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第2話 ベアトリス・ドゥクロワ

二  ベアトリス・ドゥクロワ


ベアトリスはキストンに到着すると、噂で聞いていた

【マダム・イレーネの館】へ行き、働き口を探している、と交渉 して、即時に職を得た。

「金か、学が無ければ自分を売って生きるしかない、

俺がいる限り、お前にはそんな事はさせない。」と言っていた父を亡くした彼女には選択肢など無かった。


 無論、マダム・イレーネに異存はなく、田舎から鞄一つでやって来たベアトリスの身の上話に同情する余地もなかった。


マダム・イレーヌの館で働き出してから数年後、ロベールという

無骨な男がベアトリスに、彼専用の愛人として、小さな部屋と

ほんの少しの手当をくれると約束した。


ベアトリスは生きる為の手段として彼の申し出を承諾した。


籠の鳥のような、日々の無聊に鬱々としていた時、一匹の黒い猫が、ベアトリスの部屋の窓辺にやって来るようになった。

ベアトリスは無聊の慰めを見つけて大層喜び、ロベールに頼み込んだが、エヴリーヌの小さな願いは、ひと言で却下された。 


「猫を飼いたいだって?家具が台無しになるし、臭いは酷いし、

俺は絶対に嫌だね。言語道断だ。」

それでも猫は、胸元に白いリボン模様を付けた黒猫は、エヴリーヌに毎日餌を貰い、たっぷり撫でてもらった後、満足して帰る日々を送っていた。


 ある日の午後、二階の窓辺で黒猫を撫でていたベアトリスが見下ろすと、男が黒猫を呼んでいるのが見えた。


「アンジェリ、アンジェリ、こっちへおいで!家に帰るんだ、

さあ!」

 柔らかい風が、彼の榛色の巻き毛をふわりふわりと揺らして

いた。

青年の名はフィリップ・キャポン、キストンの美術学校の学生で

次回の懸賞金付きの絵画展で当選する為に 

「ロミオとジュリエット」を題材にした油絵を描く予定で被写体を探しているところだとベアトリスに話した。


彼の話を聞きながらベアトリスは彼女の父親を思い出していた。

若い頃は画家になりたかったといつもベアトリスに話していた

オーギュストの事だ。


(父さんが、もし彼みたいな学生だったら、こうやって被写体を

探していたかしら?)


「・・・・・私が被写体になってあげてもいいわよ。

お礼は当選してからでも、いつでも良いわ。」


「本当に?有難う、有難う!恩に着るよ。」


その後、彼は息を吸うのも忘れる位ベアトリスとの恋に溺れ、

お礼の事も忘れてしまった。

彼が描くはずだった「ロミオとジュリエット」は、アンジェリを

抱くベアトリスの肖像画に変わった。


黒猫の導きで出逢った二人が逢瀬を重ね、凡そ三か月が過ぎた、

ある日の午後、フィリップはベアトリスを陽の光を受けて輝く天使たちの像と、 眩い黄金の天馬の像が飾られたジャン・マルク大橋に連れて行った。


彼はいきなり橋の中央の車道に出ると、往来する車を全部止め、

戸惑うベアトリスを車道の中央迄強引に引っ張って立たせた後、

片膝をついてポケットから小さな箱を取り出し彼女に差し出し

ながら言ったのだ。

「ベアトリス、僕と結婚してくれないか?」


差し出された箱の中身は小さな緑色の宝石が付いた指輪だった。

車道の真ん中で始まった定番の求婚式に、車内で強引に待たされていた人達は拍手喝采でお祭り騒ぎのように大はしゃぎし出した。


求婚されたベアトリスはただ黙って指輪の箱を受け取ったが喜び

囃し立てる周りの様子とは裏腹に彼女は暗澹たる思いで焦るばかりだった。

「フィリップ、あの、私・・・

突然で何て言っていいか分からないの・・・」

「ベアトリス、こういう時はね、“もちろんいいわ”って言うのさ。ほら、みんなも賛成しているよ? 僕を信じて。」

「・・・分かった、“もちろんいいわ“・・・」

「ベアトリス、僕は君を永遠に愛するよ」


そう言ってフィリップはベアトリスを抱きしめた。

観衆の興奮は最高潮になり、みんなが口笛と警笛を鳴らして祝福

してくれた。

この一瞬がフィリップにとっては幸せの絶頂だった。

だが、ベアトリスの心には、ひと時の幸せがやがて終わる予兆だけ

があった。


ベアトリスはフィリップに何も言わずに逢瀬を重ね、フィリップはベアトリスが彼の未来の伴侶であると信じて疑わず、以前にもまして彼女を思いやるようになった。


ベアトリスの愛人であるロベールは彼女に若い恋人がいることを

察していたが、彼女か相手の男か、そのうちどちらかが飽きて別れるだろうと高をくくっていた。

しかしこの日ベアトリスがロベールに別れを切り出し状況は

一変した。

ロベールが与えた全部を捨ててまで、ベアトリスがフィリップと

一緒にいたいと言い出したからだ。


「ベアトリス、俺は、先刻承知だぞ。 しかし、よく考えてみろ、お前がその男と一緒になって、つまり結婚して子供でもできた時、お前がやって来た事を知られたら、何て説明する? 

人はお前が思うほど馬鹿じゃない、人の口に戸は立てられないって言うだろう?人の噂だよ。

とりわけ悪い事は、必ず誰かが告げ口する。そうなったら、亭主やその家族、子供たちに一生秘密を持って暮らさなきゃならない。

お前の事情なんて他人には関係ないさ。お前がマダム・イレーヌのところで働いていたこと、俺の愛人だったってことをお前はその男に話して承知すると思うのか?それを話しても、お前を大事にすると思うのか? 」


ロベールが話したことはベアトリスには分かり過ぎるくらい

分かっていた。


ベアトリスがフィリップと結婚すると決めたのは、彼が彼女に

今まで知る事のできなかった美しいものをくれたからだ。


フィリップはその透き通る美しい瞳でベアトリスを見る、

その時ベアトリスは彼の眼に無上の信頼があるのが分かるのだ。


しかしベアトリスはすでにフィリップの信頼を裏切っている、

彼に過去を話すなど、出来る訳がない、と彼女は諦めた。


「分かったわ、ロベール。あなたの言う通りよ。私夢を見ていた

のね。あなたの言う通り、私は誰とも結婚せずに子供も持たずに

いるのが良いのね。」

「ああ、そうだな。分かったなら話は終わりだ。今から五分やる

から仕度をしてこの部屋から出て行け。身一つでな。

ただし、一つだけ、持って行っていい。俺がお前にやった物の中で一つだけだ。」


ベアトリスは突然の放免に、かなり動揺したが、フィリップが

くれた指輪をそっと左手の薬指にはめて

「もういいわ。私出て行くわ」とだけ言って他には何も持たず、ロベールの顔も見ずに扉を開け、ベアトリスは外へ出た。


ロベールも何も言わなかった。

こうしてベアトリスの最初の愛人生活は幕を閉じた。

フィリップにも別れを告げた。


彼女はこの身の不幸が、哀しみが、何故無くならないのか、

その理由が全く分からないまま、再びマダム・イレーヌの館に

戻った。


売り物としての価値が一年毎に減っていく事実に焦り、ベアトリスは亡き父の教えの通り、「金と学のある」仕事、同時に父の夢を叶えられる仕事“画商”になる道を選んだ。


早朝、労働を終えた後の昼間の睡眠時間は図書館と美術館通いに

充て、独学で美術史、絵画のことを調べて学んだ。

多少なりとも教養のありそうな客からはどんなことでも聞き出して覚えた。


そして知識と現金を貯め、実際に画商の客が来た時は普段の倍以上は愛嬌を振りまき満足させるように努めた。


南部訛りを矯正する為にラジオを聞いて標準の発音を練習し話し方も勉強した。

洋服も今までの趣味をがらりと変え、将来に備えて上品な品ばかり選び、化粧法も覚えた。


どう振舞えば客の興味を引けるのか、どうすれば彼女の望むものが得られるのか、毎日が勝負だった。


そのうち顧客だった年寄りの美術商に気に入られ、必要な知識は

教えてもらえるようになった。

そうしたベアトリスの努力がほんの少し良い方向へ流れ出した矢先、予期せぬ出来事が起きてしまった。

警察の一斉捜査でマダム・イレーヌの館は捜索され、マダムは

もちろん、ベアトリスや他の女達も一斉に検挙され警察署に連行

された。


ここでベアトリスは彼女の最初の夫となるヤニックに出会った。

ヤニックはベアトリスと同年代、イタリア系で人好きのする、

若く正義感に溢れる警察官だった。


彼は当初ベアトリスのことは連行されてきた他の女たち同様

“可哀想な身の上”の女だとしか思わずに、ただ、“可哀想”だから

助けたい、最初はそれだけの筈だった。


ベアトリスがもうマダム・イレーヌのところに戻らなくても済む

ように、働き口を世話した。


絵が好きだというベアトリスの為に知り合い中を探し回って

画材道具店を紹介し、間借りできる小さな部屋も見つけてきた。


その時までヤニックは彼女の更生を手伝う正義の味方のつもりで

いたのだ。

彼はベアトリスの様子を見に何度となく画材道具店を訪れるうち、ベアトリスが画材道具店で働くにしては、洒落た服を着て、

いつ見ても綺麗に化粧しているのは、何の為なのだろうか、と

思うようになった。


恋人がいるのだろうか、それとも・・・・そんな風に思いながら

週に一度の訪問が三日に一度、やがて毎日一度の訪問に変わって

いった。

見る度に彼に向かって美しく微笑むベアトリスを、ヤニックは

“運命の女”だと思わずにはいられなくなってしまった。


そしてこの日もまた、ヤニックが立ち寄った画材道具店には大輪の薔薇のように美しく艶やかなベアトリスがいた。


「こんにちは、ファルチェットさん。今日はいいお天気だわ。

晴れると気分が良いわよね。最近は雨が多くて滅入っていたの。

今お忙しい?もしお時間があるならコーヒーはいかが?」


華やいだ嬉しそうな声でベアトリスはヤニックに話しかけた。

ヤニックはただぼうっとして、溢れ出るような強い生命力を放つ

美しいベアトリスを眺めていた。


「ありがとう、じゃぁ、コーヒーいただこうかな」

「あら、嬉しい。今ちょうど休憩時間なのよ。

一緒に奥で飲みましょうか。また警察の面白いお話聞かせて、ね?」


ベアトリスはヤニックの求める“正義の味方に助けられて更生しつつある不幸な女、美しければ尚良し”という彼女の役割を真面目に演じていた。


ベアトリスにはそれしかヤニックの善意、いや好意に返すものが

なかったからだ。


その後ヤニックは意を決し、ベアトリスに求婚したがベアトリスは躊躇した、かつての恋人フィリップとの一件でベアトリスは結婚することも子供を持つことも諦めていたせいだった。


しかしヤニックの熱意にほだされ、ベアトリスは彼と結婚した。

独りで生きる事に、ほとほと疲れてしまったのだ、誰かに守られて、安心して暮らしたい、昔々父親がしてくれたように、

何もしなくてもただ愛を与えてくれる誰かが必要だった。


その時、彼女は他の選択肢はないのだと諦めた。


一方、美しい薔薇の花のような女性を伴侶にしたヤニックは喜んだのも束の間、彼の家族、親族とは断絶状態になってしまった。


誰かが彼の母、イタリア移民でフランス語は理解するのにイタリア語しか話そうとしない彼の母親に“告げ口”したのだ、ベアトリスの正体が何者であるかを、尾ひれをつけて話したのだ。


「もっとまともな娘と一緒になるのが良い、その女とは別れ

なさい、今すぐに。」


母親は泣きながら訴えたが、息子であるヤニックは反発した。


「まともって何だ?一体誰が決める? ベアトリスは誰も騙した

こともないし、殺したことすらない、ベアトリスがあんた達に何かしたのか?あんた達の大事な貯金でも盗んだのか?

会おうともしないで何でそんなことが言える?」


彼の母は、それでもひるまず、お腹を痛めて産んだ子に、こんな

ひどい仕打ちをされる覚えはないと、泣き落としにかかった。


母親の涙に勝てる子供などいるのだろうか?

しかしヤニックは負けを承知で戦った。


「母さん、そんなに泣かないでくれよ。俺だって自分でも良く

分からない、俺はただ、あいつと一緒にいたいだけだ。

命がけでも愛し抜くって、心に決めた。例えこの世で一番大事な

母さんに、駄目だと言われても、俺は引き返すつもりなんてない、俺はあいつに決めたからな。」


それでもヤニックの母親は彼らの結婚を認めようとはせず、

罰として息子への連絡を一切絶ってしまった。


意地になったヤニックは彼の薔薇の花、ベアトリスと頑として

別れようとはしなかった。

だが、世界中から見放されたような孤独感に始終苛まれるように

なり、彼の心は次第に荒んでいった。


その数年後、ヤニックは暴力事件を起こし、停職処分された。


それまでも新しい部署に赴任するたびに色々と問題を起こして面倒な立場にいた彼に失望して、ベアトリスはヤニックと離婚した。


彼女と結婚したことが原因で世界を敵に回したように乱暴になり、荒れていく彼と、ただ離れたかったのだ。


彼女はすぐにキストンに戻り、以前の客だった美術商の交友関係

から再び金銭援助者つまり愛人を見つけ出し、画廊を始める準備を開始した。


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