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1-2. 偶然か運命か、死の前日

意識が戻ったとき、三崎晴翔はまず自分の呼吸の音を聞いた。息を吸い、吐く。その一つひとつが、なぜか奇妙に鮮明だった。胸の上下に合わせて、全身の神経が微かに震えている。頭を起こすと、そこには大学の講義室のような空間が広がっていた。だが、どこか違和感があった。机の配置も、窓から差す光の角度も、見える風景も——記憶の中にある「今」とは少しずつ異なっている。


目の前にはパンフレットが開かれていた。《2022年度 新入生ガイダンス日程》。晴翔は目を凝らし、日付の欄を確認した。4月3日。まるで時間が巻き戻されたように、彼は三年前の春へと戻っていた。


脳内で過去と現在の記憶がせめぎ合う。彼は確かに数時間前、2025年の世界にいた。SNS上で“自分の葬式”が拡散されていた。あの異様な情報、あの電話、そしてあの瞬間的な落下感。すべてが脈絡なく、記憶の断片として頭の内側に張り付いていた。


しかし今、自分の手元には三年前のパンフレットがあり、右手には見慣れた古びたスマホが握られていた。今はもう型落ちのモデルで、2023年には機種変更したはずのものだ。恐る恐るロック画面を開くと、そこには“2022年4月3日(日)9:02”と表示されていた。ホーム画面のアイコン配置も当時のままだ。壁紙も、いつだったか撮った春の河川敷の写真。大学に入る直前の、自分が未来に対してまだ期待を抱いていた時期のものだった。


心の奥に重い水がたまり始める。もしこれが夢でないとしたら、なぜ自分は三年前に戻されたのか。なぜ“葬式”を見た直後に、この過去に立っているのか。誰かが仕組んだ幻覚なのか、それとも——


椅子から立ち上がると、身体は確かに軽かった。2025年の今より少しだけ筋肉の張りが残っており、背中に特有の疲労感もなかった。三年間の記憶が、身体の感覚として剥がれ落ちているような不思議な違和感が、皮膚の表面を撫でていく。髪もまだ短く、爪もきれいだった。細部がすべて過去へと戻されている。だが、内側だけは“未来の三崎晴翔”のままだった。


講義室を出ると、廊下には同じ新入生たちが行き交っていた。緊張と期待が入り混じったような顔。キャンパスマップを手にしながら、誰かに尋ねたり、スマホで位置を確かめたりしている。まるで新生活に胸を躍らせているかのようだった。彼らの中に、自分がかつていたのだと思うと、どこか痛々しささえ感じた。


構内を歩くうち、風景がさらに現実味を帯びてくる。見覚えのあるベンチ、かつて頻繁に通ったコンビニ。まだ建設中だったはずの新棟が、まだ鉄骨のままフェンスの中に囲まれていた。三年前の大学構内が、記憶と寸分違わぬ形で再現されている。いや、これは再現ではない。過去そのものだ。


構内の掲示板には、新入生歓迎会の告知が貼られていた。そこに記された日付は2022年4月6日。記憶ではその日の夜、彼はサークルの誘いを断って、一人で帰宅していた。特別な選択をしたわけでもなく、ごくありふれた、意味のない一日だった。だが今、その一つひとつの選択が、まるで将棋の一手のように重く感じられる。


スマホを取り出し、カメラを起動してみる。映ったのは、今の自分の顔。2025年の頃より少し幼いが、それでも“見慣れた”顔だった。つい数時間前まで、葬儀の写真で見た“死んだ自分”とは確かに違っていた。


彼はふと、自分の部屋へ戻ることにした。アパートは大学から徒歩十五分の場所にある。当時、初めて一人暮らしを始めたばかりの小さな部屋。鍵もそのまま使えた。靴箱には、履き古したスニーカーが並び、部屋の中はあの頃の匂いがした。無頓着な掃除の癖、カーテンの隙間の癖、机の角のすり減り具合、すべてが“そのまま”だった。


ベッドの脇には、今はもう見かけなくなった旧型のノートパソコンが置かれていた。電源を入れると、遅い起動音とともに、過去の自分がアクセスしていたブラウザの履歴が立ち上がる。そこには、「自己紹介の書き方」「大学生 友達できない」といったキーワードが並んでいた。


このとき彼は、初めて確信した。


これは単なる夢ではない。何らかの理由で、自分はこの時間軸に戻されたのだ。


では、なぜ? あの“死の知らせ”が引き金だったのか? それとも、あの意味深な電話? 記憶を手繰るほどに、現実のような感覚が強まっていく。だが、理由は一切わからなかった。


机の上には、一枚の写真があった。それは高校の卒業式の日に撮った集合写真で、今となっては関係の薄くなった友人たちが笑って並んでいた。その中に、一人だけ、見覚えのない少女が写っていた。記憶にないのに、なぜか懐かしいと思ってしまうその顔。彼女だけが、カメラを見ずに少し斜めを向いて笑っていた。


誰だ——?


疑問を胸に抱えながら、彼は写真の裏を確認した。そこには小さく、「透子と、最後の春」と書かれていた。


透子。記憶にない名前。なのに、名前の響きにどこか引っかかるものがある。遠くで風が吹いたときのような、懐かしさと切なさが入り混じった感覚が胸の奥に湧き上がる。


そのとき、不意にスマホが震えた。画面を見ると、着信は“非通知”だった。また、あの電話かもしれない。恐る恐る応答ボタンを押すと、今度は少女の声が聞こえてきた。


「覚えてないかもしれないけど……私は、君の未来にいた人間だよ」


声は穏やかだったが、どこか切実だった。


「この世界はループしてる。君はその中心にいる。だけど、忘れたままだと、また……同じことを繰り返すだけ」


「……誰なんだ、お前は」


「答えは全部、自分の中にあるよ。透子」


名前が途切れる直前に告げられたその言葉に、晴翔の背中はぞわりと粟立った。通話は、またしても一方的に切れた。だが、今度は残っていた。発信履歴に、“透子”という名前が。


これは偶然なのか。それとも、必然なのか。


運命という言葉にすがるには、あまりにも現実味を持った“過去”が、彼の目の前には確かに存在していた。

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