建物を見つめながら健一は自分の服のポケットに手を入れた。春物として愛用している黒のトレンチコートだ。
スマートホン、イヤホン、コンビニのレシート。乱雑に放り込まれた私物に指が触れる。その一番奥に固い紙の感触があった。
「獣研究会か」
健一が呟く。昨夜手渡された名刺に明記されていた団体名だ。今朝、大学に向かう前に入学式の時に配布された構内案内を確認した。
「桜葉大学獣研究会」は確かに大学のサークル一覧に名を連ねる団体だった。
名刺を渡してきた黒髪の優男の顔を思い出す。事情を知りたければ尋ねてこいと言った大神という青年だ。
入るか入らないか、健一は思案した。夜も眠れなかった。大事な講義も上の空だった。それくらい昨夜のことが気になっていた。
あの緑色の化け物の正体。獣研究会という謎めいた学生たち。いったい何が起こっているのか。
聞きたいことは山ほどあったが何故か足は躊躇した。
今ここで一歩を踏み出すと健一が今まで気づかないふりをしてきた何かから目を逸らせなくなるような気がしたのだ。
それは怖かった。
――やっぱり後でにしよう。放課後の方が確実だ。
そう理由をつけて踵を返す。言い訳だとはわかっていた。
二限の終わり、いわゆる昼休みに件の獣研究会がサークル棟にいるのかはわからない。だが、それは中に入って確かめてみれば済む話である。
建物の中にすら入らずに引き返すのは明確な逃げだった。
サークル棟を後にしようとした時、不意に誰かが近づいて来る気配がした。
反射的に健一は隠れようとした。しかし周囲に身を潜められる場所はなく、時間的にももう遅い。
「渚くんは過保護すぎます。美奈ちゃんだってもう大学生なんだから少しは自由がないと息が詰まってしまいますよ」
「それはわかってる。だが、あいつは昔からすぐに無茶をするし、心配なんだ」
男女の声だった。二人。講義棟の方からまっすぐサークル棟に向かってくる。
スラっとした高身長の美人と、それよりも頭一つ分高い美男子だ。
健一はその二人に見覚えがあった。美人の方はバイト先の常連客だ。通い始めたのはここ一か月らしいが、普段はあまり来ない客層の上に目を見張るほどの美形なのでバイト仲間たちの間で噂になっていた。
やせ型の男の方はまさしく昨日見た。あの緑の化け物に怯えていた時に健一の横をすり抜けていった二人のうちの一人だ。身長は随分と高い。引き締まった肉体は何かスポーツでもやっているのか、睨まれたら目をそらしてしまいそうな雰囲気がある。
「心配するのはいいですが、少しは自嘲しないと。このままじゃ美奈ちゃんに彼氏ができた時困りますよ。だって……」
話は途中だったが二人は健一の姿に気付いた様子だ。女性の方が話を遮る。目が合った。
少し驚いた様子だったが女性はすぐににっこりと笑う。
「あら、よく来てくれましたね」
どうやら健一がどういう立場なのか知っているらしい。昨日の現場にはいなかったはずだが、健一を自分たちの「客」として認識している。
「あ、いや」
引き返そうとしていたとは言い出せずまごつく。すぐ目の前に二人が近づいてきていた。
「タイミングがいいな。親戚から貰った茶菓子がある。食っていけ」
男の方にそう言われる。凄んでいるつもりはないのだろうが迫力が凄まじい。
嫌とは言えず、健一はその後に従った。
サークル棟の内部は一層暗かった。切れかけているのか電球の明かりが足りていない。
古さか、立地の問題か外よりもさらに陰鬱な印象を受ける。
実際湿気も多いのだろう。廊下にはかすかにカビの臭いもした。
「嫌になるでしょう? 建物が古すぎて掃除してもすぐにカビが繁殖するの。最近では半ばあきらめかけてるわ」
健一の心の内を察したのか女性が言う。その言葉を聞きながら健一は「場違いだな」と見当違いなことを考えていた。
自分が、ではない。その女性が、だ。
フリルのついた白いブラウスにクリーム色のタイトなスカート。大人っぽい雰囲気と場所の陰鬱感がミスマッチだ。
言葉から察するにここの掃除をしているのだろう。上品そうでどこかのお嬢様と言われても違和感のない彼女が掃除をしている姿はそうぞうもつかなかった。
「部室は一番奥だ。今の時間なら大神もいるだろう」
男がそう言って先を歩く。美男子という意味では男の方も負けていないが、こちらはなんとなく雰囲気に合っている。
季節を無視した黒のTシャツに動きやすさを重視したジーンズ姿。表情のせいか、影のある場所によく似合っている。
案内されるままに健一はサークル棟の中を進んだ。
男は宣言通りに一番奥の部屋の扉を開けた。
「大神、客だ」
そう言って男が部屋に消える。その後を女性が付いていき、廊下の外に上半身だけ出して健一に手招きする。
少し気恥ずかしい気分になりながら健一は部屋の扉を潜った。
最初に感じたのはさわやかさだった。
廊下まで感じた陰鬱とした雰囲気はないし、空気にも湿っぽい感じはしない。
電球を取り換えているのかしっかりと明るい。廊下との対比でまぶしく感じるほどだ。
部屋の隅で除湿器が稼働していた。
手前にローテーブルがあり、それをはさむようにシンプルな黒のソファが置かれている。
その奥に机があり、ノートパソコンとコーヒーが置かれている。入れたてなのかコーヒーのカップからはまだ湯気が立っていた。