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032話 大聖女、正直に告げる

 冥王はレアラをお姫様抱っこしたまま、ゆったりとした足取りで寝室に向かっている。


 先ほどからレアラの心臓は早鐘のように鳴り続けている。


 氷の床を音もなく進んでいく冥王に聞こえていないだろうか。レアラは気が気ではなく、冥王の横顔を垣間見ては視線を下ろし、また上げてを何度か繰り返す。



「余の顔になにかついているか」



 今度は忙しく首を横に振る。


 挙動不審に陥っているレアラを楽しそうに見つめつつ、冥王は歩調を緩めなかった。


 レアラはいまだ思考が正常に働かない中、魔術に対する興味だけは失せていない。



「冥王様、お尋ねしてもよろしいでしょうか」



 冥王が首を縦に振るのを待って、レアラは言葉を続ける。



「冥王様は滑るように氷の床を歩いておられます。そのせいか、私の身体は全く揺れを感じていません。これは魔術の一種なのでしょうか」



 しっかりと冥王の両腕でお姫様抱っこされているにもかかわらず、レアラは無重力の中にいるような錯覚を抱いていた。



「まるで浮いているようです」



 冥王は微笑を浮かべ、視線を下げた。



「そなたは本当に魔術が好きなのだな。ジェレネディエから聞いたが、余から魔術を教わることを楽しみにしている、というのは誠か」



 レアラ自身、願ってもないことだ。


 ジェレネディエによれば、九柱の中でも冥王の魔術は抜きん出ているとのことだった。


 もう一つ、思い出す。レアラの頬が再び赤く染まっていく。



「どうかしたか。頬が赤いな。身体が優れぬか」



 労りの声だ。


 レアラは心配をかけないよう、小さく首を横に振ってから答える。



「ジェレネディエ様のお言葉を思い出して、恥ずかしくなりました」



 冥王が怪訝な顔つきで尋ねてくる。



「なにを言われたか、聞いても構わぬか」


「ジェレネディエ様が仰るには、わたくしはジェレネディエ様に匹敵するほどの魔術馬鹿なのだそうです」



 途端に冥王の顔付きが変わる。それを見てレアラは慌てて言葉を付け加えた。



「いえ、大したことではないのです。さすがに面と向かって言われて、少しばかりへこみましたが、わたくし自身、多少なりとも自覚はあるのです」



 冥王がなにかぶつぶつ言っている。レアラは聞こえないふりをした。



「レアラよ、冥界の魔術は、人界のそれとは大きく異なるが、そなたが望むのであれば、余が魔術の手解きをしても構わぬ」



 冥王がここまでで一番と言ってもいいほどの微笑を向けてきている。


 レアラは小さく頷く。



「冥王様さえよろしければ、ぜひともお教えいただきたいです。ですが、冥王様はご多忙かと存じます。わたくしのためにお時間を割かせてしまうのは」



 レアラの言葉を遮って、即座に否定の言葉が返ってくる。



「なにを申す。余が愛しき妻の願いを叶えないわけがなかろう。寝室での話が終わり次第、最優先でそなたに魔術を手解きしようではないか」



 レアラは満面の笑みを浮かべ、冥王を見つめる。今この時は恥ずかしさよりも、嬉しさが勝っていた。




 寝室に入ってからというもの、さらに鼓動が大きくなっている。レアラはどうにか冷静になろうと深呼吸を繰り返している。


 冥王の足が止まった。


 室内を観察する余裕もない中、レアラは豪華な天蓋付きベッドに静かに下ろされた。


 覆い被さるようにして冥王の顔が近付いてくる。



 お互いの唇が触れるか触れないかの距離だ。


 刹那、冥王の唇は壊れ物に触れるかのように、そっとレアラの額をかすめ、離れていった。



「そなたの唇は先に取っておこう。そなたの返答をもらってから、ということだ。余は欲しいものは力づくで手に入れる主義だ。だが、レアラよ、そなただけは違う」



 レアラはようやく今の今まで呼吸を止めていたことに気づき、大きく息を吐き出す。


 火照った身体がゆっくりと冷めていく。



「そのまま寝ていて構わぬ。そなたは回復途上、無理をするでない」



 冥王が手をひと振り、何もない空間に氷でできた椅子が現れる。玉座とは打って変わって、華美な部分は一つもない。


 さすがに冥王と話をするうえで、寝たままというのは問題だ。


 レアラは上半身を起こすと、椅子に腰を下ろしている冥王を不思議そうに見つめた。


 レアラは無意識のうちに右手を伸ばしてみる。



「どうかしたのか。気になることでもあるのか」



 挙動不審と思われて当然だ。レアラは慌てて右手を引っ込める。



「い、いえ、申し訳ございません」



 レアラは右手を左手で押さえて、頭を下げる。



「レアラよ、ナーサレアロに言われなかったか。そなたは余の妻ぞ。そうそう頭を下げるでない。人界では美徳なのかもしれぬが」



 また頭を下げそうになって、レアラはなんとか踏み止まった。



「冥王様、その、距離が遠くはありませんか。わたくしを気遣ってくださるのは嬉しいのですが、その、もう少しお傍に」



 レアラは自身の口から発せられた言葉に驚くしかなかった。



「あの、はしたなかったでしょうか。わたくし、自分でもよくわかっていないのです」



 冥王はしばらくの間、俯き加減で左手を顎に添え、沈黙を守っている。



「あ、その仕草は」



 思わず口をついて出てきた言葉に冥王は反応、顔を持ち上げる。


 金色の瞳がレアラを見つめている。



「あの時の神々しい鳥さんの仕草です。わたくし、忘れもしません。冥王様の今のしぐさ、金色の瞳、わたくしが冥界で目覚めた時に見た美しい天井画、すべてが繋がっていくような気がします」



 冥王は黙ってレアラの言葉に耳を傾けている。



「冥王様、正直に申し上げます。わたくしくには、恋愛がどういうものなのか理解できません。聖女として活動する中で、よく聞かされました。恋愛に溺れる。さぞや情熱的なものなのでしょう。ですが、わたくしが恋愛に走れば、ここまでの聖女の庭園フィレニエムでの生き様を自ら否定してしまうようで恐ろしいのです」



 レアラの肩が小刻みに震えている。


 立ち上がった冥王がゆっくりと近づいてくる。



「レアラよ、そなたの思うがままに生きてみよ」



 冥王は遠慮がちにレアラの隣に腰を下ろした。



「酷な言い方になるかもしれぬが。そなたの大聖女としての生は一度幕を下ろしたのだ。二度目の生は、心の赴くままに生きてみるのもよいのではないか。無論、余は強制せぬが」



 レアラの肩を優しく抱き寄せ、頭を撫でる。



「泣きたくば、泣くがよい。余の胸を貸そう。そして、そなたが余を愛するようになるまで、いつまでも待ち続けよう。余にとって、時間などないにも等しいのだからな」

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