定家葛島へは、定期船も海上タクシーも通っていなかった。
漁港で当たってみる外ないが、いきなりでは難しいという。
「おるが、今から島に戻るたい」
日に焼けて赤銅色の顔をした老人が声を掛けてきた。
「助かります。うちの別荘が今どうなっているか、この目で見たいと思って、東京から来ました」
「あた、土御門家の人と?」
「そうです。別荘は祖母の代まで使っていたそうですが……」
「水月さまの息子さんと? わし、古市正男ていう。アタの名前は?」
「土御門一博と言います」
「そうと」
古市はブッキラボウにうなずいた。
桟橋に小さな船が一艘だけ舫っていた。
漁具が載せられていたが、現役の漁船ではなさそうである。
「すぐ出るけん。乗って」
促されて船に乗り移ると、古市は操舵室に入ってエンジンを始動させた。
船出を祝福するように、曇っていた空が見る見る晴れ渡っていく。
日差しが降り注ぐ海は、底抜けに明るい色をしていた。
熊本の海が歓迎しているようで心が弾んだ。
「お屋敷ん周りや庭は島んもんで手入れしとるばってん」
古市が急に、言いわけし始めた。
鍵が掛かっていて建物内に入れない。
台風や地震で割れた窓があり内部はかなり痛んでいると思われる。
鍵を開けてもらえれば掃除もできるし、修理もします……と。
「思い立ってすぐに来たので、鍵を持ってないんです」
「じゃあ、どぎゃんしてお屋敷に入るつもりやったんか」
「廃墟だから入れる場所くらいあるでしょ」
「それじゃまるで泥棒んごたるなかと」
前を向いていて表情は読み取れないが、明らかに口調が変化した。
説明が面倒になってきた。
「入れなきゃ外から見るだけであきらめますよ」
「変わっとらるるね」
理解しがたいというような口調に、あわてて話題をズラした。
「古市さんは、父母のことをよくご存知なのですか」
「水月さまはお子さまん頃から知っとるばってん」
「じゃあ、父はご存知ないのですか」
オレの問いに、古市は一呼吸置いてから、忠刻は、結婚してすぐの一九九六年に、一度だけこの島を訪れたと語った。
「じゃあ、父がこの島に来たのは、その一度キリですか」
「そうそう。六月一日やったばい」
年月日まで覚えているのに、若かりし日の忠刻と瓜二つなオレを見て、驚かなかったことが不思議だった。
「月白さまがお亡くなりになって、別荘は使われんくなったばい。水月さまはいつやったか、お一人で茂吉先生ば工房を訪ねてこられたことがあったばい」
「茂吉先生って?」
「生人形師ん鈴木茂吉先生たい」
古市の声には、分かり切ったことをどうして聞くのかという、心外さが感じられた。
日向が語っていた生人形師の話を思い出した。
「鈴木茂吉先生って、明治の頃に谷汲観音像を作った人と同じ名前ですね」
「そうたい。うちん言いよるとは、二代目茂吉先生たい」
時代に隔たりがあるから、直弟子ではなく、二代目を名乗る人物らしい。
「水月さまんご先祖月夜見さまは、先代ん類いまれな才能に惚れ込まれて、たいぎゃ援助なさっとらした。先代ん故郷のこん島ば買い取られた」
『さま』付けだった理由がやっと分かった。
「茂吉さんは島におられるのですか」
「今はもうおられまっせん。うちどもも知らんばい」
誇らしげに語ったかと思えば、転居先さえ知らないという。
ポツンと島の姿が見えてきた。
「あっがうちん島ばい」
島影がどんどん鮮明になる。
周囲四キロの小さな島で、二百人余りの島民がいたが、今は十二家族二十一人になり、細々と漁業を営む傍ら畑作を営んで、ほぼ自給自足という。
防波堤を過ぎていよいよ港に入っていく。
「え!」
思わず声を上げた。
島全体が不思議な色に染め上げられていた。
木々の濃い緑に、純白の雪がチラホラ積もって見えた。
さらに接近する。
「すごい」
雪に見えたのは無数の定家葛の花だった。
今にも開かんばかりにほころんだ蕾ばかりである。
「定家葛がすごいですね」
桟橋に移ると、大きく息を吸い込んだ。
「なしか、うちん島じゃ、六月一日になると、いっせいに咲くばい」
古市の言葉に鳥肌が立った。
ジャスミンに似た甘い匂いが体にまとわりつく。
桟橋の近くで網の繕いなどをしていた人たちが、いっせいにこちらを向いた。
皆、老人だった。
無遠慮な視線が注がれる。
男も女も無表情で、渋紙色の顔をしていた。
「父と僕はソックリと言われますが、そうは思われなかったのですね」
出会った直後から気になっていたことを口にしてみた。
一瞬、間が空いた。
「名字ば聞いて、そういえば、ちっとばっかり、忠刻しゃんと似とるなて思うた」
父親の劣化コピーだと言われ慣れていたオレには新鮮な反応だった。
「この先ん角ば曲がって、坂道ば上っていけば、高台に出るばい。お屋敷はすぐ分かる」
言いながら、古市は反対方向へヒョロヒョロ歩み去った。
道の向こう側から、老婆が一人、手押し車を押しながら歩いてきた。
無表情な老婆は、余所者であるオレをジロリと見てすれ違っていった。
視線に気付いて振り返ると、道の真ん中に立ってジッと見ている。
異世界というより、死に掛けの老人ばかりだから冥界だな。
非日常の世界に足を踏み入れた気がして、フフッと小さな笑いが出た。
道はくねっていて、両側に民家があったり、急に開けた畑地になったりした。
野菜や色とりどりの花々が植えられている畑は、温かな人の営みを感じさせたが、どの家からも話し声が聞こえない。
たまに、台所で食器を洗うカチャカチャという音と水を流す音だけがした。
屋敷は、小高い山の頂上にあった。
定家葛が、門扉にもフェンスにも繁茂して、蕾が開花の瞬間を待っている。
歳月が、優雅で立派だったはずの洋館を、緑と白の海に沈めていた。
屋敷の奥には、黒々とした、異様に大きな土蔵が見えた。
フッと日向の顔が浮かんだ。
芽生えそうだった絆が、妄想に過ぎなかったことを思い出して、腹の中が煮えくりかえった。
頭を振って気持ちを切り替える。
今は何もかも忘れていたい。
屋敷は木造銅板葺きの瀟洒な洋館だった。
二階ベランダに面する部屋の鎧戸は、一ヵ所を除いてピタリと閉ざされている。
まずはベランダ側に足を向けた。