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第32話 タルティーヌ・キュイジニエ その1

タルティーヌ・キュイジニエ  その1


1970年、残暑の眩しい日差しが、ようやく秋の気配に変わった頃、シモーヌはベアトリスから預かった黒猫アンジェリクを連れて、ベアトリスが滞在している筈のボウボワ村にやって来た。

ベアトリスがアンジェリクを連れてシモーヌの自宅にやって来た日から、三週間が過ぎようとしていた頃だった。

滞在先の住所を、きちんとシモーヌに知らせて、毎晩電話するから、と言い残して行った筈なのに、“到着した”と連絡があったきり音信不通になってしまった。

シモーヌはこれまでも、ベアトリスが仕事で旅に出る時はアンジェリクをよく預かっていたものだった。その際、ベアトリスは毎晩のようにアンジェリクを恋しがって電話をかけてきた。

それなのに、今回は何の音沙汰もないままで、気の長いシモーヌもさすがに心配になってきた。

何より心配になったのはアンジェリクがほとんど何も食べなくなり、日々やつれて衰弱していくことだった。

シモーヌは、その姿を見て放ってはおけず、すぐに獣医に診せたが、その獣医は内臓には何の問題もないと診断した。

「恐らく、飼い主をとても恋しがっているのでしょう。

猫は話せませんから絶食することで意志を伝えようとしているのかもしれませんよ。ですが、このまま飼い主に会えずに何も食べない日が続くと、点滴するしか栄養補給の方法がありませんね。

でも、長期間は続けられません。

この子の場合、飼い主さんからの愛情が一番の栄養でしょうね。」

獣医に、そう言われたシモーヌは、アンジェリクをベアトリスに会わせなければ死んでしまうと思い詰め、すぐにキストンを去った。車を走らせ続け、やっと目的地に着いた頃アンジェリクはぐっすり眠っていた。

「アンジェちゃん・・・こんなに痩せちゃって・・・。」

シモーヌは泣きながら、軽くなったアンジェリクを蓋付きの籐籠に入れ、食事用の陶器の食器とアンジェリク用の特注用足し器を持って、ベアトリスの実家に辿り着いた。

そこにベアトリスがいるかもしれない、とシモーヌは願掛けするように玄関を叩いたが、何も返答はなかった。とっさに扉の取手を引いてみたら、それがすんなりと開いた。

「ベアトリス?あたしよ、シモーヌよ、アンジェちゃんを連れて来たの。もう可哀想で・・・。」

入った部屋の中には誰もいなかった。シモーヌは嗅いだことのないツンとした香りを感じたが、 特に気に留めず、そのまま家の中を歩き回った。籠から出てきたアンジェリクも部屋から部屋へ走り廻っていた。

「アンジェちゃん、心配しないで。あたしが絶対にベアトリスを見つけるから。大丈夫よ。」

アンジェリクはシモーヌを見つめて、ぴくぴくと耳を動かした。

その後、シモーヌは再び車を走らせてシィランドルに向かった。警察署で「捜索願」を出す為だった。

しかし、シモーヌは署内で担当者から「行方不明者捜索願」は友人という立場では届けられず、家族や身内以外で届け出が可能なのは、雇用主か監護者、あるいは恋人か婚約者のみだと教えられた。

何としてでもベアトリスを見つけ出したいシモーヌは、同性愛の恋人だと嘘を付いて目的を果たそうとしたが、警察官に恋人しか知り得ないような、ベアトリスの肉体的特徴を問われて、答えに詰まってしまった。

その上、届け出を出しても、すぐに捜索されるとは限らず、優先される順番として、まず子供、病気の老人、次に誘拐や事故に巻き込まれた可能性が高い場合や自殺の恐れが大いに考えられる時、さらに精神的な疾患で他者を傷つける疑いがある場合で、これらの緊急性に該当しない届け出は、ほぼ捜索はされないのだ、と説明された。

(ベアトリスは、どれにも当てはまらないじゃないの・・・自殺?有り得ないわよ、可愛いアンジェリクを残して・・・。)

シモーヌは意気消沈して警察署を出た後、街の大通りを地に落ちたような気持で歩いていた。

そして、ふと見上げた建物の壁に“レフレ探偵事務所・行方不明者捜索・発見の達人”と書かれた看板があるのを発見した。

(ああ、これ、これ!すごいわ、映画みたいじゃないの!)

シモーヌは手放しで喜ぶと、何も考えずに建物に入り、探偵事務所がある三階まで駆け上がった。

そして、ふうふう、と息を弾ませながら事務所の呼び鈴を鳴らし、待ちの姿勢になった。

まさに気持ちが舞い上がる瞬間だった。

その後一分位経ってから、扉を開けて出てきたのは、猛牛の様な体格の大きな男性だった。

「こんにちは、奥さん、ようこそいらっしゃい。さあ、入って下さい。さあ、さあ!」

映画に出てくるような、粋な背広を着込んだ好男子が出てくると本気で期待していたシモーヌは再び、さらに深い地の底に落ちた気分になったが、飼い主を待ちわびるアンジェリクの姿を思い出して気を取り直した。

「こんにちは。あの・・・看板に書いてある、行方不明者発見の達人ってあなたのこと?」

「ええ?まずはお話を伺いましょう。奥さん、その椅子に座って、さあ、落ち着いて話そうじゃありませんか。まずはお茶でも入れましょう。ああ、美味いチョコレートがある、一緒にいかがです?」

そうして、身長約百九十センチの大男と約百五十センチの小柄なシモーヌが、チョコレートをモグモグと口に運びながら、語り合ったのだった。

「なるほどね、それであなた、シモーヌ・ルメルシーさんのご友人のベアトリス・ドゥクロワさん、本名エヴリーヌ・ドーファンさんからは、この三週間、音沙汰一切なしで彼女の滞在先であるボウボワ村の家は無人だった?」

「そうです。おかしいでしょう?彼女は真面目で神経質な性質だったから、連絡なしなんて・・・こんな事初めてで・・・。」

「了解しました。じゃ、この件は私の助手の女性に担当させましょう。

同じ女性なら話しやすいし、打ち明け話もあるでしょうから。

おい!タルタル!仕事の依頼だ!」

(タルタル・・・・?そんな名前なの?)

訝るシモーヌの前に出てきたのは四十代から五十代、いや三十代位にも見える女性で、黒い髪に渋茶色の瞳、褐色の肌に涼しそうな真珠色の薄手のシャツを着て珊瑚色の短いタイトスカートを履き、小枝の様に細い脚を見せていた。

「初めまして、タルティーヌ・キュイジニエです。お話は隣室で聞かせていただきましたから。早速ですが、この件を調査する場合の調査方法と、それに掛かる料金を説明いたします。」

そう言ってタルティーヌは静かに説明し始めた。彼女の上司であるレフレ氏は、うんうん、と頷きながらチョコレートを食べ続けていた。

シモーヌはタルティーヌの口調と外見に、探偵映画の片鱗を見つけて大いにやる気になり、提示された条件を承諾してベアトリスの捜索を依頼した。


その夜、探偵事務所から満足して帰宅したシモーヌがアンジェリクを抱きしめて子守唄を歌っていると突然、玄関を叩く音がした。

アナイスがやって来たのだ。

彼女は例によって村の伝達網からシモーヌの来訪を聞きつけ、夜も更けてからベアトリスの家を訪れた。

「こんばんは、夜分遅くに済まないね。あんた、エヴリーヌの友達かい?

いや、あたしはね、エヴリーヌの母親の親友だった女さ、アナイスと呼んでおくれ、ところであんたは?」

「こんばんは、アナイス。あたしはね、ベア・・・エヴリーヌの親友。シモーヌって呼んで頂戴な。さあ、入って。誰ともお喋り出来なくて寂しいって思っていたところなの。」

その時、アンジェリクがアナイスの足元にまとわりついて鳴き出した。

「おっと、こいつは何だい?ああ、あたしは猫が苦手でね、何だか鼻がむずむずするよ。悪いけど、外へ出しておくれよ。」

「あら、猫の毛が駄目なのね、でも、この猫は外に出せないの。隣の部屋なら大丈夫よね、この子はとってもお行儀が良いから。」

隣室に追いやられたアンジェリクは、それでも耳をピクピクさせながらアナイスを見ていた。

「ふうん・・・何だってこの黒猫はあんなに耳ばっかり動かしているのさ?

どこか悪いのかい?」

「きっと何かが聞こえるのよ、前にラジオで、猫の耳って八メートル離れた蟻の巣に蟻が入る音まで聞き分けるって、人間の耳で聞こえない音、超音波っていうのが聞こえるって言っていたもの。」

アナイスは、そんなことよりシモーヌがエヴリーヌを探しに来たことが気に入らなかった。

(今エヴリーヌがどこでどうしているか、この女に分かる筈もない、とにかく悪しき芽は早めに摘んでおいた方が良い。そうさ、それにしても、この黒猫は薄気味悪いったら・・・。)

「それで?エヴリーヌは?もうキストンに帰っているって思っていたけどね。」

「それなのよ、ねえ、アナイス、あなたエヴリーヌに会った?今から三週間ほど前の話だけどね、 ここに着いたのは分かっているの。でもそれから消息が分からないのよ・・・。」

「さあ、知らないねえ・・・来たのは知っているよ。誰かがエヴリーヌを見かけたって言っていたからね。キストンに帰った筈だよ?ここにはもういないと思うけどねえ・・・。」

「それが、帰っていないのよ、だから、あたしが捜しに来たって訳、でも一人じゃ無理だから今日、警察に捜索願を出しに行ったら何だかんだ言われて断られたのよ、で、頼みの綱の探偵さんにお願いしてきたの。“捜索の達人”なのよ、これが。」

シモーヌは映画の様な展開を期待して浮き立った気分だったが、アナイスはこの話を聞いて気分を大いに害した。

早々にシモーヌとの四方山話を切り上げると家に戻り、アナイスはしかめ面で床を見ていた。

(ねえ、オーギュスト、あたし達の仲を邪魔する奴が、また現れやがった。まったく、もう面倒臭いったら!!)

その頃、アナイスの家の外に一匹の猫が座っていた。虎模様の大きな雄猫だ。彼はアナイスの家に近付こうとはせず、うずくまっていた。

以前、彼の仲間だった猫が、アナイスの家の前で死んだことがあった。

餌に毒が入っていたのを知らずに食べてしまった猫だ。

それ以来、この虎模様の猫はアナイスの家から遠く離れた場所で、じっと何かを見つめるようになった。

彼はアナイスのいる場所から目を逸らさずに、静かに口を開けて人間には聞こえない音で鳴いた。


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