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第19話 六月一日、いっせいに咲く定家葛

 定家葛島へは、定期船も海上タクシーも通っていなかった。

 漁港で当たってみる外ないが、いきなりでは難しいという。


「おるが、今から島に戻るたい」

 日に焼けて赤銅色の顔をした老人が声を掛けてきた。


「助かります。うちの別荘が今どうなっているか、この目で見たいと思って、東京から来ました」


「あた、土御門家の人と?」


「そうです。別荘は祖母の代まで使っていたそうですが……」


「水月さまの息子さんと? わし、古市正男ていう。アタの名前は?」


「土御門一博と言います」


「そうと」

 古市はブッキラボウにうなずいた。



 桟橋に小さな船が一艘だけ舫っていた。 

 漁具が載せられていたが、現役の漁船ではなさそうである。



「すぐ出るけん。乗って」

 促されて船に乗り移ると、古市は操舵室に入ってエンジンを始動させた。


 船出を祝福するように、曇っていた空が見る見る晴れ渡っていく。

 日差しが降り注ぐ海は、底抜けに明るい色をしていた。

 熊本の海が歓迎しているようで心が弾んだ。



「お屋敷ん周りや庭は島んもんで手入れしとるばってん」

 古市が急に、言いわけし始めた。


 鍵が掛かっていて建物内に入れない。

 台風や地震で割れた窓があり内部はかなり痛んでいると思われる。

 鍵を開けてもらえれば掃除もできるし、修理もします……と。


「思い立ってすぐに来たので、鍵を持ってないんです」


「じゃあ、どぎゃんしてお屋敷に入るつもりやったんか」


「廃墟だから入れる場所くらいあるでしょ」


「それじゃまるで泥棒んごたるなかと」


 前を向いていて表情は読み取れないが、明らかに口調が変化した。

 説明が面倒になってきた。


「入れなきゃ外から見るだけであきらめますよ」


「変わっとらるるね」

 理解しがたいというような口調に、あわてて話題をズラした。


「古市さんは、父母のことをよくご存知なのですか」


「水月さまはお子さまん頃から知っとるばってん」


「じゃあ、父はご存知ないのですか」


 オレの問いに、古市は一呼吸置いてから、忠刻は、結婚してすぐの一九九六年に、一度だけこの島を訪れたと語った。


「じゃあ、父がこの島に来たのは、その一度キリですか」


「そうそう。六月一日やったばい」


 年月日まで覚えているのに、若かりし日の忠刻と瓜二つなオレを見て、驚かなかったことが不思議だった。


「月白さまがお亡くなりになって、別荘は使われんくなったばい。水月さまはいつやったか、お一人で茂吉先生ば工房を訪ねてこられたことがあったばい」


「茂吉先生って?」


「生人形師ん鈴木茂吉先生たい」 

 古市の声には、分かり切ったことをどうして聞くのかという、心外さが感じられた。


 日向が語っていた生人形師の話を思い出した。 


「鈴木茂吉先生って、明治の頃に谷汲観音像を作った人と同じ名前ですね」


「そうたい。うちん言いよるとは、二代目茂吉先生たい」


 時代に隔たりがあるから、直弟子ではなく、二代目を名乗る人物らしい。


「水月さまんご先祖月夜見さまは、先代ん類いまれな才能に惚れ込まれて、たいぎゃ援助なさっとらした。先代ん故郷のこん島ば買い取られた」


『さま』付けだった理由がやっと分かった。


「茂吉さんは島におられるのですか」


「今はもうおられまっせん。うちどもも知らんばい」

 誇らしげに語ったかと思えば、転居先さえ知らないという。



 ポツンと島の姿が見えてきた。 


「あっがうちん島ばい」

 島影がどんどん鮮明になる。


 周囲四キロの小さな島で、二百人余りの島民がいたが、今は十二家族二十一人になり、細々と漁業を営む傍ら畑作を営んで、ほぼ自給自足という。


 防波堤を過ぎていよいよ港に入っていく。



「え!」

 思わず声を上げた。



 島全体が不思議な色に染め上げられていた。

 木々の濃い緑に、純白の雪がチラホラ積もって見えた。


 さらに接近する。


「すごい」

 雪に見えたのは無数の定家葛の花だった。

 今にも開かんばかりにほころんだ蕾ばかりである。




「定家葛がすごいですね」

 桟橋に移ると、大きく息を吸い込んだ。


「なしか、うちん島じゃ、六月一日になると、いっせいに咲くばい」

 古市の言葉に鳥肌が立った。


 ジャスミンに似た甘い匂いが体にまとわりつく。




 桟橋の近くで網の繕いなどをしていた人たちが、いっせいにこちらを向いた。

 皆、老人だった。

 無遠慮な視線が注がれる。

 男も女も無表情で、渋紙色の顔をしていた。


「父と僕はソックリと言われますが、そうは思われなかったのですね」

 出会った直後から気になっていたことを口にしてみた。


 一瞬、間が空いた。


「名字ば聞いて、そういえば、ちっとばっかり、忠刻しゃんと似とるなて思うた」


 父親の劣化コピーだと言われ慣れていたオレには新鮮な反応だった。




「この先ん角ば曲がって、坂道ば上っていけば、高台に出るばい。お屋敷はすぐ分かる」

 言いながら、古市は反対方向へヒョロヒョロ歩み去った。




 道の向こう側から、老婆が一人、手押し車を押しながら歩いてきた。

 無表情な老婆は、余所者であるオレをジロリと見てすれ違っていった。


 視線に気付いて振り返ると、道の真ん中に立ってジッと見ている。


 異世界というより、死に掛けの老人ばかりだから冥界だな。

 非日常の世界に足を踏み入れた気がして、フフッと小さな笑いが出た。




 道はくねっていて、両側に民家があったり、急に開けた畑地になったりした。


 野菜や色とりどりの花々が植えられている畑は、温かな人の営みを感じさせたが、どの家からも話し声が聞こえない。

 たまに、台所で食器を洗うカチャカチャという音と水を流す音だけがした。




 屋敷は、小高い山の頂上にあった。

 定家葛が、門扉にもフェンスにも繁茂して、蕾が開花の瞬間を待っている。


 歳月が、優雅で立派だったはずの洋館を、緑と白の海に沈めていた。

 屋敷の奥には、黒々とした、異様に大きな土蔵が見えた。


 フッと日向の顔が浮かんだ。

 芽生えそうだった絆が、妄想に過ぎなかったことを思い出して、腹の中が煮えくりかえった。


 頭を振って気持ちを切り替える。

 今は何もかも忘れていたい。



 屋敷は木造銅板葺きの瀟洒な洋館だった。

 二階ベランダに面する部屋の鎧戸は、一ヵ所を除いてピタリと閉ざされている。 


 まずはベランダ側に足を向けた。



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