蔓に棘が生じていく。
手の先、足の先から順に薔薇の蔓のようになって、背中、胸、腹を刺す。
生暖かい血が肌を伝う。
「こういう趣向はどうじゃ」
蔓が唇を割って侵入しようとする。
口をこじ開けられ、細い蔓が口内を撫で回る。
ゆっくりと、喉から食道へと進もうとする。
何度も
胃壁が破られると思うほど、蔓が胃の中で暴れる。
「棘はまだ勘弁してつかわそう。後の楽しみじゃ」
軍用パンツの裂け目から滑り込んだ蔓が、蛇のようにスルスル這い上がってきた。
フクラハギから太モモ、そして……屈辱で体全体が熱くなる。
「上下より攻め入った蔓が、腸のいかなる場所で邂逅するかのう。たまらぬの」
千姫人形が舌なめずりする。
オフクロの半眼の目は、千姫人形の目だけを睨めつけている。
「どうじゃ、水月。今なら息子はまだ無傷じゃ」
いよいよ嬲り殺すとなれば、蔓から生じた無数の棘が、体の中で暴れ回るだろう。
蔓が枝分かれして、腹のアチコチ、鳩尾、喉から、所構わず、皮膚を突き破って出て来る。
急所を外され、すぐに絶命できないに違いない。
「これほど美しい贄がおろうかの」
千姫人形は喜悦に満ちた吐息をついた。
獲物が苦痛に身をくねらせるさまを、恍惚とした表情で見詰めている。
「一博」
オフクロが初めてオレと目を合わせた。
「すまない」
手にした桧扇がオレに差し伸べられる。
閉じられたままの桧扇の先端が額をピタリと指す。
表情の無いオフクロの頬が、光る珠でキラキラと光る。
こんなにも美しい人だったのか。
奇妙な嬉しさが去来する。
目を閉じることなく、シッカリと視線を交わした。
子宮に戻るのも悪くない。
マナザシで応諾を伝えた。
「大事な切り札を簡単に殺させるものか」
千姫人形の体が空中に浮かび、オレの前に立ちふさがった。
生き残りの島民人形たちもオフクロを取り巻く。
右往左往していた茂吉人形は視界から消えていた。
空気が震え始める。
千姫人形の、結い上げられていた髪がスルリと解ける。
黒髪が逆立ち、燐火のような青い光を放ち始めた。
頭上から、光の粒がチラチラと降りかかる。
夜光虫のほのかに蒼い光のように妖しくきらめく。
「フッ」
オフクロが桧扇を開き、暗い天空にかざす。
銀色の光が、チリチリと、鈴を鳴らすような音を立てて降り注いできた。
蒼い光と銀の光が、挑み合うように入り交じる。
愛する人を賭けての戦いが始まった。
目尻をけわしくつり上げたオフクロは妖怪じみていた。
異様な輝きを放つ瞳に殺気がこもる。
千姫人形の楚々とした細面が夜叉に変わる。
漆黒の虚空から光が舞い散る。
麗しい衣装を身にまとった二人の女は、神聖な舞を舞っているように見える。
夢のように麗しい光景だった。
だが、チリリと心臓を刺す感触があった。
敗北、破滅といった不吉な言霊が脳内に湧き上がる。
オフクロの、そして千姫人形の動きが止まった。
超常的能力を駆使しての死闘が始まる。
一切が動きを止めた。
生ある音はオレの鼓動のみになった。
そのときだった。
「やめなさい」
オヤジが静かに姿を現した。
表情は穏やかで凪いだ水面を思わせた。
「忠刻どの」
千姫人形は、優雅な声音でオヤジの名を呼んだ。
乱れに乱れていた漆黒の髪がもとの夜会巻きへと結い上げられる。
「バカな。どうしてここへ来られたのです」
オフクロが厳しい声音で問い掛ける。
「わたしが土蔵の中からお出ししました。もう、こうするしか策がありませんでした」
茂吉人形が、響きを失った声で答えた。
「千、よう分かった。一博を解放しなさい」
オヤジの声は名だたる古武士か剣豪のような威厳に満ちていた。
「で、では……」
千姫人形の声が震える。
フリではなく、真からくる歓喜の表出だと思えた。
「千、そなたの思いに応えようぞ」
「どういう意味ですか。忠刻さん、あなたは……」
オフクロの問いに、オヤジが応えることは無かった。
「千、土蔵に戻ろう。わしがそなたと再び巡り会うた場所で、わしはお前のものとなろう」
「まことですか、忠刻どの」
「嘘は申さぬ。真に愛しゅう思うておるのは千、そなた一人じゃ」
千姫人形が満足げに深々とうなずく。
誰よりも美しい笑みはこんなときにもまがい物じみていた。
完全な不完全――それはひとがた
人形の悲しみを見た気がした。
「おお、まさしく六月一日じゃ」
千姫人形は歌うように言った。
白い蕾がいっせいに花開く音がする。
闇の中、純白の花が夢のように浮かび上がる。
花々が輝きを放って目を射た。
香りで窒息しそうになる。
「や め て」
オフクロの声なき絶叫を背に、オヤジは屋敷へ向かい、千姫人形が寄り添うように従う。
長年連れ添った夫婦のように見えた。
オフクロはオヤジの後ろ姿を凝視しながらその場に立ち尽くす。
オヤジと千姫人形の姿が闇に紛れた。
茂吉人形の姿も見えなくなった。
蔓は絡みついたままだったが、鋭い棘も、体内で悪戯をしていた蔓も消え失せていた。
オフクロはそのまま動かない。
握りしめた拳がわななく。
どうのくらい経っただろう。
巻き付いていた蔓が、魔法が解けるようにスルリスルリと解けていく。
糸が切れた操り人形のように、クタクタと岩場に倒れ込んだが、定家葛が優しく受け止めてくれた。
両手をついたまま、起き上がれない。
「一博、お前って子は」
オフクロが険しい眼差しで見下ろす。
「親父と千姫人形は?」
問い掛けるオレに、
「土蔵に『納まった』から、これであなたはもう自由ですよ」
吐き捨てるように言った。
『床が納まる』という、何かで読んだ言葉が思い浮かんだ。
遊里で、酒宴の後に、客と女性が床につくという意味だ。
ヨロヨロと立ち上がって土蔵に向かおうとするオレを、オフクロが制した。
「一博さん、あなたはどれだけ親に迷惑を掛ければ気が済むのです」
眼差しが、オレを射すくめる。
オフクロは押し黙って、何かを待つように、ただ立ち尽くしている。
突然、人形たちが力を失って、地面にヘナヘナと倒れ込んだ。
足で蹴ってみても、もうピクリとも動かなかった。
蛇のようだった定家葛の蔓も、ただの蔓植物に戻っていた。
咲き誇っていた花も、クッタリと頭を垂れている。
あれほど息苦しかった香りも消え失せていた。
「すべて終わりましたね」
オフクロはゆっくり歩き出した。
土蔵へと向かう。
背筋を伸ばし、毅然とした歩みだった。
こんな歩き方をするオフクロをオヤジは見たことがあっただろうか。
感慨に似たものが湧いた。
体の外側も、内側も傷付いていたが、命に関わるほどのダメージは無かった。
痛みをこらえながら、オフクロの後を追った。
土蔵は深い海の底を思わせる闇の中にドップリと沈んでいた。
茂吉人形が、扉の前の石段に腰掛けている。
人形に戻ったように、身じろぎもしない。
オフクロの眉根がわずかに寄せられた。
「茂吉人形、シャンとなさい」
オフクロの叱咤で、茂吉人形はノロノロと顔を上げた。
「どうぞ」
ユルユルとした動作で、漆喰塗りの観音開き戸に手を掛けた。
重い響きとともに、右側の扉、続いて左側の扉を押し開く。
もったいぶった所作は、おごそかな儀式の始まりのようだった。
土蔵の中は静まり返って、不穏な空気は微塵も感じられなかったが、生の気配も無かった。
「オヤジ」
ライトで土蔵の奥を照らした。
光の輪の中に、古びたペルシャ絨毯が浮かび上がる。
その上に静かに横たわっている影があった。
呼吸を整えて近付く。
オヤジは胸を朱に染めて眠るように事切れていた。
自刃したオヤジの遺体を、千姫人形が乱れ無く横たえたらしい。
袋に納められた懐剣が傍らに置かれている。
「覚悟の自決です。立派なものです」
傷は一ヵ所
迷いの無い一突きだった。
芹沢や佐古田のときのような、まがまがしい気配は無かった。
「お気の毒なこった」
茂吉人形は、泣き出す前のような、笑うような、恥じ入るような、不思議な顔の歪め方をした。
オヤジの体に、千姫人形が取りすがっているように見えたが、ドレスの中は虚しく、顔や手足、提灯胴の名残さえ留めていなかった。
茂吉人形が、忠刻の血を吸った、ヒ素グリーンのドレスを大事そうに拾い上げ、腕の中に抱きしめながらピタリと動きを止めた。
「何もかもお前のせいです」
オフクロは、低い声でののしった。
長い沈黙の後、茂吉人形がゆっくりと顔を上げ、ニヤッと、嫌らしい笑みを返してきた。
笑みは茂吉人形でなく、千姫人形の生みの親、鈴木茂吉だろう。
「この化け物!」
触れないのに、茂吉人形の体が吹っ飛び、古びた長持に大きな音を立ててぶつかった。
茂吉人形の腕の中のドレスの裾が、残像のように視界の中で踊る。
オフクロは静かに遺体の脇に座った。
「どうしてわざわざこの懐剣で……」
忌まわしげに、懐剣をにらんだ。
オレは袋から出して鞘走らせた。
千姫人形が丁寧に拭き取ったらしく、光に透かして見ても曇り一つ無かった。
「ところで、水月さま、忠刻さまは、奥さまにコレを渡して欲しいとおっしゃっていました」
茂吉人形が、うやうやしく、封書を差し出した。
「何ですって。どうして先に渡さないのです」
オフクロがマナジリを上げた。
狐顔がさらに九尾の狐になった。
茂吉人形の手から封書をひったくる。
開封する手は小刻みに震えていた。
「ヘエ、まあ、愁嘆場が落ち着いてからと存じましてねえ」
茂吉人形は口の端を歪めた。
目が、触れればスッと切れそうな、ススキの葉のように細まった。
オフクロは遺書に目を走らせた。
読み進めるうちに、顔付きが柔らかに変化していく。
読み終えると封筒に収め、胸元にしまい込んだ。
読むかと問い掛けてこなかったし、読ませて欲しいとも言わなかった。
オレにはやっぱ、何も書き残してないんだな。
胸の中をフッと風が通り過ぎたが、わずかでも期待した自分の甘さに腹が立った。
「茂吉人形、これで終わったと思ったら大間違いですよ。これからまだまだしなければならないことがあるのですから。息をしない人形に戻ることは許しませんよ」
オフクロが静かに言明した。
茂吉人形の喉がコクリと大きく上下した。