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第27話 もう一度、因縁の定家葛島へと

 七月に入った。

 いつものように、自室のベッドで、安らぎの薄いまどろみから醒めた。 

 休暇が明けて第六係に出勤したものの、することも無く、休みがちである。


 一ヶ月前のあの夜、オヤジの遺体は八代病院に運ばれた。


『別荘内で心筋梗塞を起こして八代病院に搬送されたが、病院到着時にはすでに心肺停止しており、蘇生措置は功を奏さなかった』との死亡診断書が作成され、葬儀は遺言により、家族のみの密葬となった。 


 茂吉人形に命じて、オヤジの生人形を作らせると思ったが、オフクロ自ら、オヤジの死を公表したことでその可能性は消えた。



 捜査本部はさらに縮小され、中島理事官は捜査主任官を外された。


 日向は岩場からの転落事故で、いまもって行方不明とされ、ポストは空いたままだったが、今後、どのような扱いになるか、オレには分からない。


 オフクロから『絶対に退職してはなりません』と言明された。

 裏工作をして、警視庁内に新たなポストを模索中らしい。



 オレ自身、まだ先のことを考えられず、魂が抜けたように、ひと月を過ごした。



 オフクロは今まで以上に忙しく、全国各地を飛び回っている。

 後を追うのではと気掛かりだったが、そうではなさそうに思えてきた。

 オヤジの遺書に、オフクロをこの世につなぎ止める言葉が記されていたのだろう。

 懐剣は今まで通り、朝倉が屋敷の蔵で厳重に保管している。


 アレコレ考えながら、洗濯機にTシャツと下着や靴下、タオル類を放り込んだ。

 入居当時、日向が、洗剤の区別、漂白剤の使い方を説明しながら渡してくれたランドリーバスケットが、今になって役に立っていた。




 パラソルハンガーに、洗濯物を引っ掛けながら、ふと隣のベランダに目を向けた。


 日向の部屋はそのままになっている。

 たまには風くらい通してやろうという気になった。




 解錠し、ゆっくりと玄関ドアを開けた。

 靴を脱いで部屋に上がる。


 思ったよりヒンヤリしている。

 ゴクンと唾を飲み込んでから内側のドアをそっと開いた。


 部屋の中のすべてが時を止めていた。

『一博さん』と、柔らかい声が聞こえてきそうな気がした。


「何だ。留守か」

 声に出して言ってみた。


 室内は深海のように静かだった。

 オーデコロンの残り香も消えている。


 人がいなくなるってこういうことか。

 けど、留守でよかった。

 生人形になった日向がジッと座っているなんて、ゾッとする。


 日向の生人形が作られたとしても、茂吉と茂吉人形のように、本人と生人形は似て非なるものだ。

 オフクロがオヤジを生人形として復活させなかった気持ちが、痛いほど分かった。


 ハハッと、乾いた笑い声が喉から漏れ出した。


「アレッ」

 カバーがピシリとかけられたベッドの上に、あの額縁だけが、放り出されたようにポツンと残されている。 

 オレの失踪に気付いた日向が、慌てて部屋を飛び出す姿が思い浮かんだ。


 無惨で、この上なく美しい光景が頭を離れない。 


 額縁の中の谷汲観音像が、ニヤリと隠微な笑みを浮かべた気がして目を瞬かせた。




 今日でちょうどひと月。


 オレは、定家葛島に向かう気になった。








 港に降り立ったのは、十六時半過ぎだった。

 目ざとく見つけてくれた船長の案内で、予約してあった釣り船に乗り込む。

 海は今日も紺碧に輝いて心を慰めてくれるが、この前のような期待感も高揚感も無かった。



 また来ちまったと思いながら、ヒッソリとした桟橋に立った。

 一ヶ月前と同じ光景が広がっていたが、定家葛は勢いを無くしていた。

 立ち枯れた場所も多く、狂ったように咲き誇っていた白い花は一つも無かった。

 そのうち絶滅して、島の名前を変えなければならないかも知れない。


 港に人影は無く、漁具が虚しく散乱していた。


 クネクネした細い道をたどる。

 夏草が生い茂った畑では、作物が雑草に埋もれていた。


 茂吉人形はどうしているだろう。

 土蔵の中で微動だにせず正座している姿が思い浮かんだ。


 今度こそ、歴史上の千姫と同じ心を持つ生人形を作りたいと、新たな人形を作っているのではないか。



 生人形は人とは異なる。

 一ヶ月前の、不敵な表情を思い起こすと、背筋を冷たいものが駈け上った。

 土蔵に新たな千姫人形が眠っていて、オレを見て動き出すさまを思い描いた。



 岩場に着いた。

 日差しが容赦なく襲って来る。


 定家葛はすっかり枯れ草になっていた。

 カサカサ音をさせながら、一歩、一歩、踏みしめて岩場の先端に向かった。


 足下に荒々しく波が打ち寄せる。

 波音だけが聞こえるすべてだった。

 白い薔薇の花束を放り投げた。

 花束が深い色をした海に呑み込まれる。


 日向の最後が目に浮かんだ。

 なぜあんなに奇麗だったのだろう。

 血の臭いも感じなかった。


 臭いといえば……日向は体臭が無く、いつもオーデコロンの香りだけがした。

 出会った頃はオーデコロンの匂いすらしなかった。


 香りを懸命に思い出そうとした。

 あまりに密やかだったから、今の今まで結びつかなかったが……。


「エ?」

 ほのかな香りが背後から近付いてくる。


 心臓が一瞬止まり、次いで鼓動が激しく打ち始めた。


 振り向けない。

 振り向かなくても分かる。


「一博さん、お久しぶりです」

 柔らかな声音が耳に響く。

 香りが確かなものとなって鼻をくすぐる。


「日向、お前、まさか……」

 あの日のまま、白いタートルネックに黒いスーツ姿の男が目の前にいた。


「もともと生人形でしたから、作り直してもらいました。茂吉師にね」


 違和感を覚えた『師』呼びの理由も氷解した。

 生みの親だから、呼び捨てにできず、師を付けていたのだ。


「完璧に生身の人間を演じていたつもりでも、ちょっとした齟齬がありましたよね。大学時代から掛けていた伊達メガネのレンズを、強い度数に変えたのも、わたしの瞳の奥の空虚さをあなたに気付かれたくなかったからです」

 日向は悪戯っぽく笑った。


 心に染み入る笑みだった。


「ここは暑過ぎる」


「じゃあ、お屋敷のほうに行きましょう」



 連れ立って、別荘への近道をたどった。

 砂地には、定家葛の代わりに、小待宵草が可憐な黄色い花を咲かせている。


「スッカリ夏だな」

 全く汗をかいていない日向と目を合わせた。


「ウッカリ気を抜いていると、汗をかくのを忘れるんですよね。シッカリ、フリをしなきゃ」

 愉快そうに笑う日向の生え際から、光る汗の玉がジンワリと生じた。


「オレの前では小芝居は要らないだろ」


「それもそうですね」

 たちまち日向の顔が涼しげに戻った。




 土蔵の前まで来た。

 扉は閉ざされていたが、鍵は掛かっていなかった。


 どちらともなく立ち止まり、土蔵の階に並んで腰を下ろした。

 体が触れない程度の距離を置く。


「二十三歳でお父さまに出会ったとき、谷汲観音像を、理想の女性像として見ていたのではなかったとハッキリ気付きました」

 日向はポツリポツリと自分語りを始めた。


 ――忠刻のもとに配置されたときは目を疑った。


 忠刻は四十歳を過ぎていたが、肌の張りや皺の少なさ、体の動きなど、異様なほど若々しく、一方で、年齢以上の貫禄と威圧感が感じられた。

 若さという点で、谷汲観音像に劣っていたが、補って余りある魅力があった。

 一目惚れという言葉が初めて現実味を帯びて認識された瞬間だった。


 だが……。

 水月から電話が掛かると、忠刻の威厳に満ちた顔が突然変化した。

 キリリとした眉も目尻も、ダラリと下がった。

 恋情は心に秘めるしかなかった。 


 忠刻は日向の献身と誠実さを買って重用してくれた。

 忠刻の期待に最大限応えることが、日向にできるすべてだった。


 五年前のその夜、日付が変わるまで資料整理をしていた忠刻を、屋敷に送るため、公用車のハンドルを握っていた。

 忠刻は、連日のハードワークのため、後部座席でウツラウツラしていた。

 安全運転を心掛けて、いつもの経路で帰っているつもりだったが……。


 一瞬、意識が途絶え、気付くと、吹上峠の廃道だった。


 トンネルの奥から、白無垢姿の若い女が姿を現した。

 それが千姫人形との出会いだった。


 果敢に戦ったがかなうはずもない。


「忠刻どの、わらわと参りましょうぞ」

 女が忠刻の腕をつかんで、ズルズル引いていこうとする。


 どうあっても忠刻さんを守る。

 特殊警棒による渾身の一撃が、千姫人形の額を割った。


 女の額から血が流れ出た。

 毒々しい赤さには、奇妙なあざとさがあった――


「つまりその血は、わたしたちの錯覚でしたが」

 日向は苦笑しながら注釈を加えた。


「千姫人形が、『蟷螂の斧』と言ったのは、日向の反撃のことだったのか」


「身の程をわきまえない行いというわけですね」

 日向がまるで他人事のようにうなずく。


「で、日向はそのときに……」 

 オレの言葉に、日向はさらなる顛末を語った。


 ――体が下部から燃えて骨になっていく。


「日向―ッ!」

 忠刻の絶叫が耳に響く。


 歯を食いしばって懸命に声を押し殺した。

 大切なひとに『貸し』を作りたくなかった――


「……というわけで、全くもって酷い目に遭いましたよ」

 日向人形は他人事のように話を締めくくった。


「それで?」

 滑らかな日向の顔を見詰めた。


「この先は、後になってうかがった話ですが……」  

 日向は淡々と話の続きを始めた。


 ――忠刻は強い衝撃を受けた。

 理に基づかない不可思議を知った衝撃は、今までの誇りと信念を完全に覆した。


 次は我が身と諦念を抱いたときだった。

 きつくつかまれていた腕が、突然、自由になった。

 よろめいて定家葛の海に膝をつく。

 ぼやけた視界に、クルリと背を向ける女の姿が映った。


「このように醜い顔になったからには、忠刻どののお情けはいただけぬ。ほんに口惜しや」

 女は、トンネルに向かって静々と歩き始めた。


 しだいにおぼろげになり、語り終える頃には、純白の光を放っていた姿は闇に溶け込んでいた。




 水月に連絡を入れた。

 ハッと息を呑むさまがスマホを通して伝わってきた。


 到着した水月は、遺体を切断して、ポリ袋にパッキングし、大型のキャリーケースに詰めると、自分の車のトランクに収めた。

 焼けた地面だけが残ったが、それも入念に消し去った。




 水月の提案で、次のようなシナリオが作られた。


 ーー日向警部が突然、体調を崩して運転不能に陥ったため、忠刻自ら運転して、練馬協同総合病院へ緊急入院させた。


 容体は落ち着いたが、根本的な治療を要することが判明し、土御門家の紹介で、熊本県の八代病院へ転院させたーーと。


 忠刻は、練馬協同総合病院に立ち寄って、アリバイ工作をしてから自由が丘の屋敷に戻り、水月は夜を徹して車を走らせ、熊本に向かった。


 水月は、島に逼塞していた茂吉人形に、日向の生人形を作るよう命じた。

 ただの生人形ではなく、日向の遺骨と遺灰を取り込んだ生人形を作るようにと。


 再び生を得た日向は、忠刻の懐刀として復職した。




 しばらくはまた平穏な日々が続いた。

 水月、忠刻、日向人形が協力し合って千姫人形を追ったが、行方はようとして知れないままだった――


「千姫人形が、なぜ現れなかったかというと、茂吉師人形が割れた顔の修復を拒んだからです。ですが、茂吉師人形も、情に負けてとうとう修復してやった、という経緯だと思います。二〇一九年六月、狂った内容の手紙がご両親のもとに届き、ご両親から、何が何でも一博さんを手元に置きたいと言われて策を練りました。わたしも、一博さんを、自分のような目に遭わせたくなかったので」

 日向の言葉に黙ってうなずいた。





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