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【第五章:能力の兆し】

「大地くん、この『彼』って誰なのかな。火事と関係あるの?」

 大地は日記を手に、じっと見つめた。指先が紙の端をなぞり、微かに震える。

「──わからない。でも、この日記、なんかね。読んでると、頭がクラクラする」

 渚は大地の言葉にハッとした。

 彼の「重い」という感覚は、渚の「違和感」と似ている。もしかして、大地も何かを感じ取っている?

 けれど、渚はそれを口にはできなかった。兄の嘘が彼女の心を縛っている。そしてもし大地にも秘密があるのなら、渚はそれを暴く勇気を持てない。自分のことを打ち明けられないのに、他人の詮索など到底できなかった。

 渚がそっと兄の表情を窺うと、笑顔の裏に隠された緊張が伝わって来た。

 今の兄に嘘はない。だが、先程の嘘がまだ心引っ掛かっている。

 作家の物語は月ヶ瀬市の過去に隠された事件を暴こうとしていたらしいが、核心部分は破られ真相は闇の中だ。

「瀬野って作家はこの小説で月ヶ瀬の裏の何かを暴くつもりだった。それを誰かが止めたんじゃないか?」

 渚と大地は、そう口にした海を見た。

「お兄ちゃん、それどうやってわかったの? ただの勘?」

 尋ねたあとで、渚は大地の前で不用意なことを訊いてしまった、と気づく。しかし大地は不審は覚えなかったらしい。

 海は一瞬黙り、笑顔に戻った。

「そうだよ。勘。でも、確信があるんだ」

 海の言葉には嘘がない。なのに、兄の確信の強さが彼女を不安にさせた。海の力は渚と同じはずなのに、なぜこんなに鋭いのか。

 兄は何かを見ている。渚が見えないものを。

「海、君はなんか知ってるよね。この本のこと、図書館のこと」

 大地が静かに言うのに、海は笑って手を振った。

「知らないって。お前、考えすぎだよ。ほら続きを調べようぜ」

 渚はまた海を横目で見る。兄の態度はいつも通りだが、彼女の心には新たな疑問が生まれていた。

 海はなぜ物語の裏を見抜けるのか。そして、大地の「重い」という感覚は本当にただの勘なのか。

 資料室の空気は、まるで水の底のように重苦しく暗かった。

 渚は古書を手にページを捲り直す。手書きの文字が薄暗い光の中で揺れているように見えた。

 作家が追い求めた「月ヶ瀬の真実」とは何なのか。なぜ彼女は命を落としたのか。

 そして、なぜこのケースに、わざとらしいまでに曖昧な資料が残されているのか……。

 大地は作家の日記のノートを手に、黙々と読み進めていた。眼鏡の奥の瞳がどこか遠くを見ている気がする。

 指先がページの端をなぞるたび、微かに震えるのが渚の目には気になった。

 彼は何かを感じている。渚の「違和感」と似た、何か。

 けれど渚は、決してそれを口にできなかった。海の嘘が彼女の心を縛っている。大地にも秘密があるならそれを暴くのは怖い。今の関係を壊したくないから。

 海はスクラップブックの火事の記事を読んでいるようだ。長い指が紙の端を叩き、時折視線が宙を彷徨う。

 渚は兄の横顔にそっと目をやった。いつもなら軽い冗談で場を和ませる彼が、今日は妙に静かだ。

 まるで隠された何かの向こうを見ているように。渚の力は今の海に嘘がないことを告げていた。だが昨日の兄の嘘が、彼女の心に影を落としている。

「ねえ、お兄ちゃん。この日記の『彼』って、誰だと思う?」

 海は一瞬手を止め、渚を見た。瞳がどこか深く、暗い。

「さあな。作家の知り合いか、編集者か。どっちにしろ近い人間だろ。関わりのない人間についてこんなふうに書くはずないんだから」

 渚はハッとした。海の言葉にはいつもと違う重みがあったからだ。

 海が「『彼』は近い人間だろう」と言ったとき、瞳に一筋の悲しみが過ったのを見た気がするのだ。まるで、彼自身が同じ体験をしたかのように。

 渚は「能力者」としての異質さで、近しい人間に忌避される恐怖と可能性は常に持っている。兄も同じだと思っていたが、もしかしたら未来ではなく過去か現在に「力」に関して何かあったのだろうか。

 実際に、今の海の言葉には嘘を感じなかった。なのにその言葉の裏に何かが隠れている気がする。

 大地が突然、音を立ててノートを閉じた。顔が僅かに青褪めている。

「──ごめん、ちょっと無理だ」

 大地は震える手で眼鏡を外し、もう一方の手で額を押さえた。声が小さくなる。そのとき、彼の目はどこか今ではない「別の何か」を見ているように見えた。

「大地。お前、疲れてんじゃね? いいからちょっと休めよ」

 海のその言葉に渚は違和感を覚えた。兄の声は優しいが、どこか探るような響きがある。彼女の力は嘘を捉えなかった。ただ海は大地の言葉に何かを感じ取ったのだ、と渚は確信した。

 兄は、渚以上の力も持っているのだろうか。ただの勘だとは思えなかった。

「うん。ちょっと休むよ」

 大地は頷くと、椅子の背に身体を預け大きく息を吐いた。だが彼の手はまだノートを握り締めている。

 渚も古書を手に深呼吸した。

 この本やノートは自分たちを試している。理屈ではなくそう感じたのだ。

 嘘を見抜く力、隠された真実、裏切られた作家。すべてが、月ヶ瀬市の闇に繋がっている。


 けれど、その闇の深さは渚の想像を超えていた。




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