ジル・ヴィルヌーヴ、エマ・ヴィルヌーヴ
タルティーヌが突き落とされた部屋はアナイスの曽祖父、ジル・ヴィルヌーヴが1850年代に建設した地下室だった。当時、高額の税金の納付に頭を悩ませていたジルは、秘密裏に食料の貯蔵庫を拡張して地下室を造った。
現状の家屋に建て増しすると、高額の税金に更に課税されてしまう為、外部からは見えないように地下に部屋を増設して納付義務を隠匿したのだ。ジルの先代の持ち主が造った当初の貯蔵庫は大人二人が入る位の、床下縦横約二メートルの大きさで梯子を使って降りるだけの簡素な作りの食糧保存用の部屋だった。
ジルが拡張した地下の部屋には当然窓は無く、広さは約二十平方メートル、最も奥まった壁に観音扉が付いた大きな棚があった。ジルはこの棚の背面部分を外し、壁をくり抜いて外に通じる扉を付けた。地下室から外界へ通り抜けできる秘密の扉だ。
これは縦横一、五メートルの開き戸で、開けると地面が現れる、そこは筒状の穴になっていて、取り付けられた小さな木製の梯子を登ると地上に出る、外側の穴には木の板を置き、その上に藁を敷き詰めて蓋の代わりにして穴の存在を隠した。
地下室内側の隠し扉は棚の存在に遮られ、一見するだけでは分からなかった。棚の観音扉を開け、空洞の棚の内部に入ると、壁に付いている隠し扉に気が付く。この隠し扉の鍵はジルが保管しており、彼の妻のエマでさえ、その鍵の所在を知る事はできなかった。
ジルの妻、エマは夫ジルとの間に二人の子供を儲け、毎日休みなく働き続けて家計を支えていた。ジルは大工の仕事を請け負っていたが、収入が不定期で安定しなかった為、エマが借金して牛を三頭買い、手作りのバターを作って週に一度の朝市で販売し、少ない売上金で家族全員を養っていた。
エマが作るバターの評判は上々で、市場では必ず売り切れになった。しかし完売になっても牛三頭分の牛乳から一人でバターを作る労力には全く及ばなかった。しかし価格を上げると、客は離れていく、この板挟みの中で、エマは毎朝日が昇ると同時に起きて夜中まで働いた。
毎朝、牛の世話から始まって、生乳絞りからバター作りにかかる。
長いバケツ状の木製の樽に生乳から摂った乳脂肪を注ぎ、撹拌棒、長さ約1メートルの棒の先に多数の丸い穴が開いた円盤状の板が付いている棒でひたすら掻き続ける。
何時間も黙々と全力で掻いていると、乳脂肪、つまりクリームに含まれる脂肪粒子がバターミルクと分離していく。この脂肪粒子が徐々に凝集してバター粒子に変わる。
この後、樽からバター粒子を取り出して樽を綺麗に洗い、再びバター粒子を注ぎ入れ撹拌棒で掻き続けてバターミルクを取り除く。
この作業を繰り返すうち、樽の中にはバターミルクと完全に分離した薄い黄色のバターが出来上がっている。
この薄黄色のバターを容量ごとに木製の型に詰めて固め、一つずつ丁寧に仕上げてエマの特製手作りバターの完成だ。塩加減は強・弱・適量と客の要望に応じて調整する、これらの作業をエマはすべて一人でこなしていた。
加えて子どもの世話に、炊事、洗濯、水汲み、日常生活の細々した仕事を全部一人でこなして、 やっと一日の作業を終えた夜中に、寝台に沈み込むように身体を横たえると、隣で寝ていた夫が手を伸ばしてきて彼女の腰をまさぐるのだ。
エマは疲れ果てていたが、当時の女性のほとんどがそうであったように、他の選択肢も知らず、これが人生なのだと思っていた。不満は大いにあったが、労働に追われる日々の中で、我が身の辛さを嘆くほどの時間も心の余裕もなかった。
が、しかしジルが地下の貯蔵庫を拡張して作った地下室の使用用途に関しては、全く納得していなかった。
ジルは夜半、妻と子供が寝静まった頃を見計らい、こっそり地下室の秘密の扉から森への抜け道へ出て、森の奥にある狩猟用の見張り小屋を訪れていた。
小屋の中には木製の小さな寝台と机と椅子が置いてあり、大人一人が寝泊まりできるように整えられていた。毎夜ジルが小屋に着くと、そこには既に蝋燭のほのかな灯りがともっていて、寝台には思わせぶりな姿態のカミーユ・ドーファンが寝そべっていた。
彼女はジルの幼馴染であるジャン・ルイ・ドーファンが最近結婚した十八歳の、とても蠱惑的な女性で、ジルとの密会を刺激的な遊びの様に楽しんでいた。初夏に始まったこの密会が、短い秋を過ぎて季節が冬に変わった頃、ジルは地下室を客間の様に設え始めた。
そして冬が終わり、翌年の短い春も過ぎて夏が訪れた頃、ジルはカミーユと地下室で逢瀬を重ねるようになった。
カミーユの夫、ジャン・ルイ・ドーファンは適齢期を過ぎてからも長い間独身だったが、両親が決めた美しい少女、カミーユとの縁談を断り切れずに結婚した。
ジャン・ルイは毎晩、新妻カミーユと同じ寝台で眠るのだが、どうしても彼女と関係を持つことができなかった。
妻からは「役立たず!」と罵られ、両親、義両親の両方から「子供は出来たか?」と聞かれ、ジャン・ルイは悶々とする日々を送っていた。
その内に、ジャン・ルイはカミーユが夜中に家を抜け出して、朝になって帰って来ることを知り、妻の同衾相手がジルだという事も察知したが、ジャン・ルイは成す術もなく、ただ悶々とするだけだった。
そんなある日、カミーユから妊娠した事を告げられた。
「あたし、親にはあんたの子だって言うわよ、当り前よね、あたし達は夫婦だから。」
ジャン・ルイは何も言わずに黙っていた。だが心の中では喜んでいたのだ。
(ジルの子供!ジルの血を受け継いだ赤ちゃん、もうすぐ、この腕に、この胸に抱ける、ジルの子供・・・。)
ジャン・ルイは、幼かった少年の頃から、ずっとジルに恋していた。狂おしいほど恋焦がれる心を押し殺し、親友としていつも行動を共にしていたのにジルは、あっさり結婚してしまった。
生まれて初めての失恋に心を痛めたジャン・ルイは次第に覇気を失い
ジルとの付き合いも拒むようになってしまった。
その後、悲観に暮れて独り身のままでいた彼の元に両親がカミーユを結婚相手として連れて来た。
ジャン・ルイが彼女と結婚した後、ジルが頻繁に新婚のジャン・ルイの家を訪れるようになり、ジャン・ルイとジルは再び親友として付き合い始めたが、ジルの目的はカミーユを口説き落とす事だけだった。
ジルの妻、エマはジルの放蕩を知ってはいたが、放っておいた。そんな事より日々の暮らしの方が大事だったからだ。
夫が帰ってこなくても、家計にかかる費用を一切無視して遊び暮らしていても、外で起きている出来事ならば我慢に我慢を重ねて諦めようとしていた、だが彼女の目に見える所で、家の中で夫の放蕩三昧を見た時、耐え忍んでいた彼女の顔が般若に変わった。
(あたしの家に?女を連れ込んで?・・・・何だって、あの男は自由に外に出て女に会って、自由な時間に帰って来て・・・・自由自在に家に女を連れ込むのに・・・あたしに、自由はないのさ?何でなんだい?
何で、あたしばっかり働いてさ、あたしが稼いだ金で、その女にまで飲み食いさせてやらなきゃならないのさ!)
ジルは出産後のカミーユを、玄関からではなく、隠した外側の穴から地下室に招き入れ、昼夜を問わない密会を再開したのだ。
(秘密の逢引きだ。絶対に誰にも知られないようにお前も気を付けろ!)ジルはエマに、そう言うと、忙しいエマに言いつけて地下室の掃除や、食事や飲み物の催促をするようになった。
「妻は夫に絶対服従だ。」と常日頃からエマをこき使っていたジルだけではなく、その愛人の要求にもエマは応じなければならなくなったのだ。
憤怒の思いを抱えてエマは周到に準備をした。
(二人が地下室にいる二、三時間で終わらせないと・・・。)
エマがまず用意したのは、高価ではないが、美味しい葡萄酒、祖母から教わった秘伝の方法で調合した夾竹桃の毒、それからバター作りに欠かせない撹拌棒だ。
エマは具体的な計画を一点の漏れもないように何度も確認した。
一 飲み物を持ってくるように命令されたら、すぐさまコップに毒を塗り、葡萄酒の容量に合わせた確実致死量の毒を混ぜ、地下室に降りる・・・。
二 そして二人が酒を飲み始めた事を確認したら、一旦上階に上がって撹拌棒を持って待機する。
呻き声や何かが聞こえ始めても、まだしばらく待ちつつ、いよいよ苦しそうな声が聞こえてきたら、ゆっくり地下へ降りる。
三 悶え苦しむ二人めがけて、撹拌棒の先、固い木の円盤で何度も何度もジルとカミーユを打ち据える。バターを作る時の要領通りに。
四 そして二人の息と心臓の鼓動が止まった事を見届ける。
五 二人の身体はそのままにして、葡萄酒とコップを片付けて、地下室を閉める。
六 撹拌棒は綺麗に洗って元通りにしておく。
七 カミーユの不在を心配して誰かが必ずやって来るはずだから、その時に言う・・・。
「実は・・・夫とカミーユは以前から愛し合っていて、多分、思い余って駆け落ちしたのだと思う。 私は夫が心変わりして帰って来るのを待っている。子供達と一緒にずっと待っている。」
八 悲しそうな顔をして、誰に聞かれても、そう繰り返す。
エマは、この計画一番から八番までを見事にやり遂げた。ジルとエマの恋の逃避行を村人たちは無遠慮に色々と噂し合ったが、当の被害者であるエマとジャン・ルイは至って平穏な気持ちでいた。
噂を鵜吞みにしたジャン・ルイは、去って行った妻より、恋しい人の子供を独り占めできて満足だった。エマは遂に邪魔者を消し、望む自由を手に入れた。
自由を得たばかりか、少なくない収入を得る方法を思い付いて実行した。
手作りバターを買ってくれる女達の中から標的を見つけては誘い、後払いにした料金を貰うエマにしかできない商いだった。
一人目の標的、飲酒中毒の夫の酒代を稼ぐ為に働く女に対して
「あんたの亭主、飲んだくれで今日も家にいるのかい?全くひどい話だ、あんたがこんなに働いているのにさ。ねえ、もう我慢なんておよしよ、あたしが良い方法を教えてあげるから・・・。」
二人目の標的、病気がちで口煩い舅を憎む女には
「お舅さんに手を焼いているって?寝たきりでも口は達者でこき使われているって言っていただろう?あんただって休みたいだろうに。なかなか逝ってくれないのも困るねえ、本人にも、そうは言えないだろうし。あたしなら、こうするって方法があるけど良かったら試してみないかい?」
三人目の標的、精神的疾患の息子の世話に疲れた女に向かって
「毎日大変だね、息子さんの面倒見るのもさ、あんな風に毎度、暴れられたら非力なあんたじゃどうにもできやしないじゃないか。このまま、ずっと面倒見るのも良いけどさ、あんたが死んだ後、あの子はどうなるだろう、よく考えなって。あんたにとって一番いい方法をさ・・・。」
こうしてエマを頼って来た女に、エマは夾竹桃の毒をそっと手渡し、囁くのだ。
「これを飲ませた後、身体がピクリとも動かなくなったら、ここへ持ってきな、後はこっちで何とかするからさ。」
そして夜中に誰かの荷車が到着したら、荷物を運んで地下室へ放り込む、それで完了だ。ほとぼりが冷めた頃に、何げなく代金を請求してこっそりと受け取る。大抵はこれで上手くいった。
中には「脅しだ」と言って怒る者もいたが、エマはひるんだりしなかった。
「ああ、出る所に出てもらっても良いよ。あたしは何だか疲れちまって。
みんなの頼みごとを引き受けるのも楽じゃないからね。良いよ、監獄に行く位はね、人助けするつもりだったからさ。
そう話せば、少しならお情けも貰えるさ。でも、あんた、あんたは自分の息子に手をかけただろう?どの位、監獄にいる事になるかねえ。」
このエマの要求は彼女が亡くなるまで続き、彼女の死後は地下室に消えた者の名を記した名簿が遺族に託された。それ以降もヴィルヌーヴ家による、ゆすり・たかりは村民達の暗黙の了解になり、地下室も引き続き利用される事となった。
エマの曾孫であるアナイスは勿論、ヴィルヌーヴ家の暗黙の掟と秘伝の毒の調合法を継承し、その利点を大いに活用した。過去から現在まで、アナイスが地下室の存在意義を疑う事は決してなかった。