タルティーヌ・キュイジニエ その2
翌日の早朝タルティーヌが、橙色の袖なしのミニドレスに生成り色の上着を羽織ってボウボワ村のシモーヌのいる家を訪問した。
涼しい朝の心地よい睡眠を邪魔されたシモーヌはアンジェリクを抱いて、不機嫌そうにタルティーヌを迎え入れ、細かい質問に眠気眼で答えた後、彼女を見送って再び朝の惰眠を貪った。
シモーヌは昨夜アナイスが昨夜訪ねてきた事をタルティーヌに報告しなかった。忘れてしまった訳ではなく、シモーヌにとってそれは特に重要な事柄ではなかったからだ。
キストンでは、昼夜を問わずシモーヌの店や自宅に彼女の友人やその友人達がひっきりなしに訪れ、他愛ない話をして帰っていく、帰らない事もある、だからエヴリーヌの知り合いであるアナイスの訪問は、シモーヌにとっては特別な事ではなかった。
それにタルティーヌはシモーヌに、こう尋ねたりしなかった。
「昨夜、ここに誰か来ませんでしたか?」と。だから、シモーヌは今、タルティーヌにすべてを任せて安心して眠りについたのだ。
シモーヌの家を出た後、タルティーヌは村の中心部にある役所で過去の官報を調べ、それから煙草屋兼喫茶店に入った。
注文した砂糖抜きの薄荷入り紅茶を飲みながら、ぎっしりと文字が書き込まれた業務用の手帳を読む振りをして、店内にたむろしている客の様子を観察した後、通りの奥にある鄙びた美容室に入った。
店の中は無人で、客用の椅子はたった一つだけだ。タルティーヌが「こんにちは」と声をかけると、奥から一人の女性が現れた。
「・・・・予約なしじゃ、出来ないけどね。お客さん、ここの人じゃないね。
旅行中?それとも他の用事かい?」
(よくある反応、警戒指数は七から八。)
タルティーヌは自動的に村人の反応を数値化し、聞き込みの難度を推し量った。
(見知らぬ人間を警戒する、ごく当たり前の反応・・・まずは売り上げへの貢献から・・・。)
「ええ、何だか急に髪が切りたくなって。それに色も少し変えたいの。
今朝、洗髪する時間が無かったから、出来たら念入りに洗って欲しいの、
お願いできるかしら?」
タルティーヌは、それらすべての施術にかかる時間をざっと二時間だと見積もった。
(二時間、充分ね。料金は経費で計上するから問題なし。
さて、仕事の開始だ・・・。)
突然入って来た予約なしの客の希望を聞いて、浮かない顔だった女性の声が少し変わった。
「洗髪料金は別になるけど。それと染毛と散髪だね。じゃ、ここに掛けて。どの位切る?お客さんの髪は縮れ毛だから・・・・とにかく染めたい色を、ここの色見本を見て決めて。今ある染料で出来ると良いけどね・・・。)
タルティーヌは後でまた変えるつもりで鳶茶色を指さした。
「この色、これが良いわ。」
「ああ、これ、今、在庫がないから。こっちの甘栗色ならあるけど?」
タルティーヌは微笑みながら頷いた。不愛想な美容師が髪を洗っている間、タルティーヌはずっと、様子を伺っていた。
(喫茶店は男専用で入る隙なし、美容院は噂話の宝庫だから何十年分もの村の噂話が聞ける。残り時間、二時間を切った。)
むっつり黙っていた美容師が退屈に飽きた様にタルティーヌに話しかけてきた。
「ところで、お客さん、旅行者なのかい?こんな辺鄙な村、観光もできないのに・・・。」
「あら、観光地なんて人ばっかり多くて疲れるだけよ、こういう昔ながらの家屋が残っている平和な田舎の村が好きなの。観光案内書なんて無視、“人生で見た一番美しい景色は、寄り道して見た景色だ”って。
誰が言ったのか知らないけど、私もそう思うの。」
「ふうん・・・。そんなもんかねえ、あたしは大して遠い所に行ったことないから、よく分からないね。」
タルティーヌの計算機が動き出した。
(警戒指数七から五。)
「そう?生まれた場所にずっと留まっているのも人生を楽しむ方法じゃない?だって、より深くその土地や人間の事が分かるもの、私の祖母がそうだったわ、生まれた島から出た事ないの、だから何でも知っていて何でも教えてくれた、ああ、優しい好いお婆ちゃんだった・・・。」
「そうかねえ・・・。そんなに好い人ばっかりなら、さぞ楽しいだろうね。
ここじゃ、そんな訳には・・・。」
それから美容師は押し黙ってタルティーヌの髪を染める準備をして、
ゆっくり作業を始めた。
「それじゃ、あなたもこの土地の事、よく知っているでしょう?珍しい習慣とか、ここでしか通じない言葉とか、例えば私が生まれた島では、赤ちゃんが生まれるとヴァニラの花を頭に乗せるの、それから・・・音沙汰もなく帰ってこなくなった人の事を“火山に喰われた”って言うのよ。」
「へえ、火山に?変だね、お客さん、どこの島から出てきたのさ?」
タルティーヌは、楽しそうに明るく彼女が生まれたインド洋に浮かぶ小さな火山島の話をした。
「何だか、楽しそうだねえ、そこは。明るくってさ、一度は行ってみたいよね、ただ海辺でのんびりして、たらふく食べてさ。お客さんは何だって、
そんな好い所から出て行ったのさ?」
「仕事の為よ、島は観光業が盛んだけど、私は別の仕事がしたかったの。」
「へえ、で、何の仕事だい?」
「料理長よ、レストランで働いているの。星付きの。」
美容師は感心したように眼を丸くした。
(残り時間、あと一時間・・・。)タルティーヌはさらに楽しそうに、レストランでの失敗談や有名人に会った話を続けて美容師を楽しませた。
その話はタルティーヌが過去に料理人だった頃の経験に、少し脚色を加えた実話だったから、染毛が終わる頃には美容師の警戒心はほとんど零になった。
「さあ、お次は散髪だよ、どの位切ろうか?あんまり短くしない方が良いよ、三,四センチ切る位にしときなよ、その方が似合うから。」
「そうね、そうするわ。」
気を良くした美容師は、今度は自分の番だと思ったのか、彼女が生まれ育った、この村の話をし始めた。歴代の村長の話や、村のお祭り、戦時中の事・・・、しかしタルティーヌが知りたい内容の話題は一つもなかった。
そこでタルティーヌは戦術を直接話法に変えた。
「ああ、そうそう、話の最後になっちゃったけど、私、この村の出身者に知っている人がいるのよ、 その人に聞いてここにやって来たの。私の店によく来てくれる画廊主で、ベアトリス・ドゥクロワって人だけど。あなたは知っている?」
「ベアトリス?・・・ああ、エヴリーヌのことだね、一応この村の有名人だよ。・・・・こんなこと、お客さんに言って良いのか分かんないけどさ・・・。」
そして“これは皆が知っている事”と前置きをして、戦時中から戦後
エヴリーヌがこの村を出て行くまで、それから妹のジョーゼットの物語をテレビのドキュメンタリー番組で放映できるような臨場感たっぷりの口調でまくし立てた。話し終えた後、ちらりと言った一言をタルティーヌは聞き逃さなかった。
「可哀想に、アナイスからは逃げられなかったのさ・・・。」
そして、また暗い顔になってタルティーヌの髪を乾かし始めた。
(よし、約二時間で計算通り、聞き込み完了。次へ行くわよ。)
タルティーヌは甘栗色に染めた新しい髪型に、とても満足した事を美容師に伝え、その場を去った。その足で役場に併設されている郵便局に戻り、電話帳でアナイスと名の付く住所を虱潰しで探したが目当ての名は見つからなかった。
(電話帳に氏名を載せたがらない・・・のかもしれない。と、なると聞き出すしかない・・・。でも役場関係は無理・・・・。)
探偵の仕事の大半は“聞き込み”だ、とタルティーヌは信じていた。警察官の様に手帳と令状を見せて、合法的に情報集めが出来る訳ではない。
だから彼女は徹底的に話を聞く、ただ聞くだけではない、話す人の選ぶ言葉、表情、話し方、表現の仕方、手振りや身振り、すべてを観察して、その背景を読み取り整理するのだ。
タルティーヌは、そのやり方を“玉ねぎの皮むき”と呼んでいた。
「玉ねぎの皮は向いても、向いても、芯は出て来ない、向いている間に涙が出てくる。真実ってやつは、そんな感じでよく分からん。」
上司のジェラールが、探偵業を始めたばかりのタルティーヌに、何げなく言った一言だった。
それまで彼女は、とにかく真実を暴く為に躍起になるばかりで空回りしていた。料理人から探偵に転職して人生をやり直したかったのに、何かが止まったままで動かなかったのだ。
ジェラールに出会うまで、タルティーヌは超過労働の毎日で、レストランを開店させることだけが希望だった。
その開店資金を当時の恋人に持ち逃げされて警察に届けようとしたが、持ち逃げ、つまり盗まれたという事実の証明がなければ窃盗罪として成立しないと、届け出は受理されなかった。
それならば探偵に、と頼ったのがジェラール・レフレだった。今から約十五年前のことである。
結局、恋人のみが発見され、タルティーヌの開店資金は使い込まれて無くなっていた。
その後、立ち上がれない程の気鬱に悩まされていた時に、ジェラールから寝物語のついでに口説かれて、彼の助手に抜擢されて料理人から探偵へと職業を変えた。
今では、行方不明者の捜査、浮気調査、素行調査など、ほとんどの依頼を彼女が担当することになった。
ジェラールは働き者の助手がいるお陰で、事務所で何かを飲み食いするか、元警視だった縁故で顔が利く警察署に電話をかけて、誰彼構わず長々と話をするのが日課になった。
タルティーヌとジェラールは一時期、一緒に暮らしたこともあったが、タルティーヌの心が次第にジェラールから離れていき、彼も敢えて追いかけもせず、現在の二人は上司と部下、あるいは雇い主と雇用者という関係で、少なくともタルティーヌに恋情は残っていないようだった。
関係が終わった後、長い年月を経た今でも、ジェラールは性懲りもなくタルティーヌを時折、思い出したように誘ったりするが、いつもタルティーヌにはぐらかされて空振りに終わった。
忙しそうなタルティーヌの顔を見る度に「お前、何か食ったのか?もっと食え」と本気で言って、わざと彼女の細い体をからかったりもした。
しかし摂食障害を抱えていたタルティーヌにはどんな慰謝も響きようがなかった。彼女が料理人として働き出した頃は、拒食症患者専用の食堂を開業するのが夢だったのに、働くだけで精一杯の日常が彼女の夢を泡の様に消し去ってしまった。
タルティーヌが料理学校に通う間に、思春期の頃の様に絶食した後、食べ吐きする行為を消すことはできたが、ジェラールのように食べる事を心から楽しむには、何かが欠けたままだった。
「太りたくない」というのが彼女の口癖で、いつも体型に敏感に反応して少しでも太った、と感じると不安の波に飲み込まれそうになる。だから彼女は言い訳を用意し、自分自身を宥めながら生きてきた。
給料のほとんどを新しい洋服代に使い、いつ何時でも上から下まで完璧にお洒落して細身の体型を維持するのだ。
そしてタルティーヌは自分に言い聞かす、「これを全部食べちゃったら、新しく買うスカートがきつくなるじゃない?」
そして買い物をする為に洋服屋に向かうのだ。
洋服代の為に月賦に追われて、激務を強いられることになったが、タルティーヌには、食べ吐きの辛さより買い物依存症の方が数十倍もましだった。
だから、タルティーヌはすべての依頼をほとんど一人でこなし、どんどん給料を上げて買い物する服の数を増やしていった。今回の件も、決して安い料金ではない、総額費用はタルティーヌの一月の給料の何倍にもなる額だ。タルティーヌは次の買い物計画を目標に、何としても任務を遂行しなければならないのだ。
役場兼郵便局を出たタルティーヌは、広場で営業中の精肉店のトラックを見つけ、店主ににこやかに話しかけてアナイスの家の所在を聞き出した。
それから約二十五分歩き、アナイスの家をやっと探し当て、目的地の前で立ち止まった。
(古い石造りの家、所々石壁が崩れている・・・・。窓は閉まったままで、窓辺に花も飾っていない・・・家主は余程無精なのか、家の手入れをする金銭的余裕、あるいは時間自体がないのか・・・)
考え込んだタルティーヌの側に大きな虎柄の猫が一匹近付いて来て、タルティーヌの足にじゃれつき始めた。
「あら、何て大きな猫、あなた、お腹が空いているのね?ごめんね、私何にも持ってないのよ・・・。」
タルティーヌは村の広場まで戻って精肉店で猫の餌を探そうかと思い付いたが、店主が営業は午前中だけだと言っていたのを思い出した。
(今から戻ったら、お昼過ぎになるわね・・・。あ、そう言えば、美容室で猫用のお皿を見かけた、あそこに戻って頼んでみよう。このまま放っておけないものね・・・。)
そう決めて歩きかけた時、アナイスの家の玄関脇に丸い容器に入った置き餌が見えた。
「あら!あるじゃないの、ここの家主さん、意外と親切ねえ。さあ、猫ちゃん、いらっしゃい。あそこにご飯があるのよ?」
だが猫は近付こうともしない。タルティーヌの足元で、くねくねと身体を動かしているだけだった。
(お腹が空いてないのね、きっと。)
タルティーヌは、せめて餌入りの容器を猫の側に持って行ってやろうと、玄関脇まで行って容器を取り上げた。その時、ふわりと生暖かい風が揺らいでタルティーヌの手元を通り過ぎ、猫の餌の匂いが漂って来た。
(・・・・何?この匂い・・・最近の猫の餌って、こんな匂いなの?・・・
ううん・・・ちょっと待って・・・。)
タルティーヌの頭の中で、その昔耳にした親切なお婆さんの話が蘇った。毎日公園で鳩に餌をあげていた親切な老女が孤独死した。
その後、死体と共に発見された遺書の中に“鳩にあげた餌は毒入りでした”と書いてあった、という話だ。
(猫が食べたがらないのは毒入りの餌だから・・・?可能性有り、美容師が言った“アナイスから逃げられなかった”の意味と結びつけると・・・じゃあ、エヴリーヌは今どこに??)
タルティーヌは目の前の、色の剥げ落ちた古い玄関を見つめ、上着のポケットに“非常用備品”として常備している水入り容器、非常食用ビスケット、ペン型懐中電灯が入っていることを確認し、扉を叩いた。