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第3話  ジョーゼット・ドーファン

3 ジョーゼット・ドーファン

将来の目的の為にまたも手段を選ばず愛人生活を始めたばかりの

ベアトリスの元に、ある日一通の手紙が届いた。

差出人の名はなく消印の地名はベアトリスが生まれ育った村の名

だった。

彼女が便箋を開くと、そこにはお世辞にも達筆とは思えない粗い字体でぎっしりと何かが書かれていた。


拝啓 エヴリーヌ・ドーファン殿

私はボウボワ村に住むアラン・グリボーです。この度は突然のお知らせで恐縮ですが緊急を要する件である為、やむを得ずあなたにお手紙を差し上げた次第です。つい最近私はあなたの妹のジョーゼット嬢が過去数年にわたり私の息子ジャンと交際し、結婚の約束を取り決めていた事実を知り、息子には残念ながらジョーゼット嬢との結婚を認められない旨を申し渡しましたが、ジョーゼット嬢はこれに反発し、息子のジャンと私たち家族に報復とも受け取れる言動を繰り返し行ったのです。ジャンとジョーゼット嬢の結婚を私が認めない理由はジョーゼット嬢の姉であるあなたが過去と現在に渡り就業されている職業について、家族・親族共に容認しかねる事実があるからです。私たちはあなたと親族関係にならないのであれば、あなたの職業選択には関知いたしません。ですが息子の義理の姉になる女性が公言することを憚られる職業を持っておられるならば、今後の子孫の教育にも良い影響は与えられないでしょう。ジョーゼット嬢の迷惑この上ない行為に困り果て、私どもは警察にこの一件を訴え、ジョーゼット嬢には注意・勧告の処分がなされましたが、その後さらに逆恨みのような迷惑行為が続いております。つきましてはあなたからあなたの妹に対して慰謝、及び説得を試みていただけるようお願いいたします。本来であればあなたではなくあなた方のお母様にお願いするべきことなのですが、それが無理であるため、あなたにこのようなお願いをすることとなりました。あなたも含めてジョーゼット嬢に今後一切私たち家族に関わることのないよう、くれぐれも説得していただきたく重ねてお願いいたします。

尚、あなたの説得にも関わらず、ジョーゼット嬢による迷惑行為が続くようであれば、正式な訴えを裁判所にて手続きする所存です。

1955年8月8日アラン・グリボー 敬具


ベアトリスは読み終えた手紙を床に投げ捨て、

取るものもとりあえず、南部行の列車が出るコルヌ駅へ急いだ。


夜行列車に乗り、一日中揺られた疲れもそのままにベアトリスは

懐かしい父の家へ帰り着いた。

夜も更けた時刻の突然の姉の帰郷に驚いたジョーゼットは

 「あんた、何しに帰ってきたのよ」とぶっきらぼうに言った。


「何って・・ジョーゼット、どうしたの。久しぶりに会った姉さんにそんなこと言うの?何があったのか話して、ね?」


ジョーゼットは黙ったままだ。


「ねぇ、ジョーゼット、私ね、あなたの恋人だった彼のお父様から手紙をいただいたのよ、それでここへ帰って来たの。

詳しく訳を話して、できることなら何でもしてあげる、

だから・・・」


そこで、ジョーゼットが怒りに満ちた声で話し始めた。


「ジャンの父親?あのいけ好かない親父があんたに手紙を?

あぁ、何て書いたのか、おおかた察しはつくよ、で、それであんたがここへ来たの?だから何しに来たのさ?」


「ジョーゼット、あなたがジャンって人の家族に何をしているのか私は知らない、でももう止めてちょうだい。これは私のお願いよ。それをお願いしにここへ来たの、どうか分かってちょうだい」


ジョーゼットはベアトリスの顔を睨み付け、それからいきなり彼女の頬を平手打ちした。

「冗談じゃない‼あんたにそんなこと言われたくないね、あたしに娼婦の姉さんがいなけりゃ、あたしは今頃ジャンと結婚して生まれてくる子供と一緒に暮らせたはずなのに!ここじゃあんたが何して稼いでいるのか皆が承知だよ、いつだったか、警察の誰かかが

やって来てあんたがキストンで名前を変えて売春宿で働いている

って触れ回ったのさ。こいつもいけ好かない野郎だった、

あんた、よっぽど恨まれる事をしたんだね、この男にさ。

でも、もうそんなことどうでもいい、あたしはこのまま、

この家で朽ち果てていくさ。あんたが送って来る、なけなしの金を待ちながら。さあ、あんたはさっさと帰って、

あんたができる事なんて何もないから‼」  


そう言ってジョーゼットは部屋から勢いに任せて出て行って

しまった。 


「わかった、ジョーゼット。わかったわ。一緒にキストンへ

行きましょう。あなたもきっと新しい生活ができる、

私ね、始めたい仕事があるのよ、あなたに手伝ってもらえたら

助かるわ、とにかく行きましょう。ここにいてもあなたは幸せに

なれない、それだけは分かるわよね、分かっているでしょう?」


ベアトリスにそう促されてもジョーゼットは力なく椅子に座った

まま、すすり泣いていた。


「あたし、疲れた、もう寝るわ、エヴリーヌ、あんたは長椅子で

寝てくれる?ここには客間なんてないから。」

「いいわよ、じゃ、また明日話しましょう。キストンへ行くこと、考えておいてね」


それがジョーゼットを見た最期になった。

ベアトリスのたった一人の妹は深夜、梁に縄を結び付け首を吊ったのだ。遺書はなかった。

ベアトリスにくっついて、泣いていた小さな妹を思って彼女は

泣いた、大声を張り上げて、床に突っ伏して固い床板を両の拳

で叩きながら泣き喚いた。


体の中から全部の水が抜け出たくらいの量の涙を流し出しても、

凄まじい大声で叫んでも、彼女の涙と声は枯れることはなかった。


ベアトリスの泣き声が近所の家々に響き渡り、何事かと村人たちがやって来た。

それから縊死したジョーゼットが発見され、次に警察官がやって

来た。

他の村人たちにも何が起きたかすぐに知れ渡り“呪われた家”だと口々に噂が流れた。

それでもベアトリスは、体面から彼女の為に働きたがらない村人に通常の倍額を支払ってジョーゼットの埋葬を済ませ、不幸な思い出しかない村を後にしてキストンへ急いで戻った。


 そしてマルタンから借りて手を付けずにいた現金と自らの貯金

全額すべてを持って元夫ヤニックが住む家、キストン郊外、

サン・クロードに向かったのだ。


ベアトリスと離婚してからもヤニックの生活は乱れたままで

自暴自棄な暮らしが続いていたが、 ベアトリスのことを常に心配して折に触れ連絡を取り合っていた。


そのベアトリスが突然やって来て多額の現金を見せて単刀直入に

ヤニックに頼んだことは彼を心底驚かせた。


「ここに五千フランあるわ、これである男を再起不能にして

欲しいの。 殺しては駄目よ。

生かしておいて死ぬまで苦しみが続くようにして欲しいのよ。

あなたが直接手をかけなくてもいいわ、誰かに頼んで。

お金の為なら何でもするような誰かを雇ってやらせて。

いい?これが計画的な事だって分からないようにしてちょうだい。絶対に。」


たとえどんな理由があろうともヤニックにはそんなことは

できない、彼は警察官なのだ、うだつの上がらないままでいても

警察官なのだ。


少なくともまだ、彼にはその誇りがあった。


「一体何の話だ、何のためにそんなことを俺がしなきゃいけない?

お前、どうかしちまったのか?何があった?」


「あなた、覚えているわよね、シルヴァン・ポワンソーって

男の事、その男が私の妹と生まれる筈だった私の姪か甥を

殺したのよ」


「何だ?何の話だ?シルヴァンって・・・」


数年前、ヤニックが停職処分になった時、殴った相手の名前が

シルヴァン・ポワンソーだ。


しかし何故その男がベアトリスの妹を殺すのか、ヤニックには話の内容が全く理解できないままだった。


ベアトリスは至極冷静な顔で、ボウボワ村で起きたことをすべて

包み隠さず話した。

ヤニックはベアトリスの話を最後まで真面目な顔で聞いていた。


「ああ、シルヴァンか、俺の赴任先、行く先々で嫌な噂を流して

いつも俺の仕事の妨害ばっかりしやがって、しまいには俺の堪忍袋の緒が切れて、思い切りぶちのめしたら、上役に泣きついて俺を

つぶそうとしやがった・・・。そうさ、殺したいくらい嫌な男だ。でもお前は何でボウボワ村に来た警察官がシルヴァンだって

分かる?」


「最初は分からなかった。ジョーゼットが言った“キストンから来た警察官”は、私に言い寄っていたあなたの同僚だった。

あなたと同様、私の過去も知っていたのよ。

とにかくどう考えても、私を恨んでいるのはその男しか

いないのよ。」


「俺と結婚する前に?・・・・お前はそれを俺に隠していたのか?そんな脅しを見逃していたのか?それを知っていたら俺だって他にやれることがあったのに‼」


「見逃していたわけじゃない、あの男にはもうこれ以上関わりたくない一心だった。あなたは知らないのよ、ああいう陰湿な輩が、

どんな風に女達を脅すのか・・・。」


ヤニックは頭を抱えて押し黙ってしまった。それからゆっくり顔を上げて、ベアトリスの手を取りながら言った。


「ベアトリス、お前が俺に頼んだことは犯罪だ、分かるか?

お前は警察官の俺を犯罪者にしたいのか?

お前はただ復讐したいだけだろう?だったら頼む相手が違うぞ。」


ベアトリスには断られるのは予想のうちだった、しかしそんな事では彼女の心は揺るがない。


「ヤニック、私はあなたを犯罪者にしたい訳じゃない。

シルヴァンがやった事こそ犯罪よ。でも誰にも裁けない。

何故って彼が警察官の権威を利用したからよ。そして最も弱いものがいつも標的になる。私はあなたにその制裁を頼んでいるの。

あなたならできるわ、だからあなたにお願いしているのよ。

昔私を救ってくれた男にね」


ヤニックはその時、今まで彼の心にずっとあった霧が、突如晴れるような感覚を覚えた。


一体誰が彼の家族にベアトリスの過去について誰も知りようがない事を“告げ口”したのか、そして何故彼の職場、赴任先で必ず誰かが見下したような態度で彼を蔑むのか。


(奴だ、シルヴァンだ。あいつが俺を陥れようとベアトリスの事を言い触らしていたのか。俺の人生まで壊そうとしてやがった。)


ヤニックは彼を見つめるベアトリスを、彼がかつて生涯共に

生きようと決めた女をつくづく不運だと思った。


そしてもうたくさんだ、終わりにしなければ、と思い至った。


ベアトリスの言う通り、誰かが止めなければ不運はまだ続くかもしれない、と悟った。


「わかった、お前の望む通りにしてやるよ、だが俺一人でやる。

金は要らんと言いたいところだが、格好つけても俺が不甲斐ないのはお前にはバレてるから、もらっとくよ。退職金だ。

警察は辞める、もう潮時だろう。俺はやると言ったらやるから

後は任せとけ。だから今日はもう帰れ、俺は今から色々することがある。」


「わかったわ、あなたにお任せする。事が済んだら私に教えて。

どうやったかもね。じゃ、私はこれで帰るわ」


ベアトリスはそう言って現金をそのまま置いてヤニックの家から

出て行った。


それから一月も経たない間に、シルヴァンはキストンから

少し離れたヴィルシャルムにある病院に入院した。


シルヴァンは、自宅がある集合住宅内の階段から足を滑らせて

転がり落ち、頭を強く打って意識を失って倒れこんだ。


その大きな音に驚いた一階の住民が倒れているシルヴァンの為に

救急車を呼んだが、その住民はシルヴァンが足を滑らせた六階の

階段の踊り場で、ヤニックが息を潜めて隠れていたことまでは

気が付かなかった。


入院した彼に付き添った彼の家族が、勤務先に離職願と共に

提出した医師からの診断書は次の通りであった。


診断書  患者名 シルヴァン・ポワンソー様   

生年月日 1922年2月11日

【病名:頭部外傷による脳挫傷】

帰宅時、集合住宅内の階段で転倒、落下した際に頭部を強打、頭部に外傷を負い脳挫傷発症。意識障害、運動麻痺、失語症、感覚障害、けいれん発作が続き回復までにおよそ半年間の入院見込み

※ 要機能回復訓練、退院後の職場復帰は不可能。自宅にて機能回復訓練を続行すること。

1955年 9月23日 ジャン・ ポール・トリスタン病院 

脳外科医・ピエール・ドゥ・キャダイアック


その後ヤニックは退職した。ベアトリスに貰った金で身辺業務専門の警備会社を興し独立した経営者になった。


自宅兼事務所とした新しい住まいにベアトリスが花束を持って

やって来た。

ヤニックは彼女が持つ真紅の薔薇を見て昔を思い出し、泣きたく

なるのをこらえながら、いきなりベアトリスにこう切り出した。


「ベアトリス、やり直さないか?今度は真面目に働いてもう暴れ

たりしない、約束する。絶対だ。」


ベアトリスはフッと笑って

「そうね、私と別れて喜んでいるあなたのお母さんに何て言う?

この話はもう何度もしたわよね、忘れた?

私たちはもう終わったの。夫婦じゃなくなってもこうやって

時々会える関係ならいいじゃない、ね?」


「違う、そんな事じゃない、俺はただ、一日の仕事が終わって

から、お前がいる家に帰りたい、たとえお前が俺を待っていてくれなくても、お前がいる、俺と暮らしている家に帰りたい‼」


ベアトリスはヤニックの真剣な眼差しに、彼の切なる心情を見る

思いがしたが、かける言葉が見つからず、ただ俯いた。


ベアトリスの暗い顔を見てヤニックは、彼女にはもうやり直す

つもりなど全くないのだ、と今更ながら感じ取った。


「いいよ、気にしなくて。ちょっと言ってみたかっただけだ。

 懐かしくなったのかな、昔の若かった頃が。」


ヤニックはそう言ってにやりと笑った。 

ベアトリスは辛くなる以外何もできず、ヤニックの肩にそっと手を置き、か細い声で「さようなら」とだけ言って足音を忍ばせ出て

行った。


部屋の中で一人になったヤニックはベアトリスが閉めた扉を

見つめていたが、急に眼をそらし、傍ににあった葡萄酒の瓶を掴みグラスに注いで、その杯を飲み干した。


ヤニック自身にも分からなかった。温厚だった彼が

ベアトリスと結ばれて幸せになる筈が何故、不幸になる道を

突き進み、二人の関係が終わってしまったのか、

ヤニックは頭を振り、黙ったまま葡萄酒を飲み続けた。


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