● SIDE:琴美
必死に叫ぶ中、兄は私を置いて行ってしまった。
……5年前、疲れ果てて眠りこけていた私は、スタンピードの騒動に気づかぬまま、目覚めた時には父の死を聞かされていた。
私は初め、父の死を実感できなかったが、やがて発見された変わり果てた父の姿を見て、現実を思い知らされた。
兄の後ろ姿が、何故だか父と重なる。
体の震えが止まらず、体は石のように硬直化していた。
(琴美ちゃん。万が一の時は私がお兄さんを保護するから安心して。とにかく今はお母様を連れて避難しなさい)
私を石化から解き放ったのは、シルヴィちゃんの声だ。
頭の中に響くような、心に直接語りかけられたような、不思議な現象。
(とにかく心配しないで。いざとなれば私も戦うから。こう見えても戦闘技術は一通り学んでいるわ)
私はその声に返事をしようと心の中で語り掛けたが、もうテレパシーは途切れてしまったようだ。
彼女の励ましに、ようやく私は動き出した。
急いで、母の寝室へと駆け込む。
「お母さん! 起きて!」
「……う、うん? どうしたの琴美?」
「スタンピードが起きたのよ! とにかく着替えて!」
母は父を失ってから体の調子を壊していた。今日も食事の支度を終えると、頭痛がすると言って、薬を飲んで寝てしまっていた。
よほど強い成分なのか、スタンピード警報にも気づけず眠りこけていた。
「な、なんて事……。……アキラはどうしたの?」
ショックを受けながらも、母は兄の不在を訝しげに尋ねる。
こう言った時にはいつも兄が母を起こしていた。勘の良い母は異常事態を察しているようだ。
「お、お兄ちゃんは、スタンピード現場の近くに友達がいるからって迎えに行ったの。だから先に避難しろって」
「……そう。困った子ね」
母はそう呟くと、黙って避難の支度を始めた。私も最低限の貴重品と、念のため武装を整え、緊急バスに乗って自宅から少し離れた広域避難所へ向かう。
避難所は人でごった返し、自衛隊や警察の人が警備に当たり物々しかった。私は探索者だとわかる格好をしていたので、悪目立ちしてしまい少し居心地が悪い。
人々の視線は、何かを訴えかけるような感じがして嫌だった。
……シルヴィちゃんなら彼らの心の中も把握できるのだろうか?
とにかく、母と二人、所在なさげに大人しくしていると、聞きなれた声が届く。
「琴美ちゃん! 無事でよかったわ」
「あ、黒田先輩。先輩もこの避難所に?」
「ええ。私の場合地元だからね。ほら、近くに自衛隊の駐屯地があるからこの近辺の人たちは大体ここに集まっているわ」
先輩は何気ない会話をしながら、そっと私の耳元で囁く。
「……アキラ君は一緒じゃないの? まさか――」
「……それが」
私は事情を打ち明けた。どうやら先輩はある程度予期していたらしく、驚きはしなかったが、その顔いっぱいに不安が広がっている。
「シルヴィさんがフォローしてくれているなら万が一はないと思うけど……」
先輩は私を見ながらそんなことを言った。……もしかしたら、私自身も先輩同様に、不安な顔をしていたのかもしれない。
その後も、先輩は母に挨拶をすると、私たち一家に付き添ってくれた。一晩中、眠れぬ夜を過ごし、朝になってようやく避難解除となる。
元から体調の良くない母は、避難のストレスか、ひどく憔悴していた。
これを心配した先輩のお父さんが車で送ってくれた。
私も母も黒田さんに恐縮しっぱなしだったが、先輩自身も暫く付き添うと申し出てくれる。
先輩のお父さんはかえって迷惑ではないかと訴えたが、私が先輩がいてくれた方が安心するというと、理解を示してくれた。
付き添いは方便で、一刻も早く兄の安否を知りたいのだろうとは思ったが、先輩が一緒の方が気は楽だったので、嘘ではない。
ともかく、二人で母を部屋へと運び、ベッドに寝かせる。
そのまま部屋を出ようとすると、突然母が呼び止めてきた。
「……待ちなさい、琴美。貴方、何か隠しているわね。……アキラは本当は何処へいったの? ……まさかスタンピードでも見に行ったんじゃ」
「そんなわけないじゃない! 友達の所へ行ったんだって!」
「嘘おっしゃい! あの子にそんな友達がいるなんて信じられないわ!」
母は興奮しながら大声で叫び出す。確かに兄は友達とつるむタイプではない。でも、私は嘘は言っていないので、必死に母を宥める。
「お母さん。お兄ちゃんは大丈夫よ。そのうちひょっこり帰って来るって」
「そ、そうですよ! 子供じゃないんだから落ち着いたら連絡くれますって!」
先輩もフォローしてくれたが、マズイことに逆効果になった。
母は兄に電話することを思いつき、スマホを掛け始める。
「……繋がらないわ。やっぱり何かあったのよ!」
「落ち着いてお母さん!」
ベッドから起きようとする母を、先輩と二人で必死になって止める。
混乱した母は、思いのほか力が強く、二人がかりでも大変だった。
そんな時、どこか間の抜けた声と共に、突然部屋のドアが開いた。
「ただいまー。母さん、ごめんな。昨日は心配かけて。この通り何ともないからさ」
兄だった。私たちの心配をよそに、気楽そうな調子で話し、手を広げて無事をアピールする。母も私も先輩も、目を点にして兄を見つめる。
「あれ、黒田さん来てたの? ひょっとして琴美を心配してくれて? いや、悪いね、迷惑かけて。……ところで何で、そんなに顔を真っ赤にしているの? ひょっとして熱でもあるの?」
驚いていた先輩も、徐々に冷静さを取り戻し、赤面して口をパクパクさせている。
兄が先輩に近づいて、心配するそぶりを見せると、私は思わず兄を罵倒していた。
「お兄ちゃんの馬鹿! なんてカッコしてるのよ! 変態!」
その言葉を兄は訝しげに聞くと、自身の姿を見て、ようやく異変に気付いたようだった。
兄は全裸だったのだ。
慌てて股間を閉じて、胸を腕で隠し始めるが、その様がどこか腹立たしく、私は兄を殴り飛ばした。