タルティーヌ・キュイジニエ その3
「こんにちは、アナイス・ヴィルヌーヴさん、御在宅でしょうか?」
耳を凝らすと室内からテレビの音声が聞こえてきた。かなり大きな音だった。
タルティーヌが再度、声をかけようかとした瞬間、扉が開いて大柄な老女が顔を出した。
「はいよ、今、四チャンネルの【許されぬ愛の行方】が良い場面でね、用事なら見終わった後で聞くから中で待っていてくれるかい?これを見逃すと再放送まで待たなきゃいけないからね。」
と愛想良く話す女は田舎地方でよく見かける、地味な服を着て、華美な装飾品とは無縁の老年の女性だった。
しかしタルティーヌはアナイスを疑った。疑うのが彼女の仕事だ。
(エヴリーヌの失踪に関しては、この女性だけじゃなくて村の住民全員が疑わしい、いいえ、世界中の人々すべてに殺人、死体遺棄、死体隠匿罪の可能性がある、それを一つずつ玉ねぎの皮のように一枚ずつ剥がして最後の核の部分に真実を見つけるのが私の仕事。でも、それが真実かどうか、犯罪なのかどうかを判断するのは裁判官・・・。)
タルティーヌは覚悟を決めた。
「ええ、もちろん、私は待たせていただきますから」
名前も訪れた理由も告げず、タルティーヌは部屋に入った。アナイスはスタスタとテレビの前の定位置である長椅子に戻った。
(目は心の窓、愛想良くしていても目の端に不快感と恐怖が見える、警戒指数10以上。)
アナイスの観察通り、アナイスはテレビ番組に集中しているようでいて、実はチラチラとタルティーヌを見て様子を伺っていた。片やタルティーヌは悠長に、椅子に座って窓の外を眺める振りをして室内をつぶさに観察し始めた。
(漆喰の壁、塗装が剥げて石壁が剥き出しになっている・・・。日除け用のカーテンが日焼けして変色・・・鎧窓も壊れかけ・・・隣に台所があって、奥にもう一部屋ある。掃除も手入れもしていない、あちこち埃だらけ。それにしても大きなテレビ、新品だわ。内装はボロボロなのに・・・。)
「ところで、あんた、どこの何者なんだい?一体何の用事で、ここに来たのさ?」
テレビを見ていたはずのアナイスが苛立った声で尋ねた。
(彼女は焦っている、この調子。さあ、作戦開始)
「私はスザンナ・ウォン、W.O.N.Gって書くと、皆はウォングさんって呼ぶけれど、私としては広東語の発音を尊重してウォンって呼んで欲しいの。
私の曾祖母、マン・メイが香港生まれのアマ、つまり住み込み家政婦で、雇い主のイギリス人とエトワール島にやってきたのが、十九世紀の後半でね、それから雇い主の子供を産んで、その娘がヴィクトリア、私の祖母ね。
彼女がインドのグジャラート州からやって来た商人との間に子供を儲けて、その子が私の母、ラニっていう名前、ヒンディー語で女王様っていう意味なの。
母のラニがセネガル人の電気技師と結婚して生まれたのが私、曾祖母が「ウォン」って名前は代々守り抜くように言い残したらしいから、私は結婚しても姓は変えないつもりなの。
とは言っても結婚する予定も、つもりもないけれど。」
アナイスは、本題に入るのはいつだろう、とジリジリ待っていたが結局最後まで分からずに、狐につままれたような顔をしていた。
「何の話だい?だからあんたは一体何の用事なのさ?それをさっきから聞いているのに!訳の分からない話は止めておくれ!」
「あら、どこの何者だ?と聞かれたから、私の祖先の歴史をお話したのよ、これで私がどこの何者か分かってもらえたと思うの。」
「だから!植民地だった島で生まれた混血児のあんたが、ここに何しに来たのか、さっきから聞いているじゃないか!」
(分かり易い人種差別意識、これは劣等感の転化、警戒心は怒りに変わった。さあ、次は私の番ね。)
「植民地の混血児?ちょっと!それって差別表現だわ、取り消して頂戴!」
「・・・何だって?もう、あんた、帰っておくれ!これ以上訳の分からない話なんて聞いている暇ないよ!さっさと帰りな!」
「帰らないわよ、アナイス。私はあなたからエヴリーヌが今どこにいるのか、聞くまで帰らないわよ」
「ええ?何だって??・・・・・・・・ああ、さては・・・あんただね?あのキストンから来た女が言っていた“探偵”ってのは・・・・それで、一体何を探っているのさ?お門違いだね、さあ、とっとと帰っておくれ!」
今度はアナイスが話を逸らしてはぐらかす番だ、とタルティーヌはイチかバチかの勝負に出た。
「その通り、質問をはぐらかして失礼したわね、それはそうと・・・ねえ、
アナイス?私と取引しない?エヴリーヌの居場所を教えてくれたら・・・調査料金の何割かをあなたにあげる。エヴリーヌの生死は私にはどっちでもいいの。とにかく発見するのが私の仕事だから。依頼主に報告完了した時点で、私はお金が貰えるから、あなたに現金で支払うわ。料金の二割、それでどう?」
眉をひそめてタルティーヌを見ていたアナイスが立ち上がった。
「まあ、とにかくお茶でも飲んで、ゆっくり話そうよ。何だか良く分からないからねえ、もう少し説明してもらわないと。さて、あたしはお茶を用意してくるから、あんたはここで待っていておくれ。」
(・・・取引に乗る気なし、動機は金銭絡みじゃない、じゃあ、怨恨?復讐?さあ、どうする?)
タルティーヌは、高まる緊張を和らげるために深呼吸しながら、打つ手を早急に考え始めた。
先程の剣幕とは打って変わったアナイスが色の剥げた茶瓶と縁の欠けた小さな茶碗を持ってタルティーヌに笑いかけた。
「ヴァニラ風味のお茶だよ、あんたが気に入ると良いけどね。」
(・・・ヴァニラ⁉)
タルティーヌが料理学校の生徒だった頃、授業の課題で食中毒の事例を図書館で調べた事があった。その時、過去の新聞で、ある植物の誤食事故で死亡に至った事件の掲載記事、多数の者がその植物を口にして死んだ例を読んだのだ。
「死亡例その一 バーベキューの肉の串にその枝を使用して肉を良く焼いて食べた四人が死亡、
バーベキューの最中に死ぬなんて・・・本人もご家族も、まさかって思うわよね。で、次は・・・
死亡例その二 野外活動で昼食の際、フォークの代わりにその枝を使用して食べた七人全員死亡、全員死亡・・・って、この毒はどれだけ強いの・・?」
タルティーヌは、強力な毒性を持ち、その花、葉、枝、生えている土にも毒が浸透し、その液に触れるだけでも皮膚炎を起こすという植物の存在を、この時初めて知った。
それは、彼女が子供の時から良く知っている綺麗な花、街路樹や庭に何げなく咲いている桃色の可愛い花だった。そして図書館からの帰り道、偶然その植物、“夾竹桃”を見つけ、恐る恐る花と葉の匂いを嗅いでみた。
(花の匂いはヴァニラに似ている、ちょっと甘い様な・・・。葉っぱは竹のような・・・・ツン、とした匂い・・・。)
タルティーヌは、料理人の務めとして、この時の夾竹桃の芳香を良く覚えていた。
そして今日、村の美容室から出た時に、ふと街路樹の夾竹桃を見てそれを思い出した。それからアナイスの家の庭にもある夾竹桃を見て、虎柄の猫が何故置き餌を食べないのか、その理由を考えていた。
「(これをどうしても飲ませたいのね・・・)ええ、ヴァニラは好きよ、私が生まれた島の名産品だもの。」
嬉し気にそう言ってタルティーヌは不安を隠し、茶が注がれた茶碗を持って口に近付けた。
「あっ 熱い!」茶椀が傾き、茶の液がタルティーヌの腕にこぼれた。
「ああ、ごめんなさい、私ね、猫舌なのよ。熱いお茶は苦手なの、実は。」
そう言って、こぼれた茶をハンカチで拭き取る振りをしたタルティーヌが腕を見ると、熱い湯がかかったせいにも見えるが、皮膚が明らかに赤く腫れて膨れ上がってきていた。
「いけない、火傷しちゃった・・・。アナイス、何か薬はない?赤くなってきたわ・・。」
「そんなもん、舐めときゃ治るさ、それより葡萄酒はどうだい?ここは葡萄酒の名産地に近いから、良いのがあるよ、取って来よう。」
アナイスはそそくさと奥の部屋へ行くと、そこからタルティーヌを呼んだ。
「ねえ、あんた、葡萄酒を置いてある地下の貯蔵庫を開けたいからさ、
手伝ってくれないかい?年寄りには重過ぎるよ。」
(毒入りのお茶の次が、地下の貯蔵庫か・・・単純な展開、でも動機が見えない・・・エヴリーヌが消えたのは・・・)
タルティーヌの心臓の鼓動が、どんどん早くなってきた。
(落ち着いて・・・考えるの、考えるのよ!)
その時、祖母ヴィクトリアの言葉が聞こえてきた。昔、腐りかけのムール貝を食べさせられたせいで、食中毒になり七転八倒しながら苦しんでいた時に言われた事だ。
「スザンナ、可愛いスージー・ウォン、良くお聞き、人が一番、強い力を出せる時はね、“死にたくない”って心から願った時だよ、身体の毒なんか、あっという間に消せる。あんたは、そんなちっぽけな毒にやられるのかい?そうじゃないだろう?さあ、やっちまいな!」
(そうよ、お婆ちゃん、どうして私がいつも被害者でいなきゃいけないの?)
“やっちまいな!”祖母の言葉を大音量で再生しながら、タルティーヌはアナイスの側に行き、 黙って彼女の言う通りに敷板を外し、葡萄酒用の貯蔵庫の扉を開けた。
アナイスは、にっこり笑ってタルティーヌに声をかけた。
「さあ、これで良い、悪いけど、あんた降りって葡萄酒を取って来てくれないかい?梯子を持って来るからさ。」
タルティーヌはグッと両肩に力を込めて俯いた。
「アナイス、私ね、閉所恐怖症なの。地下なんて駄目よ。とてもじゃないけど無理だわ。あなたが行けば良いじゃない、手伝うわよ。」
「何だって?ああ、もう!やかましいね!四の五の言う、この女!私の邪魔はさせないよ!とっとと消えな!」
般若の面を被ったように叫ぶアナイスに、タルティーヌは髪を掴まれ、引き倒された挙句、腹を蹴り上げられ、痛みに呻いているところを更に蹴られて、あっと言う間に地下に突き落とされた。
アナイスは例によって“ズシン!”という音を聞き、安堵したように扉を閉めた。
地下室の床に、両手で頭を抱えて背面から落ちたタルティーヌは、打ち付けられた肩と背中を撫でながら起き上がり、上着のポケットをまさぐってペン型の電灯を取り出した。
(ああ、肩が痛い!!脱臼したかもしれない・・・あのお婆さん、力一杯蹴ってくれたじゃないの、 どこもかしこも痛いったら!)
祖母ヴィクトリアの言葉の魔法、タルティーヌの頭の中には、“やっちまいな!”という声がまだ響いていた。
(ここは一体何の部屋・・・?真っ暗で何にも見えやしない・・・それにこの匂い!黴臭い!貯蔵庫なんかじゃないわよね、絶対に!)
痛む肩を撫でながら、タルティーヌはペン型電灯で何も見えない暗闇の向こう側を照らした。するとぼんやりとした薄明りの中に白い塊の様に見える何かが床全体に横たわっているのが見えた。
祖母の言葉で発奮していたタルティーヌの顔が一気にこわばり、喉の奥から、声にならない喘ぎが出てきた。