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毒と血の記憶
毒と血の記憶
流石ミミ
現代ファンタジー都市ファンタジー
2025年04月22日
公開日
14.1万字
連載中
毒を食らわば皿まで食べちゃった人たちの物語。 使い方によっては薬にもなるのにね。 この毒の重さを通り抜けて軽くなろう。 風の時代に生きる貴方へ。 歴史の深刻さの先に未来の軽さが待っている。

第1話 オーギュスト・ドーファン

 オーギュスト・ドーファン


「おい、起きろ‼ お前、ここで死にたいのか‼」 

頬骨が砕ける位の力で顔を殴られた青年は、虚ろな目でジンジンと痛む頬を撫でた。


彼はこの二日間、眠ることを許されず塹壕を掘り続け泥の中で

缶詰の食糧を手掴みで食べ、そしてまた塹壕を掘り続け、

終に疲れ切って、うたた寝をしていたところだった。


その彼を殴り起こした男は、泥まみれの顔には不釣り合いな白い歯を見せて微笑んだ。


「お前、新顔だな。どこの部隊の何者だ?」

殴られた若者は殴った男の徽章を見て、自動的に答えた。


「はい伍長、私は南東一五六組、二等兵オーギュスト・ドーファンです。」

そう言い終えたと同時に、 彼等のいる塹壕からさほど遠くない

場所で、爆撃音が鳴り響き、断末魔の呻きと苦痛に泣き叫ぶ声が

聞こえてきた。


「次はこっちに来るぞ‼伏せろ‼」

笑顔だった伍長の絶叫に怯えたオーギュストは咄嗟に身を伏せ、

耳を両手で抑え込み、目を閉じた。


その瞬間、天を衝く龍が雄叫びを上げて迫って来た。

地を貫く砲撃と共に、巨大なうねりが地を這い、オーギュストの体を震わせた。


爆音が去った後、彼が最初に目にしたのは、白い煙が立ち上がる

泥の中に、無造作に転がっている二本の長い脚だった。

恐る恐る顔を上げた彼が周りを見渡すと、爆撃で破壊された塹壕 と泥の中に埋まっている、二つに裂けた伍長の頭と上半身が

見えた。

生きた空もないまま、オーギュストは、顔と身体の右側に言い様の 無い激しい熱さと痛みを感じ、咄嗟に顔を触ろうとしたが、

手はおろか 足も動かせない。


襲い掛かる痛みにたまりかね、彼は金切り声を上げ叫び続けた。


「もう、やめろ、たくさんだ!早く殺せよ!何で生かしておく!

何でこんな思いをしなきゃならない!さっさと殺せよ!

殺せ、早く‼」

そう喚き散らしながら、のたうち回った挙句、彼は遂に失神した。


その1年後、1918年・12月オーギュストは、

生まれ故郷のフランス南部ボウボワ村に戻って来た。 


同じ時期に戦場に召集された青年達が誰も帰って来なかったのにも関わらず、オーギュストは生きて一人で帰って来た。 


松葉杖をついて、顔の右半分に包帯を巻きつけ、

戦争に駆り出された時とは全く違う青年に変わって戻って来た。


彼はこの戦争で顔の右側と右脚の膝から下、そして、彼が戦前まで持っていた心を失った。


1914年の秋が終わる頃、18歳で戦地に召集されるまで、

オーギュストの世界は完璧で美しかった。 


彼は内包する理想の世界を他者と共有せず、

美意識の異なる村の住人達には、さほど興味も示さず、一人でいる時間を大切にしていた。


「あんたの息子、大人しいのは良いけど絵ばっかり描いてさ、  

何だか金持ちの子みたいだね、誰に似たのかねえ。」


隣人が笑いながらそう言った後、 オーギュストの父は烈火の如く息子を怒鳴りつけた。


「お前は一体何様のつもりだ! このただ飯喰らいが! 絵なんぞ描く暇があるなら、とっとと働け!このうどの大木が‼」


そしてオーギュストが持っていた画帳を取り上げると、

力任せに引き裂いて竈にくべてしまった。


以来、オーギュストは父親の職業を継ぐという選択肢には、

断固従わないと心に誓い、早晩村を出て、画家になる修行をすると決めた。


だが、戦争が始まり、彼は否応なく戦地で生き地獄を見る日々を

余儀なくされたのだった。


この地獄は、繊細で感受性豊かなオーギュストにとっては

世界の終わり以外の何物でもなかった。


彼が愛したのは、美しい木々の彩や咲き誇る花に止まった蝶や蜂を心ゆくまで眺め、その姿を完全に模写し、虫眼鏡で花弁を一枚ずつ観察しては、その完全な美しさに満足する事だった。


街路樹の夾竹桃の葉陰で、その桃色の花をうっとり眺めながら、

丁寧に描写する自分を、その美を堪能できる自分自身をこよなく

愛していた。


だが、赴いた戦地は、草一本も生えぬ泥濘の地で、ここで呆気なく戦死するのか、捕虜になるか、気が狂って殺されるのか、いずれにせよオーギュストに選択権はなかった。


今日こそは終わる、と神に祈りながら、彼は塹壕を掘り進み、

夜中に飛び起き、自分がまだ生きているのを確認して、

ため息をつく。


誰もが血と泥にまみれ、痛みにもがき、呻き声を上げながら死んでいった。

あるいは担架で運ばれ、跡形もなく消えて行く日々の中で、

彼は元いた美しい世界に恋焦がれ、今いる狂った世界を

心底憎んだ。


そして爆撃を浴び、傷を負い、故郷の村に帰還した。 


その後、彼がこの戦争について話すことは終ぞなく、父の職業

だった鍛冶屋を継ぎ、数年後に同じ村に住むアデルと結婚した。 


アデルは生き残った戦争の英雄と、親類縁者の取り決めに従って

仕方なく結婚を承諾したのだ。


「すまないが、俺の事は放っておいてくれないか。」

初夜に夫からそう告げられたアデルは、このとまどいから時を

経て、次第に夫であるオーギュストを慈しみ、愛するようにに

なった。


アデルは、夫が身体よりも心の中に、神でも救えぬ大きな傷があることを、その澄んだ心で理解した。


そして神の御心に代わり彼女自身が夫の深い傷を癒す事こそが愛だと信じた。

しかしオーギュストにとってアデルの信心は慰めにも

ならなかった。


それから娘が二人生まれ、オーギュストは彼に生き写しの長女、

エヴリーヌを殊更可愛がり、エヴリーヌがオーギュストの腕の中で、スヤスヤと眠っている頃から、オーギュストは娘に

言い聞かせたものだ。


「早く大きくなってくれ。お前の父さんはお前だけが生きる

望みだ。 父さんの望みを叶えられるのはお前だけ、お前だけだ。」


そして、オーギュストはゆっくりと彼の世界に彼女を取り込み、

支配していった。


決して怒らず決して暴力も振るわず優しい声で娘の自尊心を潰し、代わりに彼の世界観を、そっくりそのまま彼女の心に移した。


「エヴリーヌ、父さんは、それは好きじゃないからやめなさい。」

「分かった、父さんが好きじゃないならやめる・・・。」


「父さんだったら、それは選ばないな。父さんが選んであげよう。お前はまだ小さい子供だ。」

「そうね、父さんに選んでもらうわ、あたしにはよく分からない

もん」


「父さんが決めよう、お前は何もしなくて良い、お前は本当に良い子だ。エヴリーヌ。」

「有難う、父さんって本当に優しい、大好きよ。」


「エヴリーヌ、お前は父さんの宝物だ、何より愛しい大事な娘だ。

父さんの言う通りにしていれば間違いない。」

「そうよ、あたしはずっと父さんの良い子でいるわ」


こうして、オーギュストの愛する娘エヴリーヌは完全に父親と

同化し、彼の世界のすべてを海綿のように吸い込んで成長した。


自由である筈の心を、真綿で首を絞める様に支配されていったが、彼女は父からの愛情を絶対に疑ったりはしなかった。

例え、何が起ころうとも。


エヴリーヌが鬼ごっこの最中に突き飛ばされ、膝に擦り傷を

つくって帰って来た時、オーギュストはすぐさま少年の家に行き、怖がる彼の胸倉を掴んで静かに言った。


「俺の娘に指一本、触れるな!」

その後、その少年と家族はドーファン家との付き合いを絶って

しまった。

エヴリーヌが、学校の廊下で転び、顔に切り傷をつくって

泣きながら帰って来た時、オーギュストは教師を家まで呼びつけて、淡々と詰った。


「新米の教師だからといって、生徒に怪我をさせて良い道理は

ない。」

若い教師は、生徒の親から容赦ない、辛辣な言葉を浴びせられた

衝撃で展望を打ち砕かれ、その後、村を出て行った。


母のアデルはオーギュストの度が過ぎる程の娘への執着を

 “子煩悩な父親” 程度にしか思わず、オーギュストの執心は年々

強くなるばかりだった


心が死んでしまった日から、オーギュストにとって、生きる事が

即ち拷問だった。


だからせめて、血を受け継いだ子供に、未来の希望を託し 

彼は生きようとした。

が、彼は気付かぬうちに娘の心を操作して傀儡にしてしまった。 


触れると破裂しそうな彼の怨念はエヴリーヌの存在の陰に、

その身を潜めいていた。


1940年、前年に始まった2度目の戦争の結果、いつ終わるとも

知れぬ不安と恐怖が生活の一部となった。

誰にとっても重苦しい銃後の生活が続いていたが、15歳のエヴリーヌは変わらぬ父の愛に守られて暮らしていた。


夏の盛りの、ある日の夕暮れ時エヴリーヌが、家の裏にある森の中を夢見心地で歩いていた時、突如父オーギュストの死体を

発見した。


彼は猟銃を抱え、撃ち抜かれて散乱した頭部の断片と共に、

血溜まりの雑草の上で果てていた。 


オーギュストが何の罪状も告げられぬまま地元の警察署に

連行され、3日間に渡って尋問を受けた後、やっと家に帰された

翌日のことだった。


エヴリーヌは父の仲間だった、と言う男から父が都会から

避難してきたユダヤ人の家族を、森にある納屋に匿って

いたのだと知った。 


さらには彼が、抵抗運動家であった事実も知ることになった。

オーギュストが警察署に拘留される直前、その納屋は不審火により 焼失してしまったのだが、そこで匿われていたはずの家族は忽然と消え、行方不明になったままだった。


その後、オーギュストが釈放されて家に戻った時、彼はエヴリーヌを強く抱きしめ、一粒の涙を流した。 


それなのに何故、彼が自ら命を絶ったのか、その理由をエヴリーヌは是が非でも知りたいと願った。

彼が去れば、一生かけて嘆き悲しむだろう娘を残して、何も言わずに死ぬことを選んだ理由をどうしても知りたかった。


「神様、お願いです。お願いですから教えて下さい。

何故?父は天に召されたのですか?」


百と一日、彼女は神に祈り、百二日目で祈るのを止めた。


それはエヴリーヌの苦しみが消えたからではない。

百一日の間、彼女は三つの絶望の間を何度も往復し何故父が

何も告げずに逝ってしまったのか、毎日祈りながら神に問いかけたのに、どれほど祈り、どんなに待っても答えは無かった。


(父さんは、あたしを捨てたのね・・・。)

エヴリーヌは父に見捨てられたのだと考えた。

一つ目の絶望だ。


そして次に彼女は自分自身に問いかけ始めた。

(もし、もし、あたしに父さんの死ぬほどの悩みが分かったと

して、あたしはそれを何とかできたの?父さんを助ける事が出来

たの?)


その答えは彼女を無力感の中に突き落とした。

これが二つ目の絶望、三つ目の絶望はエヴリーヌの人生から父が消えたことだ。

(父さんは死んだ、家に帰って来て、あたしを抱きしめてくれ

ない・・・)

エヴリーヌはもう二度と父に触れる事、声を聞くこと、再び生きている姿を見ることが出来ない、それも永遠に。


この三つ目の絶望が最も深くエヴリーヌを打ちのめした。


それはまるで陽の当らぬ暗い森の沼の淵で、一人きりで膝を抱えて延々と泣き続けるような、そんな陰鬱しかない絶望感だった。


これら三つ巴の絶望の渦巻きが、彼女に神の不在を思い知らせ、

そして祈りを捨てた心から望みが消えた。


父の死体を発見した同じ日、母のアデルが行方不明になった。

出来る限りの手を尽くして探したが見つからず、エヴリーヌの希望が、また絶望に変わった。


「おそらく、お父さんを心配して出かけて、何処かで事故に遭ったのかもしれない。我々としては、もうこれ以上、探す手立てがないから・・・ 申し訳ない・・・。」と、警察官がエヴリーヌに告げた後、幼いジョーゼットは遠縁の親戚に預けられ、エヴリーヌは、面識すらない血縁者の元へ行くことを拒み、海岸地方にある軍需 工場の住み込み労働者になる道を選んだ。


わずかな賃金で朝から晩まで働かされていたが、ある日突然解雇

された。

長かった戦争がやっと終わったのだ。

それから彼女は他の大勢元労働者らと共にキストン行きの列車に

乗り、ベアトリス・ドゥクロワとして新しい人生を生きる為に過去を封印した。

それ以降、父オーギュストに支配され乗っ取られたベアトリスの

心は、ゆっくりと、確実に彼女自身の人生を侵食していった。




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