、ソッと玄関のドアを開けた。
素早く階段室に向かう。
大荷物を担ぎながら、難儀して階段を駈け下りた。
定家葛はマンションの裏手にまで広がって無数のほころんだ蕾が見えた。
いっせいに開花すれば、きっと素晴らしい光景だろう。
あの島に行ってみよう。
九州だから、もう咲いているに違いない。
混乱した頭の中を整理するためにはクールダウンが必要だ。
行かない選択肢は無かった。
通りに出てタクシーを呼び止め、羽田空港に向かった。