目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第2話

緑色の小人が笑みを浮かべる。醜悪な笑みだ。口角がこれでもかというほど上がり、瞳は健一を見据えて怪しく垂れさがる。


酷い臭いがした。生ごみを何か月も放置したような、有機物の腐った臭いだ。


「ゲヒ」


小人が笑った。また一歩、距離を詰めてくる。

健一は害意を肌で感じ取った。薄ら笑いを浮かべた表情から悪意のようなものをビシバシと感じる。


――逃げなきゃ。

そう思うのに足は動かない。小人から目が離せなかった。


暑くはないのに汗がにじむ。緊張による冷や汗で背中はぐっしょりと濡れていた。

健一の耳がかん高い音を捉えた。


固い何かが空を裂く音だ。

小人が短く悲鳴を上げる。固い何かが鼻先に直撃したのだ。小人はのけぞり顔を抑えた。

道路に小石が落ちる。


音の正体も小人にぶつかった物の正体もその小石だった。


健一が振り返る。身体は動くようになっていた。小石は彼の後方から投擲されたものだ。

――いったい誰が。

振り返ると同時に横を人影がすり抜けていく。大柄の男と小柄な少女だ。


「美奈、追え」


「うん」


男の低い声がそう命令し、少女の冷静な声が答える。

健一は通り過ぎた二人の背中を目で追った。その向こうに先ほどまで向かい合っていた小人の背中も見える。


突然石を投げられて驚いた小人は向かってくる二人の人間に動揺して逃げ出したらしい。

恐怖は薄れていた。


状況はよくわからず、混乱はしたままだったが何故かもう大丈夫という安心感があった。


「あのう」


背中に声をかけられて健一は振り返る。小柄な男が立っていた。子供ではない。

背丈こそ低いが表情には落ち着きがある。クリーム色のやや大き目なサイズのカーディガンをダボッと来た青年はやわらかい視線を健一に向けていた。


少し茶髪がかったくせ毛。目つきは妙に優しく温和そうな印象を受ける。歳は健一と同年代くらい。

その青年がにっこりとほほ笑んで健一の後ろに立っていた。


「驚きましたよね? 色々と説明したいんですけど、今は時間がない。……この時間にこの変にいるってことは桜葉大学の学生ですか?」


健一が頷く。まだ頭が混乱していて聞かれたことに反射的に応えてしまった。


「そうですか。良かった。もし詳しい事情を聞きたかったら明日ここを訪ねてください」


青年はそう言って紙きれを一枚差し出す。名刺だった。またしても事情を理解できぬまま健一は流れのままに受け取る。何を言うべきかわからなかった。声も出なかった。ただ茫然として反射的に受け取ってしまったのだ。


「大神、捕まえたそうだ」


先ほどの大柄な男が戻ってきて青年に伝える。大神というのが彼の名前のようだ。

青年は「はーい」と返事をして、健一の肩をポンと叩く。「それじゃあ、また」と言って追い越していく。


数秒もすればバイト先からの帰宅路にはいつもの静寂が戻っていた。

ようやく平静を取り戻した健一は渡された名刺を見つめている。


「桜葉大学獣研究会……」


放心した後、なかなか追いついてこない感情を待ちつつ健一は書かれた文字を読み上げた。



翌朝の講義は二限目からであった。

大学近くのアパートに一人暮らし。もちろん学生向けの家賃の低いところ。さらにその中でも群を抜いて安いおんぼろアパートに住んでいる。


それでも学生が勉強をしながらアルバイトで生活していくにはギリギリのラインだった。

親からの仕送りも貰っているが多くはない。無理を言って独り立ちしたのだから文句を言える立場ではないし、言うつもりもなかった。


――親には学費の面でも負担をかけている。せめて生活費くらいは自分でなんとかしないと。

バイトを始めたのはそんな思いからだった。


深夜一時までバイトをした後、家に帰って大学の課題にや復習に取り組む。生活費も大事だが、それで学業をおろそかにする様な本末転倒なことはしたくなかった。


肉体労働の疲労感でだんだんと重たくなってくる瞼と格闘しながら一通りの勉強を終わらせると時刻は大抵深夜三時を過ぎてしまう。

健一は眠りが浅い方だ。どんなに遅く寝ても用事があれば早起きすることは可能だ。


桜葉大学の一限は九時から。アパートは大学の目と鼻の先にあるので遅くとも八時半に起きれば十分間に合う。間に合うが、それでは一日中眠たくなってしまう。


半覚醒状態の頭では講義は半分も理解できない。その後のバイトにも響く。それが続けば疲労は溜まる一方となる。

そうした負の連鎖を断ち切るために健一は思い切って一限の科目を選択しないことにした。幸いにもバイト先の先輩たちに効率よく単位をとれる講義の選び方も教えて貰えた。


そんなわけで週のほとんどが二限から。唯一、一限から大学に来なければいけないのは必修科目のある木曜日だけだった。

今日は水曜日。翌日の必修科目に備えてバイトが休みの日である。


迫りくる睡魔。あくびをかみ殺す。

せっかく勉学にも励めるようにと二限からにしたのに、この日の健一は講義をする教授の話をろくに聞けていなかった。


理由は明白だ。昨日の夜、十分な睡眠をとれなかったのである。

目を閉じると瞼の裏にあのバケモノの姿が浮かんだ。


荒い呼吸。下卑げひた笑い。醜悪な臭い。それらが容易に思い出せた。

――あれは一体何だったのか。あの人たちは……。

色々と気になって眠れなかった。


鞄の中から構内のコンビニで買ったガムを取り出す。眠気覚ましだ。それを二個まとめて口に放り込んで健一は背筋を正した。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?