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【第四章:作家が遺したもの】

 渚は海に、本と図書館のことを詳しく説明した。

 古書を見つけた経緯、途切れた物語、挟まれていたメモ、ケースの記事。

 おそらく兄が惹かれたのは本よりもメモだろう。海も同じ結論を出して中央図書館ここに来たのはすぐに見当がついた。おそらく館内をざっと一回りして二人の姿がなかったため、館内案内図を見て資料室にやって来たのではないか。

 海は古びた本を手に取り、ページを捲る。長い指が破られた紙の端をなぞり、瞳が手書きの文字を追っていた。

 薄暗い資料室の光が、彼の顔に深い影を刻む。渚は兄の反応を見守った。海の力は渚と同じく嘘を見抜く。この部屋の違和感に気づくはずだ。

 なのに、海の態度はどこかよそよそしい。いつもなら軽口を叩く彼が、妙に静かなのが違和感を加速させた。

「海、どうかした? なんか変だよ」

 大地の言葉に、海は笑顔を浮かべた。

 だが、その笑顔はどこかぎこちない。兄の瞳がいつもより鋭く感じられた。

「別に何も? で、何? この本が何か変だって?」

 渚の頭に鋭い閃光が走った。

 海の言葉に嘘がある。兄が自分に嘘を吐いた。初めての経験に、彼女は言葉を失う。

 そして同じ力を持つはずの海が何も感じないだなんて。

「海、なんか知ってるだろ? この本のこと」

「知らないよ。ただ、昔この図書館で火事があったって話なら大学の先輩から聞いたことある。作家が死んだとか、ちょっと怖い話としてさ」

 口を噤んだままの渚の代わりの如く大地が静かに口にするのに、海は一瞬目を逸らしたがすぐに答えた。肩を竦め、いつもの軽い口調に戻っている。

 渚は兄の横顔を見つめた。

 火事の話は本当かもしれない。だが、なぜ海は嘘を吐いたのか。彼女の力は兄の言葉の裏に隠された何かを感じるが、答えには届かない。海の瞳はいつもより深く、どこか遠い場所を見ているようだった。

 まるで、本の向こうに何かを見ているように。

「お兄ちゃん、一緒に調べてよ。三人なら、もっとわかるかもしれない」

 妹に請われ、海は少し迷った様子を見せた。指先で本の背を叩き、軽く息を吐く。

「……いいよ。どうせお前たちは気になって諦めないんだろ? やるならちゃんとやろう」

 三人は机に本を広げ、物語を読み直した。渚と海は文章に隠された嘘を探し、大地は「推理する」ためにストーリーを追っているようだ。

 渚は大地の横に座り、彼の落ち着いた表情に安心を覚えた。ページをめくる大地の指先、眼鏡に映る光。改めて、自分の心が大地に傾いていることに気づき、頬が熱くなる。海は大地の向こう側の椅子に座っていた。

 その時、唐突に大地がページを捲る手が止まる。まるで、本の中に何かを見たように。

「この物語は誰かが故意に壊したんだ」

 そこに海が被せるように言った。大地が本から目を離し、渚は驚いて兄を見た。

「壊した? まあ『破る』のは『壊す』とも言えるけど……」

 海が言葉を選ぶように話し出す。視線は机の上の本に固定されていた。

「この小説のページが破られたのは偶然じゃない。作家が書いた真実を、誰かが隠したんだ。彼女が死んだのもただの火事じゃない」

 渚は息を呑んだ。

「どうしてそんなことがわかるの?」

 妹の問いに、海は笑顔に戻った。しかし、その笑顔はどこか無理やりだ。

「ああ、……ただの勘だよ。気にしなくていい」

 光が瞬く。また嘘だ。

 渚の心が締め付けられた。海が隠しているもの。それはこの本や図書館と直接関係があるのか。それとも、もっと個人的な何か?

 彼女は海の瞳を見たが、彼はすぐに視線を逸らしてしまう。

「海、ちょっと変だよ。いつもと違う」

 大地の声掛けにも海は親友の肩を叩き、軽く笑って誤魔化した。

「変じゃないって。もう暗くなってきたし、そろそろ出よう」

「待ってよ、もう少し!

 渚の言葉に、海は仕方なさそうに頷いた。

 兄の嘘は彼女の心に小さな亀裂を生んでしまったが、今は本の謎を解くことが優先だ。渚は揺れる気持ちを抑え、本に目を戻した。

 資料室の窓から差し込む夕陽が、破られたページを朱く照らしていた。

 渚はスマートフォンを取り出してネットで検索してみたが、この記事に関するものは一切ヒットしなかった。ただそれは「古過ぎるから」かもしれない。インターネットが一般に普及する前の出来事なのだから。

 渚の力は記事の裏に隠された嘘を感じ取る。誰かが火事の真相を隠したかったのだ。しかし、「嘘だ」ということは見抜けても、事実はわからない。

 自らの中途半端な力に苛立ちが募る。

 大地はケースの中の別の資料、──作家の遺したノートを手に取った。黄ばんだ紙に、細かな文字が並ぶ。

「これ、どうやら作家の日記みたいだね。こっちも最後の数ページが破られてる」

 渚は大地の手のノートを覗き込んだ。破られたページの前には、作家の焦燥が綴られている。

 「彼は約束を破った」「私の物語を奪おうとしている」「月ヶ瀬の真実を、誰も知ってはいけない」

 渚の胸に違和感が湧いた。

 この文章には嘘がない。瀬野という作家は真の恐怖を感じていたのだ。なのになぜ、この日記がケースに残されているのか。秘密を守るならこんなものを置いておくのは不自然だ。


 渚の力は日記の文字に漂う偽りのない恐怖と、ケース全体の「見せかけの透明性」を同時に捉えていた。


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