翌日、ホームルームも終わったばかりの教室は適度にざわついていた。
渚が窓際の自席で帰り支度をする。休み時間に読むために持って来た、図書館で借りたミステリを教科書とともに仕舞うのを見たらしい隣の席のクラスメイトが声を掛けてきた。
「渚っていっつも本読んでるよね。飽きない?」
そんな軽い言葉にも渚は光の点滅で小さな嘘を感じる。本当は渚の言動に興味などないのに、話を合わせようとしているのが伝わるからだ。
とはいえ彼女に悪意がないくらいはもちろんわかるので、笑顔で「うん、好きだから」と答えて、一足先に帰る彼女と別れの挨拶を交わす。
しかし渚の心はすでに別の場所にあった。
昨夜の古書。その重み、革の装丁の滑らかな手触り、破られたページをなぞった指先の感触が頭から離れない。ページの破れ目は、まるで誰かの爪痕のようだった。
その日の帰宅後、大地が海を訪ねて来た。
渚が玄関を開けると、彼がいつもの穏やかな笑顔で立っていたのだ。眼鏡の奥の瞳が、夕陽に照らされて柔らかく光る。
「お兄ちゃんはまだ帰ってないよ。今日はデートだって。聞いてなかった?」
「あ、今日だっけ。聞いた気はするけど忘れてたよ」
大地は軽く頭を掻き、照れ笑いを浮かべた。ストライプのシャツに銀縁の眼鏡がよく似合う彼。
客観的には兄の海のほうが「長身イケメン」でハイスペックなのかもしれないが、渚は穏やかで知的な大地の魅力にもきちんと気づいているつもりでいた。
兄は所謂「遊び人」になるのだろうか。
詳しくは聞かされていないし訊いたこともないが、おそらくは告白されたら決まった相手がいない限り受け入れる。しかし相手に特別な想いはないため合わせることもせず、結局はすぐに振られてしまう、らしい。
「家に行きたい」とせがまれたらすぐに連れて来るため、渚も片手では到底足りない「兄の恋人」と顔を合わせたことがあった。渚は友達と遊びに行ったり寄り道したりをしないため、図書館に行かない日はずっと家にいるからだ。
彼女たちに共通しているのは、「妹と仲が良すぎる。おかしい」ということのようだ。それは仕方がないと渚は思っている。なにせ数少ない限られた「仲間」なのだから。
実際に、リビングや兄の部屋で「シスコンかよ! 気持ち悪い!」と罵られているのも部屋にいて何度か聴いたことがあった。
渚は手持ち無沙汰そうな大地を誘って、月ヶ瀬川沿いの公園に向かうことにする。制服から着替える間だけ待っていて、と頼むと、大地は笑みを浮かべて頷いた。
川面には夕陽が映り、遠くの橋を渡る自転車のベルが響いて来る。
ベンチに並んで座ると、渚はトートバッグから例の古びた革張りの本を取り出した。
「大地くん。私昨日変な本見つけたんだ。図書館で借りた本に混ざってたんだけど、絶対借りてないのに。なんかね、物語が途中で切れてて、……普通じゃない気がする」
大地は渚から本を受け取り、表紙を撫でた。眼鏡の奥の瞳が興味深そうに光る。風が彼の前髪を揺らし、シャツの裾が軽くはためいた。
「へえ、不思議だけど面白そうだね。どんな話なのかな?」
渚は少し緊張しながら説明した。
「ミステリーっぽいんだけど、
聞き終えた大地は本のページを捲り始めた。
手書きの文字をじっと見つめ、指先で紙の質感を確かめている。インクの滲みが、まるで古い記憶を閉じ込めているようだ。
「手書きか。読み易い丁寧な字だね。インクの匂いが残ってそうな気もするくらいだよ。渚ちゃんはミステリ好きだから、こういうの燃えるんじゃないの?」
「『
渚は笑って答える。
彼との会話は常に彼女の心が軽くなる時間だった。大地の言葉には嘘がない。まるで澄んだ水のように渚の心を洗ってくれるかのようだ。
「意味がわからないのは本当に同感だよ。手書きの本にこの装丁ってまず考えられないと思うんだけど」
「そうだよね。なんかこの本を読んでると、誰かに見られてる気がするんだ。──馬鹿みたいだけど」
大地は一瞬手を止め、渚を見た。夕陽が彼の眼鏡に反射して表情が読み取れない。
「馬鹿なんかじゃない。渚ちゃんは読書家だし『経験則』ってあるからさ。貸してくれるなら僕も読んでみるよ」
渚は少し照れながら承諾した。
大地は渚と同じく読書好きだ。兄の海が漫画程度しか読まないのに対し、大地は国内外を問わずミステリやファンタジーを好む。
自宅で海の友人である彼と話すうちに、互いに読書好きだと知った。好みの傾向も多少は似ていて、渚にとって大地は「本の話」ができる数少ない相手なのだ。 そして、それとは別に大地は渚にとって特別な存在だった
嘘のない言葉、静かな笑顔、本のページをめくる細い指先。渚はそんな大地に、仄かな恋心を抱いている自分に気づいていた。だが、それを口にするつもりはない。今のこの関係を壊したくないから。
「力」のことを知られるわけにはいかない。だから渚は、誰とも深入りしない人間関係しか築けていなかった。
そういう意味でも海と大地の関係は渚の憧れだった。「何でも話せる」わけではなくとも、心の深い部分で繋がっているかのような二人。渚は、いつか自分も誰かとそんな絆を結びたいと思っていた。実現するとは自分でも信じられない夢のような話なのだが。
「じゃあ読んだら感想教えてね。大地くんに話してよかった。怖かったのがワクワクしてきたよ」
大地が笑顔で頷いたその時、本の閉じたページの間から何かがするりと落ちた。
渚が拾い上げた紙片には「月ヶ瀬中央の影に、真実の断片あり」の文字に、イニシャルらしい「M.S.」の文字が記され微かに光っている。紙もインクの跡も古びていて、古書の手書きの文字と同時代に書かれたものなのだろうことがわかった。
昨夜確かめた時にはなかったはずの紙片。
「え、なにこれ!? 昨夜全部確認したのに、絶対こんなのなかった! そう、昨日この本見つけた時も光ってたんだよ」
目の前のメモとは違い、頭の中にいつもの光は感じない。嘘のない強い意図を感じた。
──誰か、……私の、物語を……
不鮮明な文字が渚の頭に浮かんだかと思うと、そのまま消える。
「嘘」で走る光とはまったく違う、文字というもの。こんな現象は初めてだった。
大地が紙片を手に目を丸くしている。
「光ってる、ってことはただの古い本や紙切れじゃないな。『月ヶ瀬中央』ってたぶん中央図書館のことじゃないかな。これは誰かが残したメッセージだ。明日にでも調べに行こう」
渚は頷く。恐怖と好奇心が交錯し、心が熱くなる。
「光」は大地も見ているから構わないが、頭に描かれた文字については告げられなかった。「能力」が呼ぶものだとしたら危な過ぎるからだ。
「海にも教えようか? あいつ本は読まないけど、こういう謎は好きそうだから」
渚は少し迷った。海ならこの本の違和感に気づくかもしれない。彼の力は渚と同じく嘘を見抜く。
けれど、今は大地と二人で秘密を共有したかった。
「うん。一応知らせるのはいいと思う。でも、まず大地くんが読んでよ」
「わかった。じゃあちょっと伝えとく」
大地がスマートフォンで海にメッセージを送ると、すぐに既読が付き返信が浮かんだようだ。大地が見せてくれたスマートフォンのディスプレイのトークルームには、兄の《どんな本? なんか面白そうなことやってんな。》というメッセージとワクワク気分を示すスタンプ。
「正直お兄ちゃんは小説なんて興味ないから『へー』で流すと思ってたよ」
「『ただの小説』ならそうだろうね。でもこれは全然違うだろ?」
渚の台詞に、もう光を帯びてはいないメモを手にした大地が笑って答えた。
その夜、渚は自分の部屋で別の本を読みながらふと思った。あの古書が月ヶ瀬市に漂う奇妙な空気と関係しているのかもしれない。
最近、街の人々は覇気を失い、友達もどこか元気がない。まるで、見えない暗い
窓の外、夜空に一つの星が異様に明るく輝いている。渚は目を細め、その光を見つめた。
見ているのは渚のはずなのに、逆に誰かに見られているようだった。