結局、二限を通して集中はできなかった。
ガムの力で睡魔に打ち勝っても思考は教授の話よりも昨夜の奇怪な出来事の方を考えてしまう。
ペンを片手に頬杖を付きながら思案していたところに時刻を知らせる鐘が鳴る。
時間に几帳面な教授は鐘の音と共に講義を終わらせる。講義室に集まっていた学生たちが席を立ちまばらに消えていく。
その波に逆らわず建物を出てから健一は「さて、どうするか」と考えた。
時刻は十二時十分。昼食時である。
一人暮らしを始めて一か月の健一のアパートには今だ満足な調理器具は揃っていない。昼は構内の学食で済ませ、夜はバイト先のまかないがあるからだ。
――多少腹は減るが、昼間では十分保つ。という思いとその分節約になるという浅い考えから健一はここ一か月朝食を摂らない生活を送っていた。
おかげで昼食頃には腹の虫が鳴きやまなくなる。腹を擦り、空っぽになった己の胃の訴えを聞きながらも学食に行くかどうか悩んだ。
この時間の学食がえらく混むからである。
桜葉大学では二限と三限の間に一時間ほどの空き時間ができる。他のコマの間は十分しか空いていない。多くの大学がそうなのだろうが、この空いた一時間で昼食を済ませろという意味である。
その意味を正しく解釈している学生たちは二限が終わるとすぐに学食に駆けこむのだ。
中にはあえて二限に授業を入れず、人の少ない学食で早めの優雅な昼食を摂る生徒もいるようだが、睡眠時間の確保のためにこの案は健一の中で却下された。
大学の周辺は田畑と住宅地が広がっている。学生向けのアパートやコンビニ等はあれどまだ入学したばかりの健一は周辺の地理にいまいち明るくない。安価で食事をできる店に心当たりはない。
コンビニで何かを買ってもいいのだが、昨今のコンビニは値段と量に釣り合いが取れていない気がする。標準的な身長と体型の成人男性が満足できるだけの食事を買えば決して安上がりとは言えなくなる。
カップラーメンという安価で満たされる商品もあるが、栄養面が気になってしまう。
安く、健康的な食事といえばやはり学食のメニューくらいしか思いつかなかった。
となれば健一に残された道は一つだけ。どこかで時間をつぶし、三限の開始が近くなった頃に食堂に向かえばいい。
三限の開始は十三時二十分。食事の提供時間を考慮した上で食べる時間は十分もあれば足りる。
だいたい十三時前くらいに学食に行けば混雑も落ち着いているだろう。
そうと決まれば健一は時間をつぶすために歩き出した。特に目的地はないが大学の中を色々と見て回るつもりでいた。
桜葉大学には様々な学部が存在している。経済学部や文学部など聞きなじみのあるものから、芸術系や理工系の学部。看護学部や医学部といった専門職系の学部もある。
県境のド田舎に位置する広大なキャンパスにはそれらの学部専門の講義棟が分かれて存在しているのだ。
最寄りの駅からバスで二十分という悪条件の代わりに、広すぎる敷地内は一か月やそこらで把握しきれるようなものではない。
好奇心から構内を探検してみようと思い立ったのだ。本当ならば大学の周辺を散歩して周囲の店なども調べようと思っていたのだが、昨日の今日で町に繰り出す勇気は出なかった。
とりあえず目の前に見えるひと際大きな建物に向かう。そこは理工系の学部生が主に使う講義棟で、大学構内の中ではひと際大きい。
ガラス張りの扉の前まで行ってから健一は方向を変えた。建物の右を回りその後ろへ向かう。
同じ大学とはいえ他学部の学部等にずかずかと入っていけるほど無神経ではない。
講義棟であれば中にあるのは講義室だろうし、興味も薄い。
気になっていたのはその建物の向こう側だ。
桜葉大学の敷地は周辺を金属製の門と白い柵で覆われている。それ自体はさして珍しいことではないが特徴的なのはその柵が二つの円を描いていることだった。
健一が今いる理工系と文系の講義棟のある円、そして公道を一本挟んだ向かい側にある芸術系と専門職系の講義棟のある円だ。
なぜこのようなつくりになっているのか健一にはよくわからないが、とにかくその二つの敷地をまとめたものが桜葉大学である。
健一が向かったのは芸術系と専門系の敷地の方だった。便宜上、こちらは第二キャンパスと呼ばれている。
ぐるりと見渡すと周囲を建物が囲んでいた。大きさは第一キャンパスよりもやや小さい建物が多く、日当たりの関係か少し薄暗くてじめっとしている。
建物が全体的に古い。もしかすると先にできたのはこの第二キャンパスの方で、後になって第一キャンパスを新設したのかもしれない。
そんなことを考えながら歩みを進める。入学式の時に受けた案内によればサークル棟や図書室なんかもこっち側にあるようだ。
「うわ……サークル棟ってこれか?」
ひと際古めかしい建物を見つけて健一は足を止める。
元々は白い建物だったのだろうそれは、日焼けのせいかやや黄色がかって見える。ヒビともシミともとれるくろずみが至る所にあり、上部にはツタのようなものまで生えている。
大きさはそこそこあるようだが陰鬱な雰囲気すら感じる建物だった。