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【第六章:導かれる先】

 その夜、渚は自分の部屋で古びた本を広げて微動だにできなかった。

 机の上のスタンドライトが、本に柔らかな光を投げ掛けている。カーテンの隙間から夜の空気が忍び込む気がした。窓は閉まっているからそんなはずもないのに。

 渚は部屋で古書を広げ、微動だにできなかった。スタンドライトが破れ目を照らす。

 図書館での出来事が心に重く圧し掛かっている。海の嘘が重い。

 渚は目を閉じ、今日の資料室での海の姿を思い出す。本に触れる彼の手はいつもより硬く、まるで何かと戦っているようだった。

 兄は何かを感じ取っている。渚と同じように嘘を見抜く力を働かせているのだ。それをなぜ妹に隠す必要があるというのか。

 渚自身もこの本を読むたびに光が強くなり、嘘の輪郭が鮮明になるのを感じていた。

 兄は何か知っている。過去に、力に関係する何かがあったのか?

「お兄ちゃん、なんで…?」

 「嘘は吐かない」が二人の不文律だったのに。

 渚は本の後ろの方を開くと、破られた紙の端を撫でた。刃物で切ったわけではない、手で乱暴にちぎったのだろう雑な破れ目が指先にざらりと触れる。

 いきなり、手に持った本の閉じているページの間から何かが滑り落ちた。淡く光を纏う紙片。

 昨日はもちろん、今日も三人で散々調べたがこんなものはなかった。絶対に。

 この本を初めて見た時も、一枚目のメモが出現した時も同じだ。突然何もないところから現れて、渚たちの思考をどこかへ連れて行こうとする。

 「川の底に隠された」

 やはり紙もインクも古いものだ。末尾には同じく「M.S.」。……瀬野 聖月。

 破れ目から光が漏れ、「裏切り」の文字が立ち上って揺らめき、消えた。能力の光は発動せず、嘘のない強い意図を感じる。次いで頭に「裏切り」の文字が浮かんだ。

 ──私が綴った物語を取り戻して。

 さらに続く文字。

「瀬野先生……? 私たちに遺志を継いで欲しいの?」

 未完の物語が彼女の心に動揺を呼んだ。

 この物語が街の異変を引き起こしているなら、完成させなければいけない。

 それなのに海の嘘が渚の決意を揺さぶっていた。

 ページを繰るたびに文章の裏に隠された意図が、まるで靄が晴れるように見えてくる。その靄の向こうにはまだ見えない何かがあるのもわかる気がする。渚の力では、届かない何か。

 兄はなぜ真実を隠すのか。

 彼の力は渚と同じはずなのに、何か「掴んだ」のなら、どうして共有してくれないのだろう。

 もちろんあの場で何も言えなかったのはわかる。「部外者」の大地がいたのだから。けれど二人になってからも「嘘臭い」笑みを浮かべる兄が、まるで見知らぬ別の生き物のようだった。

 大地の「重い」という呟き。

 彼もまた、何かを感じているのかもしれない。

 それでも彼女は信じていた。大地の言葉にはいつも嘘はなく、代わりに深い確信がある。誰よりも信頼していた兄の「裏切り」を埋めて余りあるものを与えてくれる人。

 まるで普通の人間が見えないものを見ているかのような大地。図書館で彼がケースの記事を触ったとき、微かに震えた指先。作家の写真を見たときの、どこか遠い目。あれは何だったのか、気にならないと言ったらそれこそ「嘘」だ。

 一息入れて、渚はスマートフォンに手を伸ばした。大地に電話を掛けるためだ。

「大地くん、川の底に何かあるって。明日調べに行かない?」

 今あったことを説明する渚に応える大地の声は穏やかだが、ほんの少しだけ暗いものが混じる。

『うん、行こう。何かはわからないけど、「何か」が動いてるのは間違いないんだ』

 渚はベッドに寝転がり、革装の古書を胸に抱いた。物語の断片が頭の中で渦を巻く。

 月ヶ瀬市の秘密、亡くなった作家、破られたページ。

 この本は、渚たちをどこに導こうとしているのか。そして、海の嘘は、どんな真実を隠しているのか。


 渚の瞼が重くなり意識が薄れる中、窓の外の星が異様に明るく輝いていた。




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