俺が目にしたのは、漆黒の武者鎧に身を包んだ、一人の女性。
後ろ姿だけで女性だと思ったのはその髪だ。
長く伸ばした髪を、紺色のリボンでまとめている。
黒竜の咆哮が響く中、その人は朗々と何かを呟き始めている。
「……武士道と云ふは、死ぬ事と見付たり」
その語りは、竜の咆哮が轟く中でも不思議とハッキリと聞こえた。
「……朝に死を思ひ、夕に死を思ふ。死を思ふは、常住の事也」
鞘から引き抜かれた刀身が月光を受けて青白く輝く。
二刀を抜き放った彼女は、腕を下ろして脱力をする。
「……仇を討つは、武士の義なり。父の怨みを子が果たし、子の無念を母が雪ぐ」
そう言い放った瞬間、彼女から急激に力を感じた。フォースにも似た、巨大なエネルギーが彼女を包み始めている。
「……大願成就の為に身を捨つること。即ち、是れ武士の本懐也」
語り終えた瞬間、一気に閃光が走り、衝撃波が俺の体を貫いた。
思わず目を閉じてしまったが、俺の耳には、一瞬だけ剣が交差したかのような音が聞こえた。
気づけば彼女は消えていた。残ったのは揺らめく空気と、焦げたような匂いだけ。
辺り一帯に響き渡っていた咆哮も止み、突然の静寂に、自分の心臓の音だけが耳に響く。
見上げてみれば、黒竜は微動だにせず、立ち尽くしている。その巨体は月明かりに照らされ、まるで黒い山のようだが、何か違和感を覚える。
不意に強風が吹いた。その瞬間、黒竜の首はゆっくりと横にずれていき、再び辺り一帯に血の雨を降らす。熱い液体が俺の顔や体を叩き、金属のような臭いが鼻腔を刺激する。
落ちてきた首が、俺の方に転がってきた。
地面を揺るがす鈍い音を立てながら、その巨大な頭部は俺の目の前で止まった。
その赤い瞳が、恨めしそうに俺を見ている。
瞳孔が収縮と拡張を繰り返し、まだ意識があることを示していた。竜の息が熱く俺の顔を撫でる。
「……お前は一体何者だ? 人の姿をした魔性の者か?」
消え去った彼女はいつしか俺の傍に立っていた。何の気配も感じることなく現れた彼女の存在に、背筋が凍りつく。
彼女の顔を仰ぎ見て、俺は心の底から恐怖を感じた。
傍目には普通の女性だ。年は母さんと同じくらいのようで、髪を茶色に染め、武者鎧など着ていなければごくごく普通の主婦にも見える。
だがその目には、何の感情も浮かんでいない。単に無感情などとは言えない、どこか空恐ろしい何かが彼女の瞳には潜んでいる。生気の欠片もない、まるで死者の目のようだった。その瞳に映る自分の姿に、言いようのない恐怖を覚える。
この時、俺は彼女の正体を悟った。
……探索者の最高峰、Sランク探索者。
その中でも剣士としては最強の呼び声も高い、唯一の女性Sランク。
「……斉藤葵、通称……人斬りか」
「お前からは魔素を感じない。だがお前は魔法のような力を使っていたな。……人に化ける魔物の類か?」
彼女は俺の喉元に刀の切っ先を向けてくる。
……この人物の噂は色々聞いている。魔物に対して一切の妥協をせず、政府の干渉も跳ねのけて我が道を行く人物だ。
俺を危険な何かだと見做せば、容赦なく俺を殺すだろう。
正直に話せばわかってくれるだろうか? ……それとも?
「……まあいい。どのみちその傷では長く持つまい。私は回復魔法は使えん。許せ。せめて介錯はしてやる」
彼女の言葉で初めて、自信の傷の深さに気づく。
腕に目をやれば、黒竜の火にやられたのか、肌が焼けただれていた。
重傷を自覚した瞬間、体から力が抜け、瞼が重くなってきた。
異様な眠気を感じ、俺はゆっくりと目を閉じる。
最後に目にしたのは、月光に照らされ、妖しく輝く彼女の刀だった。
● SIDE:迷宮庁長官
「総理、大月でのスタンピードはほぼ鎮圧に成功したと言っていいでしょう」
「そうか。一先ず安心だな。……それで被害の方は?」
「……少なくとも自衛官数百名が戦死。ヘリや機甲部隊にも被害が出ております。……被害のほとんどは黒竜によるものです」
佐野防衛相の報告に、場は一気に暗くなった。
先日の東アフリカに比べれば、まだ規模は小さく、被害も限定的と言えるが、たった一晩で自衛隊にこれほどの損害が出た。とても楽観的にはなれない。
「殉職した隊員には申し訳ないが、被害がこの程度で済んだのは奇跡と言えます。当初、北部への展開が手薄となり、そこから奥多摩方面を経て、都内に雪崩れ込む危険性も有りましたが、寡兵ながらよく守ってくれました」
「うむ。ご遺族へのフォローはしっかり頼むぞ。それで、例の黒竜はどうなったんだ?」
総理がそう質問すると、佐野は横目で儂を見てきた。
……探索者周りはお前の仕事だと言いたいのだろう。全く、官僚気質な男だ。
「現場の報告を確認しましたが、黒竜の死骸は奥多摩で確認されたそうです。……首を斬り落とされていたそうです」
「……人斬りの仕業か?」
「間違いないでしょう。また、通信記録によると、当初派遣された中隊は弾薬切れの為一度撤退しております。しかしながら、魔物は奥多摩湖方面までは進出しておらず、恐らくはこれも人斬りの仕業かと」
儂の報告に、佐野の顔が歪んだ。黒竜はともかく、北部足止めの功績も人斬りに取られたと思っているのだろう。ケツの穴の小さい男だ。
「……大村長官。人斬りが参戦しているならば、もっと自衛隊の被害は抑えられたのではないですか? 彼女はいったい何をしていたのです?」
「ご存じの通り、彼女は政府のコントロール下にありません。偶然この辺りにいたのでしょうが、それだけでも僥倖と言えます。人斬りがいなければ黒竜は都内に侵入していた可能性もあるのです。今はそれで良しとしましょう」
文句を言う佐野に、儂はハッキリと現実を突きつけてやった。あれがコントロール不能なのは儂も遺憾だが、それでも彼女が人類にとって最強の守り手なのは変わらない。
「……やはり首都機能を西に移すべきでは? 京都や大阪。広島も候補になるでしょう」
「またその話ですか。政府機能だけを移すだけなら可能でしょうが、東京都市圏には3000万の国民がいるんですよ。彼らを見捨てて政治家だけ逃げろと?」
「陛下も疎開には反対された。そもそも日本中ダンジョンはどこにでも発生するんだ。逃げ場などありゃせんよ」
顔を青褪めた文科相が疎開を提案するが、総理と経産相が窘める。黒竜が東京を襲う光景でも想像したのだろう。
「……とにかく、やはり探索者の育成は急務です。A級魔物に対しては、自衛隊でも分が悪い。S級とは言わずとも、A級探索者の数は出来るだけ増やしたい」
儂がそう締めくくると、一同は重々しく頷いた。佐野だけはやや不満げに仏頂面をしている。
「ともかく、被害は自衛隊だけで、民間人の死傷者はないのです。今はそれを喜びましょう」
その後、夜明けまで対策本部は情報収集を続け、朝にはスタンピードの鎮圧宣言を報道機関に向け発表し、儂はようやく眠りにつくことが出来た。