イザック・ラビィノヴィッチ
1967年、 ベアトリスはヨゾティス川が見渡せる小高い丘状の街角に小さい画廊を買い取り“黒猫”という店名を付けた。
“黒猫は魔法の猫なので、餌を与えて敬意を持って接する飼い主
には幸福をもたらす”という格言をベアトリスは信じて雄猫の黒猫を探して引き取り、天使の意味を持つ“アンジェリク”と名付けて
画廊の主にした。
介護施設に入居させた愛人のマルタンの隠し財産を、この画廊の
購入金額に充て彼女は念願を叶えて画廊経営者になった。
彼女が画廊の店内を見渡すと、陽光溢れる窓辺に座った黒猫
アンジェリクが小さな薔薇の花びらのような舌で小豆色の肉球を
掃除しているところだった。
ベアトリスは、その光景にほんのひと時の幸せを感じて、
滅多にない穏やかな気持ちになった。
翌年、1968年5月のある朝、展示会の準備がひと段落
ついた頃、ベアトリスは画廊の一角にある椅子に座ってコーヒーを飲みながら、いつも読んでいる新聞の中のごく小さな記事に
目を留めた。
【キストン市の穏健な医師、イザック・ラビノヴィッチ氏、南部ベルラック州 カニヨン村に3000フランの多大な寄付、村民の過去の力を讃える】
去る5月3日、キストン市在住の医師、イザック・ラビノヴィッチ氏がベルラック州・カニヨン村に3000フランを寄付しました。多額の寄付の理由はラビノヴィッチ氏と彼の家族が1940年に
この村の人々によって匿われ、執拗な敵軍の追跡を逃れ家族全員で終戦を迎えられたことに感謝の気持を示したかったからだと氏は語りました。何故、ラビノヴィッチ氏がカニヨン村から生還できたのか、本誌記者との対談により明らかになったラビノヴィッチ一家とカニヨン村の住民との心温まる美しい物語を、これから五回連載でお届けします。この対談記事を企画したカニヨン村長はこの寄付に対して大いなる謝意を表明しラビノヴィッチ氏とその家族をこの夏休みにカニヨン村に招待したいとの意向を示しています。
ベルラック州はフランス南西部にあり、ベアトリスが生まれた南東部のボウボワ村からかなり遠く離れた位置にある。
ベアトリスは最初、習慣的に流し読みしていたのだが、
1940年代に南部の家に匿われて命を救われた家族、という題に興味をそそられ、再度この小さな記事を読んでみた。
その後、ベアトリスは記事の後に続く写真を見てしばらく
呆然とした。
そこにはラビノヴィッチ氏と彼の家族が村民と映っている1940年当時の写真と、1968年現在の彼と家族の近影があった。
ベアトリスは1940年当時の家族の写真に映っている一人の少女に目を奪われたのだ。
(あの夏の暑い日、ボウボワ村の森の中で、あの納屋の近くで
会った女の子がいた・・・確か・・・。)
今にも泣き出しそうな悲しそうな顔でこちらを見ている、怯えた表情の小さな女の子、ベアトリスは目を瞑り、呼び覚まされた記憶をもう一度辿り、再び写真の少女を見てみた。
(あの時の女の子にそっくり・・・。でも同一人物かどうかなんて分からないわ、こんな小さな写真だもの。)
ベアトリスには寄付金云々の記事はどうでもいいことだった、
彼女はこの時、今まで感じたことのない気持ちの悪さにいたたまれなくなり、思わず立ち上がって窓の外を見た。
(あの夏の日もこんな風に青い空だった・・・。)
ベアトリスはあの日の記憶、乾いた薄い木の葉のような記憶の欠片を、壊さぬようにそっと持っていた。
それはまだ、ベアトリスが愛を疑うことなく信じていた時代、
いつもの森の散歩道、彼女の父が祖父から譲り受けた森の
見張り小屋、今では廃屋になって“納屋”と呼んで朽ち果てるばかりに放っておいた、小さな木の小屋、エヴリーヌはここが大好きで
よく一人でやって来ては、歌を歌い、お姫様を装って踊ったりして遊ぶのが好きだった。
ここには村人はやって来ない、納屋以外は村の所有で、誰が入って来てもお咎めなしにも関わらず、この付近は誰からも忘れ去られた地になっていた。
だが、あの日エヴリーヌはそこに、人の気配があると気が付いた。
お化けがいるかと思いながらも、ひるまず近付いて確かめようと
したら、納屋にかけられた木の梯子に小さな女の子が座っているのが見えた。
エヴリーヌは、その時、咄嗟にこう思った。
(天使の化身がいる、あそこに・・・)
そして天使が口を開いた。
「こんにちは、今日は良いお天気ね。」
おかっぱ頭の丸い目をした可愛い女の子だった。
エヴリーヌは天使の正体が人間の女の子だと分かって気落ちしたが、とにかく返事をした。
「こんにちは、あんた誰なの?ここで何しているの?」
そう聞かれた女の子は目を伏せたまま、悲しそうな声で答えた。
「それは言えないの。言うと殺されるって、お父さんがいつも注意するから言えないのよ。」
エヴリーヌには、どこかの国の誰かが決めた“絶滅計画”の事は
分からなかったが、この小さな女の子に命の危険が迫っている様子は、はっきりと感じ取れた。
「そう、分かった。あたしはね、エヴリーヌっていうの。
ボウボワ村に住んでいるの。それで、あんたは・・・」
「あたしね、この森が好きなの。ずっとここに住んでいたい位。
でも、もうすぐ船に乗ってアメリカに行くの・・・。」
「アメリカ?ふうん、で、あんたは一人なの?他の家族は?」
「うん、それは言えないのよ。ごめんなさい。」
「いいよ、謝らなくて。人それぞれ事情があるって、いつも父さんが言うもの。」
「そう、それよ、“それぞれ事情”があるの。」
そして二人は笑った。森の木漏れ日が少女たちの顔に光を投げかけていた。
「ねえ、あたしの家に遊びに来ない?」
エヴリーヌが、笑いながらそう問いかけた時、その女の子は突然
梯子から飛び降りて、納屋の向こう側へと一目散で駆けて行った。
エヴリーヌは脱兎のごとく消えた少女を追いかけて走る気にも
なれず、すごすごと来た道を戻った。
そして、この少女に出会った事を誰にも決して話さなかった。
“言うと殺される”その言葉から連想される恐怖がエヴリーヌの記憶を封じ込めた。
そして、あの納屋が焼け落ちた時、焼け跡には何も無かったと
聞いて彼女は安堵した。
あの女の子が、また森にいて、火事に巻き込まれたかもしれないと、人知れず心配していたからだ。
そして、やはりあの子は森に住む天使だったのだと思う事にした
のだった。が、しかし事実はまるで違う。
オーギュストが人知れず納屋の中だけを改築して、大人2人と子供2人、計4名の家族を匿っていたのだ。
(あの時の女の子、家族と納屋に隠れていたのよね、火事の後、
家族全員行方不明になったって聞いたのに・・・。
無事に違う村に逃れて、最終的に匿われていたのが、このカニヨン村だった、それなら、この写真の女の子と同一人物だっていう説明が付くけれど・・・でも、それならボウボワ村についても何か言う筈じゃない?)
エヴリーヌはすぐに新聞社に電話をかけ記事の詳細を確かめた。
「ラビノヴィッチ氏がボウボワ村にいたことは?彼等を匿った家族はカニヨン村以外にもいたのでは?」
ベアトリスの問いに担当者は「わかりません」と答えるばかり
だった。
次に、ベアトリスは次に図書館で名士目録を調べてみた。
3000フランを寄付するような人物ならきっとラビノヴィッチ氏の経歴が掲載されているはずだ。
もしかしたら、ボウボワ村にも滞在していた過去が載っている
かもしれない、そう期待して名簿をめくってみると、確かにそこに名がある、しかしベアトリスの知りたい内容ではなかった。
【イザック・ラビノヴィッチ・内科医
(ロシア名:レオニード・アキモフ)
1900年ロシア・モスクワ州エブリエコスクで誕生、1903年ポグロムにより家族を失い、養子縁組でドイツに移住、1920年医学の道に進むためフランスに留学、1928年フランス医師免許取得。1930年ユダヤ系ポーランド人・エスター・スロニムスキーと結婚。1931年長女サラ誕生。1934年長男サミュエル誕生。1950年キストン市内で診療所を開設、現在に至る。】
(これだけ?これだけじゃ何も分からない・・・)
ベアトリスは今朝新聞記事を見た後から続く、泥沼に足を取られたような気持の悪さをどうしても払拭したかった。
ラビノヴィッチ氏が自分の家族と関わりのない人物なら、もうこの事は詮索しないようにしたかったのだ。
(ラビノヴィッチ一家が、あの納屋に匿われた家族だったかどうか、それが知りたいだけなのに、これじゃ埒が明かない。
こうなったら・・・。)
ベアトリスは、ラビノヴィッチ氏の診療所に電話をかけて
明朝10時に予約を入れた。
ラビノヴィッチ氏の診療所は新興住宅と戦後の復興事業で建て
られた住居が混在する二十区内にあった。
ミヨゾティス河が流れるキストン市中心部からは遠く離れた
場所だ。
予約した当日、ベアトリスが診療所に着いて、待合室に入るとそこにはすでに5人ほど待っている人たちがいた。
予約の時間から40分くらい過ぎた後、やっと名前が呼ばれて
ベアトリスが診察室に入ると、白衣を着た初老の男がベアトリスを見ながら穏やかに話しかけてきた。
「ドゥクロワさん、今日はどうしたかな?」
ベアトリスは白衣の男、ラビノヴィッチ氏の前の椅子に座り
ゆっくりこう言った。
「ラビノヴィッチさん、覚えていらっしゃったら教えていただけ
ませんか?
1940年の事です。私の父オーギュスト・ドーファンが、
あるユダヤ人の家族を匿い保護していました。
それがラビノヴィッチさんの家族だったかどうか、それを私は
どうしても知りたくて伺いました。」
ラビノヴィッチ氏は全く理解できない、という顔をしてベアトリスに聞き直した。
「ドゥクロワさん、あんたの言っていることは私にはよく分からない、昨日だったか、新聞に私の記事が出てから、何かと聞きた
がったり、言いたがったりする人がいてね、電話もかかってきた、私としては迷惑千万だ。善行をして人から迷惑行為をされるとは。あんたもそうかね?」
「いいえ、違います。私もあの記事を読みました。
だからここへ来たのです。私の父の事、覚えているかどうかだけ
教えてください。それが分かったらすぐに帰ります」
「あんたの父親?その人が私に関係があるのか?
戦時中のことは誰にも話したくない。あんたに言っても仕方がないが、もう関わりたくない、さぁ、もう帰ってくれ。
ここは私の患者の為の診療所だ、あんたの父親の思い出話を語る
ところじゃない。」
ベアトリスはこんな結果を期待していたわけではなかった。
もしラビノヴィッチ氏があの家族の中にいたのなら、
父オーギュストのことをほんの少しでも覚えていて欲しかった
だけだ。
ほんの一瞬、脳裏に浮かぶ程度で良い、感謝も労いも要らない、
オーギュストの生きていた頃の姿を、ほんの束の間でも思い出してくれたなら、それを弔意として受け止める、助けた命に悼まれた
なら、彼の死は決して無駄ではなかったと思えるはず、ベアトリスはそう信じようとしていた。
少なくともこの初老の医師と対面するまでは。
「わかりました。人違いだったようですね。私の父が助けた方が、もしあなただったなら父を覚えているかどうか知りたかっただけ
です。お邪魔しました。」
そう言って立ち去ろうとしたときラビノヴィッチ氏が突然怒りに
満ちた低い声で話し出した。
「そう、その話だ。お前たちは金が欲しいのだろう、
あの時匿って助けたのは私だと言って、金をせびる。
もうたくさんだ、カニヨン村には金を払って何故うちには無い、と言いたいのだろう。だから新聞に出すのは嫌だった。無知な連中の餌食になるのは真っ平だ!」
ベアトリスの心が怒りに震えた。
もうラビノヴィッチ氏が父オーギュストの助けで生き延びられたのかどうか、そんな質問をする気など消えて無くなった。
あるのは憎しみ、怒り、軽蔑、蔑み、あらゆる毒がベアトリスの
心を取り込んで噴き出した。
「お金ですって?あなたから貰いたいのはそんなものじゃないわ!私の父はユダヤ人の家族を匿って逮捕されて釈放された後、
猟銃自殺したのよ!それが原因で母は行方知れずになって
妹は首吊り自殺した、あなたが逃げおおせたのは一体誰が助け
たからなの?あなたは自分の身を顧みず助けてくれた人を無知だと罵るの?この恩知らず‼あなたが今日生きていられるのは私の父があなたを助けてあげたからじゃないの‼受けた恩も忘れるなんて、恥知らずだわ‼私はあなたからお金じゃなくてあらゆる幸せを
奪ってやる!!」
「何を言い出すかと思ったら・・・・私はお前の家族なんか知ら
ない、さっさと帰れ!」
その時、ベアトリスはラビノヴィッチ氏の机に飾ってあった大きな写真立てに目を向けた。
そこには十歳前後の少女の写真、笑顔を見せずに悲しい表情をしている女の子の姿があった。
ベアトリスはそれを見て確信した。
(見つけた、あの時の女の子、確かに見つけた!)
ラビノヴィッチ氏がベアトリスを夜叉の眼で睨み付けている、
ベアトリスは彼のその眼を見据え、何も言わずに部屋を出て
行った。
診療所からの帰り道、ベアトリスはラビノヴィッチ氏を
抜け出すことなど出来ない無間地獄に落とす方法を鬼の形相で
考えていた。
一方、イザック・ラビノヴィッチはバクバクと高鳴る心音を感じ
ながら、是が非でも新聞記事を止めなければ、と焦燥感に駆られ
ていた。
そして彼を脅して帰った女の名前を改めて確認してみた。
(ベアトリス・ドゥクロワ、彼女は彼女の父を
オーギュスト・ドーファンだと言った・・・。
オーギュスト、誰の事だ、猟銃自殺だって?そんな話は初耳だ。
一体この私にどうしろと言うのか、あの女は・・・
例えその話が本当だったとして何故今更感謝を求めてくる?
命を助けた?確かに助けられた、だが感謝を求められても
何も覚えていない、もうたくさんだ、忘れてしまった事を
今更・・・。)
ラビノヴィッチ氏は、ため息をつき、頭を振って次の患者の名を
呼んだ。
イザックはその記憶力と理解力、分析力の高さから、国内の有名
大学医学部で優秀な成績を修め、病院勤務の医師となった。
その後、紆余曲折を経て地域と市民に貢献するため、として富裕層の暮らす街から遠く離れた街で診療所を始めた。
診療費が直ぐに払えない者には、支払いを延ばして、次の給料日迄待つという、低所得者への配慮をし、支払いが遅れても決して催促しなかった為、親切な医者ということで毎日多くの患者が訪れ、
診療所はいつも満員だったがラビノヴィッチ家の家計はいつも火の車だった。
ラビノヴィッチ氏は戦時中に受けた恩を忘れず1950年、
彼が診療所を開設した年からカニヨン村に寄付金を送り始めた。
当初は少額だったが、少しずつ寄付金額を上げながら18年が
経とうとしていた頃、カニヨン村の村長から彼の自宅に電話が
かかってきた。
ラビノヴィッチ氏は匿名希望で寄付金を送り続けていたのに、
名誉欲に駆られた村長はラビノヴィッチ氏の個人的理由を無視
して、是非とも大衆新聞紙の連載記事にしてあなたの寄付による
功績を称えたい、と言い張った。
そしてラビノヴィッチ氏の明確な承諾を待たずに5月3日の朝刊に、例のもったいぶった記事を載せてしまった。
この村長は前年の選挙で初当選した新進の政治家だった。
寄付金の用途すら説明しなかったこの村長の希望、ありていに
言うと目論見は、寄付金についての美談を新聞の連載記事にして
掲載し、カニヨン村の知名度を上げ、観光業を興し公共事業を招致すること、
州から村への予算額を引き上げる事、それによって五年後の次の
選挙で確実に再当選すること、だった。
ラビノヴィッチ氏としては、こういった政治的な影響を避け、
できるだけ穏便に、できれば感謝の印としての寄付は個人宛に
したかったが、当の本人、つまりカニヨン村で1940年から
1945年の終戦後まで、ラビノヴィッチ一家を匿って保護して
くれたテオドール・バラケとフランソワーズ・プティ、清貧の民である老夫婦に「金銭は我々でなく、もっと必要とする人たちに
送ってください」と固辞された。
どうしても感謝を形にしたかったラビノヴィッチ氏は村の為に
なり、ひいてはそれが彼らの為になるのなら、とカニヨン村宛に
送金することにしたのだった。
ベアトリスの言った“ボウボワ村”のことはラビノヴィッチ氏の記憶にはなかった。
知能の高さを誇る彼の頭脳であっても、最早、何の記憶も残って
いなかった。
何故なら、カニヨン村に辿り着くまでラビノヴィッチ一家は
五つの村を盥回しにされたからだ。
当時の状況でユダヤ人の家族四人を引き取って匿うことは
誰にとっても難し過ぎた。
盥回しにされた村々では、その場で卒倒するくらいの恐怖を一秒
ごとに味わった。
妻のエスターは母国語のポーランド語しか話さなくなり、
息子のサミュエルは夜驚症を発症し、娘のサラは無表情のまま、
一言も話さなくなった。
刻々と精神が追い詰められていく妻と幼い子供二人を抱えた一家の柱であるラビノヴィッチ氏は何が起きようが、どうしても倒れる
わけにはいかなかった。
そして六つ目のカニヨン村でテオドールとフワンソワーズに
引き渡された。
彼らは一切何も聞かず、まるで旧知の友を招いたかのように笑顔で
ラビノヴィッチ一家を迎えてくれた。
テオドールとフワンソワーズの息子、マテオが反戦運動の活動家であるが故、両親はただひとえに息子を信じて願いを聞き入れた。
そしてラビノヴィッチ一家はやっと地獄の逃避行から人間の住む家に戻ることができた。
テオドールとフランソワーズはラビノヴィッチ一家が違う星から
来た異星人であっても、きっと笑顔で迎え入れただろう、
ラビノヴィッチ氏がこの夫婦のことを、後にこう思い出すほど
彼らは温厚篤実な人柄の持ち主だった。
祖母と祖父の愛情を知らずに育ったサラとサミュエルは殊の外、
この夫婦に懐き、おじいちゃん、おばあちゃんと呼ぶようになり、肉親の温情を知らずに育ったラビノヴィッチ氏には、この五年間の経験がこれからの人生を強く生き抜く為の心の拠り所に
なったのだ。
こういった事情を知らないベアトリスにとってラビノヴィッチ氏の記憶の忘却は耐え切れぬほど許し難いことだった。
ラビノヴィッチ氏にとってベアトリスに起きた不幸は与り知らぬ
ことだった。
ラビノヴィッチ氏との邂逅の後、ベアトリスは考えた。夜も眠らず考えに考え抜いた。
(どうすれば、あの男を、恩知らずのあの男とその家族を破滅させることができるのか?信用も絶大な医師のラビノヴィッチ氏をどうやって失意の底に追い詰めることができるのか?)
考えても空回りするばかりの頭を抱えてベアトリスは元同僚の
シモーヌに会いに十三区のガソン通りに出かけた。
シモーヌは現在、高級下着専門店の経営者である。
この店の出資者はベアトリスだ。
店に入ると、薄青色の壁に乳白色の家具類を設えた中で、濃い紺色のツイードの服に身を包んだシモーヌが微笑みながらベアトリスを迎えてくれた。
「久しぶりじゃないの、ベアトリスったら元気だったの?
最近ちっとも来ないから」
「ちょっと忙しかったのよ。それより店はどうなの?」
シモーヌは返事をする前に急いで陳列棚の上にあるラジオの電源を点けて周波数を合わせた。
「いつもの放送が始まっちゃったわ」
ラジオからいきなり大きな声が聞こえてきた。
♪・・・・今日のキストンは爽やかな5月の風が吹いています。
皆さんの街ではいかがでしょうか。
では、早速心地よい風の吹く金曜の午後にぴったりの軽やかな歌声をお届けします。
本日の一曲目はフランソワーズ・アルディの「さよならを教えて」です。♪
シモーヌはベアトリスがいる事も忘れてラジオに聴き入っている。
ベアトリスは仕方なく「ね、シモーヌ?私あなたに話したいことがあって来たのよ?」
「だって、私このラジオ、毎週楽しみにしているのよ。
え?話したい事?これ聴いてからじゃ駄目?」
ベアトリスはフゥとため息をついた。
その時ラジオからはまだ歌が流れていた。軽快な歌声だが歌詞の
意味はベアトリスにとって決して軽くは聞こえなかった。
♫どうやってあなたに別れを告げたらいい?♬
ベアトリスはラビノヴィッチ氏に対する例の計画を最初からまた
考え始めた。
その時、店の扉が勢いよく開いて一人の女が入って来た。
「こんにちは。シモーヌ。」
「あら、こんにちは、ファティマ、今日もお願いね。」
ファティマと呼ばれた女は掃除婦だった。
慣れた手つきで道具を用意し静かに店内の掃除を始めた。
ベアトリスは何という事もなくファティマを見ていたが、突然立ち上がった。
「シモーヌ、今日はこれで帰るわ、私これから用があるから。
また今度ゆっくり。」
そう言ってシモーヌとファティマを振り返ることもなくそそくさと店から出て行った。
ベアトリスは画廊に帰り着くとすぐに、ラビノヴィッチ氏の自宅に電話をかけた。
応対したのはラビノヴィッチ氏の妻エスターだ。
ベアトリスはできるだけ高い声で丁寧に彼女に話しかけた。
「こんにちは、奥様。今日は良いお知らせがあります。
私どもの会社ではお宅を清潔に美しく保つ為に経験豊富な家政婦をご希望のお客様のお宅に随時派遣しております。
今なら一か月間無料でお試しいただけますが、奥様のお宅では
もう家政婦をご利用でしょうか?」
「家政婦ですか?いえ宅では使っておりませんし、使う予定も
ありません。宣伝のお電話でしたらお断りします。」
エスターは優しげだがきっぱりとした声でそう断ると電話を
切った。
それからベアトリスはシモーヌに電話をかけて
「家政婦の仕事を探している人を知らない?」と尋ねた。
「今朝は悪かったわね、家政婦を探しているって?
あら、用ってそれだったの?」
シモーヌは笑いながら機嫌よくベアトリスの頼みを聞いてくれた。
シモーヌからの返答を待つ間、ベアトリスは頭の中を整理し
始めた。
ベアトリスは家政婦をラビノヴィッチ家に送り込んで内情を探り、そこから一家の弱みを追及して全滅に追い込む計画を立てた。
(今の段階では、まだ先は見えない。でも必ずやり遂げる。社会的地位では医師のラビノヴィッチ氏には敵わない、でも私は決めたのよ。何があっても負けない、絶対にやり遂げて見せるから。)